壺中の天 11
ボトルシップとは、多くの場合、洋酒などのボトルの中に帆船の模型を組み立てたものだ。小さな口からどうやって模型を入れたのか、その不思議さとロマンが人を魅了する。
もとより人はミニチュア――箱庭を愛するもののようで、神仙の桃源郷を再現した中国の占景盤、占景盤をもとに大正期に生まれたと言われる盤景、鉢植えでありながら雄大な自然を夢想させる盆栽。また少し後の時代の小林礫斎。自分の手の平に世界を再現し、自分だけのものにしたい願望が人にはあるのだろう。
それで言えば、まさしく壺中。
ボトルの中に帆船を再現したボトルシップは究極の箱庭と言えるのかもしれない。
平井華子、小川健作、相馬昌治の三人は、自称放蕩息子の御前に銀座の百貨店で開かれていた世界のボトルシップ展に連れて行ってもらい、内外の愛好家による見事な作品の数々を楽しんだ。
そしてその翌朝。
夜ごと町を歩く殉死せし陸軍中佐の謎を引き起こした美甘森太郎少年が、割腹自殺したのが発見されたのだった。
「ああ、昌治、戻ったのか」
下宿の二階の窓から健作が声をかけた。
「すまんが塩撒いてくれ。ここに直接来たんだ」
昌治は東京のお寺で開かれた美甘少年の葬式に参列してきたのだ。町議である父親からの「余の名代になって参列すべし。美甘参与の力になってやれ」とのお達しだ。美甘少年は東京で荼毘に付され骨となって地元に帰り、もういちど家族だけで葬式を営むのだという。
「おつかれさま。いや、おつかれってこういう時に使ってもいいのか?」
「山伏の息子だろ。そういうの詳しいんじゃないのか」
「親父は山伏でも、おれは山伏じゃない」
下宿の台所で塩を見つけて体に撒いてやると、昌治はふうっと息を吐いた。
「今度は美甘くんのお父さんから貰った」
昌治は風呂敷包みを持ち上げた。
「山のほまれだ」
「おまえの町、ほんとにそれしかないんだな」
「うるさいよ。乾き物だから長持ちするので重宝されるだけだ。行こうぜ、黒猫亭。ハナちゃんがおれの話を待ってる」
「いらっしゃい、相馬さん、小川さん」
今日は日曜日で黒猫亭は休みだ。
入り口のドアの閉められたカーテンから顔をのぞかせてハナちゃんが言った。二人を入れたあと、また鍵を掛ける。すべての窓のカーテンが閉められていて、店内は薄暗い。非日常の中にいるというのが少しドキドキする。目の前にはあこがれの美少女がいるのだし。しかも彼女もいつもの女給さん姿ではなく洋服の普段着だ。かわいい。
「それで」
しかし、すぐにコーヒーを運んできてキビキビとテーブルに並べたハナちゃんは、自分も椅子に座ると言ったのだった。
「なにかありましたか、美甘さんのお葬式」
ハナちゃんの好奇心の前では、思春期のドキドキを味わう隙も与えてもらえない。
美甘森太郎が竹屋敷で自殺した。
鶴形中佐と同じく腹を斬って。
夜歩く殉死せし陸軍中佐。東京にその怪異をもたらした少年の死にゴシップ誌は飛びつき推測記事と号外を乱発した。一方、冗談倶楽部は増刊の発行をとりやめ、じっくりと事件を追う方針に変えたらしい。もとより平井華子遊軍記者の竹屋敷侵入レポートは美甘少年の死によって吹き飛んでいる。
「記者の数は少なかったよ。そろそろ飽きてきたかな」
昌治が言った。
「さすがに自殺者を出した事件で不謹慎に盛り上げられないだろう」
健作が言った。
「いや、でもむしろチンピラみたいなのが残っててさ、寺の寺男たちも気が荒いもんだから山門で小競り合いになってたよ」
「葬式なのにな」
「そこにやってきたのが鶴形のお嬢さんさ」
「え、彼女も参列したのか」
「人力車から降りたところで記者がどっと集まるじゃないか。どっとてほどもいないけどさ、とにかく傍若無人なのがさ、わっと。そしたらさ」
「下郎!」
健作とハナちゃんは眼をぱちくりとさせた。
「刃までは見せなかったけど懐剣をすっと逆手に取り出してさ。『下郎!』『寄らば斬ります!』。チンピラも一瞬足を止めてさ。で、我に返って騒ぎ出した頃にはお嬢さんはさっさと山門の中さ。寺男たちがすぐにお嬢さんを守る壁になってさ、あれはあざやかだったよ。やっぱり武士の娘だね」
さみしい葬式だった。
参列者は沈痛な顔でなにも喋らない父親。昌治。そしてお姫さま。
「わたしが言ったこと、お父さまに伝えてくれましたか?」
ハナちゃんが言った。
「伝えた」
昌治が言った。
もし鶴形中佐からの手紙が残っているなら、その封筒の消印を調べてみてください。
美甘少年の父親が昌治のその言葉を思い出したのは、地元での葬式を終えて数日後。そろそろ整理して踏ん切りを付けなくてはと美甘少年の部屋に入った時の事だった。
鶴形中佐からの手紙は森太郎少年の宝物だった。
中佐から手紙が届く度に森太郎少年は得意そうにそれを父親の前で読み上げたものだった。
文入れはすぐに見つかった。
消印を調べろだったか。なんだろう、日付に規則性でもあるのだろうか。それがいったいなんだというのだ。むしろ早世した息子の思い出の感傷に浸り、熱心に手紙を調べていたとは言えない父親は、しかしやがてそれに気づいた。
慌てて、ぞんざいに消印を確認しただけで横に置いた封筒をとりあげる。
まさか。
これはいったいどういうことなんだ。
二三通どころじゃない。いつまでもさかのぼることができる。違う消印を見つけることができたのは、やっと一通目。中佐からの最初の手紙だ。二通目からはすべて同じ消印なのだ。傾きも擦れも同じ。ただ日付だけが違う。もちろんそれは、鶴形中佐が殉死したあとから届いた手紙も同じだ。
もうひとつのことにも父親は気付いた。
一通目と二通目の間にはひと月。しかし、三通目までは半年以上間が空いている。そしてそれからは一月毎の間隔に戻っている。
「森太郎――」
成績は良かった。
ただ、引っ込み思案で人見知りして友達もいないようだった。外で遊ぶことも少ない子だった。その森太郎が、その日、祖母だけが待つ家に走って飛び込んできたというのだ。
「ぼく、鶴形只三郎中佐に声をかけていただきました!」
以来、森太郎は変わった。
成績は更に伸び、しかし勉強ばかりではなく外でよく遊ぶようになった。友達だと何人かの少年を連れてきたときには祖母は嬉しくて泣いてしまったという。それだけの自信を与えてくれた鶴形中佐。目標を与えてくれた鶴形中佐。しかしその鶴形中佐は、ほんとうはたった二通で森太郎に飽きたのだ。以来、森太郎は自分で中佐の代わりをしていたのだ。
「森太郎――」
父親の目から涙があふれた。
「森太郎――」
つらくはなかったのか。
虚しくはなかったのか。
それなのにおまえは東京に出たのか。待つ人はもとよりおらず、しかもその彼が殉死したあとで、なおおまえは。なぜ――。
父親は歯を食いしばり、泣き続けた。
「伝えてよかったのかな」
昌治が言った。
「もしかしたら、私の推理が間違っているのかもしれません。しかし殉死の後の手紙の謎の答はそれしかないと思います」
「もちろんそうだろう」
健作が言った。
「だけど、美甘くんにとっては誰にも知られたくなかったことなんじゃないだろうか。父親にだって」
「私は息子になったことも父親になったこともありません。だけど父親として自殺を選んだ息子の真実は知っておきたいだろう、私はそう考えました」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
昌治が慌てて片手を前に出した。
「最終的に伝えたのはおれだ。父親になったことはないがおれは息子だ。親父の息子だ。ハナちゃんが直接取材するとか手紙を出すとかではなく、言伝をおれに託したのはそういうことだろう? それでおれは考えたんだ。あの日、美甘くんは『冗談倶楽部の記者さん』に事実を伝えようとした。きっと彼は推測が残るのはいやだったんだ。だからおれも親父さんにそれを伝えることにしたんだ」
「ごめんなさい」
「そうだな。おれもそう思う。悪い、余計な事を言った」
「小川さんもごめんなさい」
ハナちゃんは思う。
相馬昌治も小川健作も、美甘少年の一人芝居や手紙の摸造が始まったのは鶴形中佐の殉死からだと考えているのだろう。でも、それはきっと違う。そして少年の父親が後に見つけるように、ハナちゃんの推理は当たっている。
ずっと長い間、少年は自分だけの世界にいたのだ。
自分だけの壷、自分だけのボトルの中にいたのだ。
二人には内緒で、そして店主さんにも内緒で、ハナちゃんは別の手段で鶴形只三郎陸軍中佐のことを調べている。そこで見えてくるのは美甘少年が語る中佐とは別の顔をした中佐だ。だけど少年は、自分が愛して自分を愛してくれた中佐がいる世界の中にいたかったのだ。
「ボトルシップなんです」
ハナちゃんが言った。
「たぶん、ボトルの中の世界でしか生きられない人たちがいるんです。誰にも邪魔をされず、自分で作り上げた小さな世界の中でしか生きられない人たちがいるんです」
昌治や健作にはわからない。
■登場人物紹介
平井 華子
16歳。早稲田大学前のミルクホール黒猫亭の女給。好奇心旺盛。
小川 健作
早稲田大学文学部英文科一年生。長身で悠然としている。
相馬 昌治
早稲田大学文学部英文科一年生。小柄で落ち着きがない。
店主
黒猫亭店長。初老だが長身で剣の達人。そしてケーキ作りの達人。
御前
自称放蕩息子。大金持ちの御曹司。
鶴形 只三郎
陸軍中佐。明治帝崩御に殉じて腹を斬る。
鶴形 美彌子
鶴形中佐の一人娘。
西山 圭介
陸軍軍医少佐。鶴形中佐の同郷の友人。
美甘 森太郎
陸軍士官学校を目指す書生。




