壺中の天 1
大正元年、九月十三日。
去る七月三〇日に崩御された明治帝の大喪儀が執り行われた。同日、夫人とともに乃木希典陸軍大将が自刃する。
殉死。
その報は大きな驚きを持って内外に伝えられた。
「嘘だ、そんな……」
北陸道の片隅でも少年が体を震わせている。
自室で勉強をしていると、役所に勤めている父親が新聞を持ってきてくれた。そしてその記事をみせられたのだ。戦神乃木大将の殉死の報ではない。それは一面トップを飾っている。その記事に隅に追いやられてしまった小さな記事だ。
鶴形只三郎陸軍中佐モ殉死カ?
この雪国の小さな町出身の、日清、日露戦争の英雄だ。
「どうする」
父親が言った。
少年は父親を見上げた。
「おまえは彼を追って陸軍士官学校に行くつもりだったのだろう。鶴形くんがおまえの後見人になってくれるはずだったのだろう。どうする」
「手紙を書きます」
「どこに」
「鶴形中佐どのに」
父親は虚を衝かれたようだ。
「なんだって?」
「きっと嘘です。この記事は間違えている」
「役所に届けられる新聞のほとんどに同じ記事があった」
「お父さんもいつも言ってるじゃありませんか。新聞は嘘ばかりだ、困ったものだと。手紙を書きます。そして鶴形中佐どのがまだご健在なのを確かめます」
「森太郎」
「来いといってくれたんだ。楽しみにしているといってくれたんだ。鶴形中佐どのが約束を違えるはずはない!」
「森太郎」
「嘘だ――!」
―― 1 ――
鶴形只三郎陸軍中佐は北陸道清崎三万石の藩士の子として生まれ、日清戦争では大尉として従軍し戦功を上げて英雄の一人に数えられた。
戦場での鬼神のようなはたらき。
平時での人が変わったかのような穏やかさ。
そのコントラストが上層部から面白がられ、かわいがられ、藩閥出身ではない軍人としては順調に出世していると言ってよかった。国元の小藩清崎藩としてはそれを期待し見込んだのか、軍功への褒美か、元藩主松岡家の末娘と元江戸中屋敷を鶴形中佐に与えた。一二〇石の藩士の子としては婿に入ったようなものだが、さすがに松岡の家名を名乗ることは許されなかったようだ。
また、このとき嫁入り道具代わりとして与えられた中屋敷も小藩として相応な質素なものではあったが、それでも当時まだ少佐で若い鶴形青年には荷が重かったはずだ。しかしここで鶴形中佐の異能が発揮されることになる。
藩閥からかわいがられるということは、軍における出世だけを指すのではない。
またこの結婚の経緯を知れば清崎藩もと藩主、この大正の世で言うならば子爵家からなにを期待されているかもわかる。しぜん情報が集まってくる。そしてその穏やかさや実直さを愛されながら、鶴形中佐には世を見る怜悧な眼が備わっていた。
――彼が食指を動かす事業に間違いはない。
そう目されるほどに投資家として成功を収めたのである。
「そういうわけで」
と、微笑んだのは鶴形美彌子。
振り袖に長い黒髪を背に流す。
鶴形中佐の一人娘である。
「母もとうに死に、父も死に、この家には私ひとり。でもこの家を維持し、私ひとり慎ましく暮らしていくのには困りません。たぶん死ぬまでは」
「しかしだね、美彌子ちゃん」
そう言ったのは西山圭介陸軍軍医少佐。
同郷同年代で鶴形中佐と親しく付き合ってきた西山軍医は、姪と呼んでもいいこの風変わりな美しい娘に困惑するしかない。
「この広い屋敷に君ひとりで住むというのか」
「通いの女中が何人かいます」
「それはわかっているが」
父親が割腹し、そしてかつて母親まで――。
そんな屋敷に君はこれからも住むというのか。
鶴形中佐が割腹した八畳間は血の海だった。腹を十字に斬り、しかし介錯する者がいなかった鶴形中佐は自分で頸動脈を斬った。畳を替え、建具を交換し、その痕はもうどこにもない。しかし第一発見者である美彌子がそれを忘れられているはずもない。
「この屋敷を出なさい。当分は女学校の近くに家を借りるといい」
「女学校はやめました」
そんな重要なことをさらりという。
そして何事もなかったように振り袖をゆらして竹深い庭を歩いていく。
「それは――なぜだね」
「あら」
振り返って美彌子は笑った。
「保護者のおつもりの西山のおじさまには、相談もなく勝手に決めたことが不愉快でしたか?」
「そんなわけではないが……」
この元江戸中屋敷。
もともと低地で湿気がたまり、江戸時代には放置されていたものだ。それを江戸末期の殿さまが自身の隠居後の住み家として改修したものだという。
塀の長屋を取り壊し。
屋敷を竹で囲み。
そして名付けられたのが「壺中庵」。もちろん壺中の天の故事による。結局その名は浸透せず、もっぱら竹屋敷と呼ばれるようになり、「壺中庵」の名はその酔狂なご隠居さまの号として通用するようになった。
たしかに竹屋敷だ。
江戸時代ままの背の高い竹が鬱蒼と茂る。
「壺中庵の死後、この屋敷はふたたび見捨てられたと聞く」
「そうです。それどころか御一新でいちど召し上げられたのに、すぐに元通り松岡家に下賜されました。使い道がなかったから。使い道、そんな無粋なことを考えるから。この壺中庵――竹屋敷はただ存在することが大切なのに」
与えられたわけではない。
持て余し、始末に困り、ただ娘婿に押しつけられた屋敷なのだ。
「美彌子ちゃん。君はこの屋敷を出る気は――」
「ごきげんよう、西山のおじさま」
美彌子が頭を下げた。
帰れ。
そう言っている。
あまりに高慢で、あまりにも気高く、まるで藩主松岡家の姫のようだ。そうだ、そもそもが母親がそうであり、本人も松岡家の血を引いているのだ。しかしとうに江戸の世は終わり、明治すら去り、今は大正の時代なのだぞ、美彌子ちゃん。
「また顔を出すよ」
西山軍医が言った。
「はい、ごきげんよう」
頭を下げたまま、美彌子は顔を上げない。
振り返り見る竹屋敷は都心のものだとは思えない。
まさしく壺中の天だ。
西山軍医は首を振り歩きはじめた。その西山軍医とすれ違った少年がいる。学ランにマント。はるか雪国で、鶴岡中佐殉死のニュースに嘘だと叫んだあの少年だ。
「あの」
と、少年は通行人を呼び止めた。
「鶴形中佐どののお屋敷は、あそこでよいのでしょうか」
鶴形中佐の屋敷には昔ながらに表札がない。それで困っていたらしい。呼び止められた紳士は眉をひそめた。
「そうですよ」
ほんの数週間前に切腹があった屋敷なのだ。
紳士はじろじろと少年を見た。
少年はにっこりと笑った。
「ぼくは鶴形中佐どのと同郷の美甘森太郎といいます。鶴形中佐どのにあこがれ陸軍士官学校に進むつもりです。この度は中佐どのの勧めで十二月の試験まで書生としてお屋敷に住まわせていただくことになりました。鶴形中佐どのには感謝してます」
「なんだって?」
紳士は目を丸めている。
「いや、君はなにを言っているのだね。鶴形中佐は――」
「ああ、そうか!」
少年は快活に言った。
「あなたも新聞の嘘を信じているのですね!」
「うそ?」
「鶴形中佐どのは生きておいでです。殉死というのは新聞の嘘だ」
「君は――たいへん無礼なことをいっていると私は思う。私にたいしても、鶴形中佐にたいしてもだ」
「ぼくは中佐どのから手紙を頂いたんだ!」
少年が言った。
その顔は晴れやかだ。
「あれは嘘だって! 新聞の嘘には慣れているが困ったものだって。くだらないこと言ってないではやく来いって。勉強を見てやるって。ぼくは数学が苦手なのですが、しっかり叩きこんでやるぞって!」
紳士は少年と屋敷の間で何度も視線を動かした。
そういえば。
確かに。
そう聞いただけで、私は鶴形中佐のご遺体を見たわけではない――。
「ありがとうございました!」
少年はまるでもう軍人になったかのように敬礼し、回れ右をして屋敷へと歩いていった。紳士はただ呆然とその姿を見送っている。
「ふふふ……」
踊るように庭を歩いているのは美彌子だ。
「さあ、これでやっと二人よ。この屋敷で私とあなたのふたりだけよ」
振り袖が舞う。
濃い色とはいえ、決して喪服とは呼べない。
「うふふふ……」
もう誰にも邪魔させないわ。
まずはあの部屋を元に戻しましょう。私とあなたの二人の部屋を。ねえ、壺中庵さま。
■登場人物紹介
平井 華子
16歳。早稲田大学前のミルクホール黒猫亭の女給。好奇心旺盛。
小川 健作
早稲田大学文学部英文科一年生。長身で悠然としている。
相馬 昌治
早稲田大学文学部英文科一年生。小柄で落ち着きがない。
店主
黒猫亭店長。初老だが長身で剣の達人。そしてケーキ作りの達人。
御前
自称放蕩息子。大金持ちの御曹司。
鶴形 只三郎
陸軍中佐。明治帝崩御に殉じて腹を斬る。
鶴形 美彌子
鶴形中佐の一人娘。
西山 圭介
陸軍軍医少佐。鶴形中佐の同郷の友人。
美甘 森太郎
陸軍士官学校を目指す書生。




