壺中の天 10
「さて」
と、御前がコーヒーを持ち上げた。
銀座でいちばんの洋食店。
食べ終えた皿は片付けられ、昌治に健作、そしてハナちゃんの前にもコーヒーだ。
「君たちはそれを見たわけだ」
御前が言った。
「この車は世界で一番速い。どこへでも連れて行ってやるぞ」
御前に声をかけられ、「まず、なにか食べたいです」と言ったのは昌治だ。
たしかにお昼を食べ損なっている。健作とハナちゃんのおなかも鳴った。しかし昌治ってのは、体は小さいのに物怖じしないと健作は改めて感心した。ああ、まさはるだったか。
「しょうじでいい」
昌治が言った。
「ずっとそれで通しているんだし」
なんでそんな面倒なことをはじめたのかというと、お宮参りで神主に間違えられて以来なのだそうだ。
「じゃあそれ、おまえ自身がしょうじとしか知らないんじゃないか」
「そうだよ。だからしょうじでいい。家族は皆そう呼ぶし、おれだってあとから知って驚いたくらいだ。読み仮名必須の書類の時だけだよ、おれがまさはるになるのは」
相馬家というのは不思議な一家のようだと健作は思った。
昌治の言葉と健作とハナちゃんのおなかの音に大いに笑った御前が三人を連れていったのは、洋食屋「れんが亭」。
健作と昌治も名前くらいは聞いたことがある。
「これがディナーなら料亭やレストランに連れて行ってあげるところだが、今の君たちにはすぐにおなかいっぱい食べられるのがいいだろう」
そう言われましても。
なんだかおしゃれなお店でお客さんもおしゃれで、学生服の田舎者はじゅうぶんに気が引けてしまう。しかも店員は、御前の顔を見るなりフロアマネージャーらしき店員に取り次ぎ、四人は三階の個室に案内されてしまった。
「好きなものを選びたまえ」
メニューを渡されてもなにがなんだかわからない。
田舎者ふたりはハナちゃんの様子をちらりと見た。ハナちゃんはメニューを食い入るように見つめている。
よし、そうしよう。
ふたりは決めた。
ハナちゃんが注文したものにしよう。
ハナちゃんならやってくれる。ハナちゃんなら格好がついて食べやすくて美味しい料理を選んでくれる。きっとだ。必ずだ。
「わあ、知らない料理ばかり!」
だめでした。
しょうがない、それなりに食べ慣れたライスカレーにしよう。噂のハヤシライスでもいいや。でもメニューを見るハナちゃんの顔は好奇心に輝いている。
「これ、全部食べてみたいです!」
いやいやいや。
御前は声をあげて笑った。
「よろしい、平井ハナくん。店主に言っておくから、銀座に出たときにはこの店で好きなように注文しなさい」
「ありがとうございますっ!」
「全メニュー制覇の報告を楽しみにしているよ。今日のところは店主ご自慢のカツレツにしておこう。カツレツを食べたことは?」
「何度か。でも店主さんお勧めならぜひ!」
「君たちはどうだい?」
田舎者二人は首を横に振りかけて、慌てて縦に振った。
食べたことはないです。
でもぼくらもそれでいいです。
「よし、決まりだ。この子たちにカツレツを。ぼくにはカヒーだ」
やがて運ばれてきたカツレツなる洋食に、昌治と健作は目を見張った。
揚げたてだ、いい匂いがする。カツレツに添えられた千切りキャベツ。ごはんは皿に盛られている。ハナちゃんを盗み見てフォークとナイフの使い方を確認すると大きなカツレツを切り分ける。一口食べると別世界だ。柔らかい。かけられている液体の調味料も甘くてピリ辛でカツレツによく合っている。
美味しい。
下宿の賄いとは比べものにならない。昌治と健作のフォークとナイフが止まらない。
「すごく美味しいです」
うっとりとハナちゃんが言った。
御前はコーヒーを手に楽しそうに笑っている。
「さて」
そして御前が言った。
「君たちはそれを見たわけだ」
美甘少年は鶴形中佐の書斎だという部屋の障子に手をかけた。
そして障子が開かれた。
その部屋にはだれもいなかった。
机がひとつ。良く整理され掃除された部屋でしかなかった。しかし美甘少年は誰もいない机に向かって楽しそうに話しかけている。時にはクスクスと笑って。ハナちゃん、そして健作と昌治は中庭からそれを呆然と見るしかなかった。
一人芝居なのか。
それとも彼には見えているのか。聞こえているのか。
ハナちゃんは後を盗み見た。
背が高い人は西山圭介軍医だろう。その隣には鶴形中佐の一人娘、美彌子さん。奇妙だ。西山軍医は美甘少年を見ていない。隣の美彌子さんの反応を窺っている。そして美彌子さんは悔しそうに唇を噛んでいる。
「お父さま」
と、美彌子が澄んだ声をあげた。
美甘少年が動きを止めた。
美彌子は体を折り曲げ、深々と頭を下げた。
さらさらと、結っていない髪が背中から流れた。
「ごきげんよう」
表情のない顔を上げ、美彌子は中庭に背を向けて歩きはじめた。慌ててあとを追おうとした西山軍医だったが、立ち止まりハナちゃんを指差した。
「冗談倶楽部だと言ったな! 今日のこれを無責任に記事にするようだったら――」
「冗談倶楽部の記者さんは」
と、美甘少年が言った。
「憶測も脚色もなしに、見たままを記事にすると約束してくださいましたよ」
約束はしていない。しかし。
「私にも記者としての誇りがあります」
ハナちゃんが言った。
いや、記者じゃないだろう。黒猫亭の看板娘だろう。
それともやっぱり実は年上の職業婦人なのか? そうなのか? 昌治と健作は蚊帳の外だ。
「事実だけを記事にすることを私はお約束します。ただ――」
「ただ?」
美甘少年が言った。
「ただ!?」
西山軍医が言った。
「まだ事実が揃っていない。私はそう考えています」
ハナちゃんが言った。
「夜ごと町を歩く殉死せし陸軍中佐の謎は、結局は少年のひとり遊びだった」
御前が言った。
「だが平井ハナくんはそうじゃないと見ている?」
「いいえ、殉死したはずの陸軍中佐の正体はそれでいいと私も考えています。実際に美甘森太郎さんの一人芝居も見たのですから。たぶん、夜に歩いていたのも彼でしょう」
「殉死したあとに届いた鶴形中佐からの手紙は?」
昌治が言葉を挟んだ。
「自作自演」
ハナちゃんが言った。
「検証は必要ですが、鶴形中佐の筆跡を真似て自分に手紙を書いたのです。消印も筆跡同様に模写したのでしょう」
「消印を?」
「私だってそれくらい出来ますよ」
さらっと言う。
「だから美甘森太郎さんと鶴形中佐の間で交わされたという手紙をすべて見てみたい。きっと日付だけが違う、色やカスレ方が同じ消印のものがあるはずです」
「手紙をすべて見てみたいというのは」
健作が言った。
「動機を知りたいから?」
三人の会話を口の前で手を組み聞いていた御前は、じろりと視線だけを健作に投げた。
「そうです。鶴形中佐が生きているようにする手段はいくらでも思いつきます。でも思いつかないのは――」
「なぜそれをしたのか」
昌治が言った。
御前の視線が昌治へと動いた。
「そうです。鶴形中佐という強力な後ろ盾を失うのは大きいですが、だからといって士官学校に合格できないわけじゃない」
「それどころか、こんな一人芝居が発覚したら合格どころじゃない。だいたい――」
健作が言った。
「ふむ」
ここで御前が声をあげた。
「相馬昌治くん、小川健作くん。君たちのことも店主に言っておく。この店で好きなように食べていいぞ」
「あ、はい?」
「あ、ありがとうございます――え?」
ていうか、今、しょうじと発音しなかったか。
このひと、おれたちのヒソヒソ話を聞いていたのか。地獄耳だな。
「ただし、平井ハナくんのお伴をしているときだけだ。好奇心は猫を殺す。君たちはこの好奇心の姫をしっかりと守るんだ。いいか、騎士道精神だぞ」
「はあ」
「はあ」
御前はにっこりと笑うと席を立ち、帽子かけからハンチング帽を手にして被った。
「ところで、ぼくはこれから『世界のボトルシップ展』を観に行くつもりなんだが、君たちもどうだい?」
あっと健作が目を丸め、ハナちゃんは飛び上がった。
「わあ、それ、すごく見たかったんです! ありがとうございます、御前!」
「それで、平井ハナくん」
「はい」
「揃わない事実というのはなんだい?」
「それは――」
御前の言葉にハナちゃんは考え込んだ。
あの時。
竹屋敷で。
彼らは反応したのだ。
「事実が揃っていない、ですか?」と美甘少年が。
「事実が揃っていないだと!?」と西山軍医が。
ほんとうは、もうほとんど見えていると思うのです。
でも、まだひっかかることがあるのです、御前。
そして月曜日の朝。
美甘森太郎少年が台所の包丁で割腹自殺をしているのが竹屋敷で発見されたのだった。
■登場人物紹介
平井 華子
16歳。早稲田大学前のミルクホール黒猫亭の女給。好奇心旺盛。
小川 健作
早稲田大学文学部英文科一年生。長身で悠然としている。
相馬 昌治
早稲田大学文学部英文科一年生。小柄で落ち着きがない。
店主
黒猫亭店長。初老だが長身で剣の達人。そしてケーキ作りの達人。
御前
自称放蕩息子。大金持ちの御曹司。
鶴形 只三郎
陸軍中佐。明治帝崩御に殉じて腹を斬る。
鶴形 美彌子
鶴形中佐の一人娘。
西山 圭介
陸軍軍医少佐。鶴形中佐の同郷の友人。
美甘 森太郎
陸軍士官学校を目指す書生。




