壺中の天 13
「おはようございます、店長さん!」
「ああ、おはようハナさん」
「今朝はお鼻がおかしくなっちゃったのかなと思いました。やっぱり小豆を煮ているのですね」
「おはぎを作ろうと思ってね」
「おはぎ」
「ほんとうは九月の彼岸に作っておけばよかった。黒猫亭に来る学生の多くは親元を離れて暮らしているのだから、たとえば彼岸のおはぎ、たとえば端午の節句のちまき、そんな行事食も恋しかろう。そんなことを思い立ってね」
「すごい……」
ハナちゃんは頬を染め、手を合わせて感動している。
「来年の春の彼岸には忘れずにぼた餅を作ろう」
「はいっ!」
「それでな、ハナさん」
「はいっ!」
「ハナさん、君はいつ寝ているのだね」
笑顔で大きな口をぱかっと開けたまま、ハナちゃんは固まってしまった。
「この頃、夜に出かけているね。それでいてきちんとこうして朝に起きてくるのだからたいしたものだが、そのうち体を壊すぞ」
「あの……、その……」
「お酒の匂いもさせていることもあるようだ」
「あ、いえ、酔うほどには……」
「私は人の気配に敏感なんだ。これからはもっとうまくやろうと考えても無駄だぞ」
「……ごめんなさい」
「君のことだ。夜遊びではないと思いたい」
「夜遊びではありません。これは遊びではありません。事件解決のためです」
「例の陸軍中佐の事件かね?」
「はい」
「あれは狂言少年の自死で終わったのではなかったかね」
「違います。いえ、警察の事件としてはそれで終わっていますが、私の勘がそれだけじゃないと言っています。この事件はまだ終わっていない。事実はまだ揃っていない、そう言っているんです」
「それを調べるのは君の仕事ではない」
「でも、私、知りたいんです!」
店主は溜息をついた。
そして遠い目をしてハナちゃんを見つめたのは、店主の若き記憶を追っていたのだろうか。今でも胸が疼くあの日々を。
「年を取ってもなにもわかろうとしない者は使い物にならないが、若い頃にわかった気でいる者はもっと使い物にならない。ハナさん――」
「はい」
「君は今、その時代を走っているのだね」
なにかを知りたくて。
なにかを掴みたくて。
「くれぐれも体を壊すことがないようにしなさい」
店主が言った。
「そして危険なことに近づいてはいけない。自分で思うほど人は危険を前にしてうまくやれるものではない。危険を感じたら猫のように敏感になれ。すべき事は逃げることだ。とにかく危険に近づくな。好奇心はその猫をも――」
「――殺す」
「――そうだ」
「御前もおっしゃっていました」
「御前に会ったのかね!?」
「はい、素敵な車に乗せて頂きました。それに、銀座のれんが亭さんのメニューを制覇する権利も頂きました」
店主はやれやれと苦笑いを浮かべた。
「そうかね」
自分より背が高い人に変装するのは、背が低い人に変装するより楽だ。
幸い、鶴形中佐は長身というほどでもなかった。
口に綿を含み、化粧を工夫する。私の髪がモダンガール風に短いのは別にオシャレしたいわけじゃない。長い髪が変装の邪魔になる事が多いからだろうという選択だ。
そして、変装はただ見た目じゃない。
相手をよく知り、よく分析する。冷静に見ると違うとわかっても、その人の雰囲気を完全に捉えていれば人は騙されてしまうものだ。そもそも人は、それほど物事をはっきりと見ているわけではない。
陸軍将校が通うバーで鶴形中佐を知るグループを見つけ、彼の話題を誘い出す。スケベ親父の酒とたばこ臭い息を我慢して作り上げたのがこの変装。
ゴメンナサイ。
店長さん。私はいま、自分から危険に飛び込んでいます。
首をかしげ、軍帽の鍔の下に皮肉な笑いを浮かべる。
気取って二本指の敬礼を飛ばす。
西山圭介退役軍医は全身を震わせた。
「鶴形!」
陸軍将校の姿の男はマントを翻し、西山に背を向けて走り始めた。
「待て、鶴形! おまえはこれ以上、おれになにを求めると言うんだ!」
西山はあとを追った。
「貴様が西山圭介か」
階級章をみると陸軍中尉のようだ。
その男は不遜な笑顔を浮かべおれの前に立った。
「西牟田軍医少佐殿から貴様も清崎出身だときいた。おれと同期というのかな、まあ同い年らしいぞ」
殊更、陸士で使うらしい「貴様」でおれを呼ぶ。
おれの上司の名前を使う。
鼻持ちならない俗物だ。
医専入学と同時に食うために軍医に志願したおれだ。特別な出世欲などありはしないが、こういう上昇志向の強い男と繋がりがあるに越したことはない。それに同郷ならなおいいじゃないか。そういえば中学にいたかな、こんなやつ。
まあ、愉快なやつだった。
如才ない。
人をくすぐるのがうまい。そんな世渡りのうまいやつが、おれのようななんのツテも持たない男を重要だと思うわけがない。鶴形只三郎は熱心に藩閥に取り入り、順調に出世し、おれのことは忘れたようだった。地元ではいつの間にか軍神にまでなったらしい。地元のお殿様の姫を嫁に貰ったのには驚いたが、そういえば結婚式には呼ばれたし、子供の顔を見せて貰った覚えはある。
そして、あの夜。
あの男はおれの下宿の玄関を叩いたのだ。
「西山、いるか。おれだ」
数年会ったこともないのにおれの下宿を知っているのか。ああ、そういえば結婚式の招待状が届いたじゃないか。でもそれだけだ。
「おれだ、鶴形だ」
感情のぶれのある声ではなかった。
しかし、それが竹屋敷におれを引きずり込んだのだ。
「鶴形!」
西山が叫んだ。
「なら教えろ、教えてくれ! おれはどうすればよかったと言うんだ!」
髪は乱れ、いつものダンディさはとうにない。
「やはり」
と、そんな西山の耳に届いたのは澄んだ少女の声だ。
「私がまだ知らない事実があるのですね」
その声は目の前の陸軍将校から発せられている。西山は呆然とその姿を見た。ぜいぜいと自分の息が荒い。ずいぶん走らされたらしい。
「君は誰だ、なぜ鶴形の癖を知っている」
「鶴形中佐の癖を知っているのはあなただけはありませんよ」
陸軍将校は軍帽を取った。
さらりと流れたのは短めに切りそろえられた黒髪だ。
「君は――君はたしかあの時の雑誌記者だな」
「あら、この薄暗いなかで私の顔を判別できるのですか。それはそれで、私の変装技術の未熟さを指摘されているようで悲しいですね」
「私になんの用だ」
「私は平井華子」
と、ハナちゃんが言った。
「雑誌記者ではありません。あれは私の変装。もちろん陸軍将校でもありません。これも私の変装。私はただの平井華子。事実を知りたいだけの素人探偵です」
「事実――」
「そう、事実。夜歩く殉死せし帝国軍人の謎。これはただ想像力が豊かで孤独な少年が引き起こした事件ではない。私もはじめはそう考えていましたが、それだけでは事実が揃わない。なぜ彼は主のいない屋敷に上げてもらえたのか。その後も追い出されずにそこで過ごしたのか」
「――やめろ!」
「ボトルシップ、ボトルの中だけの世界。少年は自分が作り上げた世界でその世界を本当の世界だと思って生きてきた。だけどもうひとり、同じようにボトルの中の世界で生きていた人がいたのでしょう」
「やめるんだ!」
「きっとそれは、鶴形美彌子。鶴形中佐の娘さんです」
キラリ。
光が走った。
しかし、その光が斬り裂いたところに、すでにハナちゃんの身体はない。
「あっ」
ハナちゃんの腕を掴んで引っぱった人物がいる。今まで闇の中で気配を消していたのだが、ハナちゃんの危機に素早く飛び出してきたのだ。
その人影はステッキで西山の手を打ち、メスを叩き落とした。
「往診でもあるまいし、常にそんなものを持っているのかい」
その人影が言った。
その声は。
「御前!?」
「そうだ、ぼくだ。藤田くんに釘を刺されたはずだぞ、危険に近づくなってさ。平井ハナちゃんは忠告をすぐに忘れるらしい。ま、それを見越してのぼくの登場だ。どうせ放蕩息子は暇だからね」
おっと、と御前は西山にステッキを向けた。
「動くなよ。新選組を知っているかい。ぼくの剣術はその三番隊組長直伝だぜ」
はったりではないらしい。
一撃で手の甲を折られてしまった。中手骨骨幹部骨折。これではなにもできない。
「雑誌に書くのか?」
手を押さえうずくまったまま、西山が言った。
「書きません。ですから私は雑誌記者ではありません。あれは変装です」
「ああ、君を正式な遊軍記者として冗談社に登録しておいたよ、ハナちゃん」
「えっ!」
「書くのか!」
「ですから書きませんっ!」
「証拠はなにもないのだぞ!」
「そもそも美甘さんと美彌子さんが同じ人たちだと推理しただけで、それ以上は私にもなにもわかりません。でも――」
西山は顔を上げない。
「ありうることとして」
西山を気にしながらも、御前も振り返って背に守っているハナちゃんを見下ろした。
「鶴形中佐は」
ハナちゃんが言った。
「殉死などではなかった」
■登場人物紹介
平井 華子
16歳。早稲田大学前のミルクホール黒猫亭の女給。好奇心旺盛。
小川 健作
早稲田大学文学部英文科一年生。長身で悠然としている。
相馬 昌治
早稲田大学文学部英文科一年生。小柄で落ち着きがない。
店主
黒猫亭店長。初老だが長身で剣の達人。そしてケーキ作りの達人。
御前
自称放蕩息子。大金持ちの御曹司。
鶴形 只三郎
陸軍中佐。明治帝崩御に殉じて腹を斬る。
鶴形 美彌子
鶴形中佐の一人娘。
西山 圭介
陸軍軍医少佐。鶴形中佐の同郷の友人。
美甘 森太郎
陸軍士官学校を目指す書生。




