43 初めからすべて必要なかったらしい
開いた扉の奥はすぐに祭壇になっていた。自分が魔法使いではなくなった今、前のように即席の木箱は作れないから、それぞれ少しだけ切った髪をそのまま祭壇に乗せる。
「ウェーリターティス・シンプレクス・オーラーティオー・エスト」
祈りの言葉を唱えると、一瞬にして眩しい光に包まれる。何があっても離れないように、オスカーとつないだ手を強くにぎった。しっかりとにぎり返してくれるのが嬉しい。
光が収まったら、今度は、上も下もわからないような真っ白な空間にいた。
『来たか』
その声を聞くのは三度目だ。女性とも男性ともつかない混ざりあったような独特な音だけが頭に響いて、やはり姿は見えない。
「世界の摂理……、ムンドゥス……」
心臓がイヤな騒ぎ方をする。この声に紐づいている記憶にはイヤなものしかない。今度はどんな無理難題を押しつけられるのかと、身も心も構えている気がする。
大丈夫だと言うかのように、オスカーの手が力をくれる。
『魂のつがいよ。汝らはなぜまぐわらぬ』
「まぐわ……? え……」
突然何を聞かれたのかと思ったが、意味を理解して言葉を失った。
オスカーがため息をついた。
「セクハラだな」
「セクハラですね……」
『とらわれた夢の中から見ていたが、いくらでも機会も時もあったであろうに』
「見……? え……」
「待て。聞き捨てならないのだが? どこから……」
『我は全である。望むものは全て認識できるが故』
「相手が人間なら全力で目つぶしをしたい」
「オスカー?! あなたが本気でやったら失明しますよね?!」
「無断でジュリアのいろいろな姿を見ていたのなら当然の報いだな」
「あなたに魔法で洗ってもらっていたので、全部は脱がなくてよくてよかったです……」
『問いに答えよ』
「えっと……、そもそも聞かれている意味がわかりません」
『今はまぐわうとは言わなんだか。なぜ性……』
「言葉の意味はわかりますっ! そうじゃなくて、なんでそんなことを聞くんですか」
『魂のつがいは互いに全てを強く求めあうもの。その欲求に抗えるものではあらぬし、生命の繁殖に必要な行為に抗う理由もわからぬ』
「外側は見えていても考えや気もちは読み取れないんですね」
「ヒトは社会性の生き物だ。ヒトの社会での立場というのがある」
『その社会がない場にいたであろうに。先行きのわからぬ場、生命の危機がある場では欲求が強まるのが本来の生物であろう』
「えっと……、見たかったんですか? その、私たちがするの」
『是であり否である。行動観察の結果、理解できぬことを聞いたまで。ふむ。理解できぬと言えば、女』
「はい?」
『寝ぼけていた時には疑問に思わなんだが。なぜ汝は自らの魔法を捧げてまで、赤の他人の契約の書き換えを望んだ?』
また突然何を聞かれているのだろうとは思うけれど、さっきの質問と違って今回は答えやすい。理由は明白だ。
「赤の他人ではなく、私がグレース・ヘイリーの子孫だからです。……あなたに、大切なものをすべて奪われたから。二度とそうならないように」
声が震える。オスカーが守ろうとするかのようにそっと抱きよせてくれる。彼に甘えて、彼の香りで息をつく。
『ふむ? 記憶にない』
「時を戻したので」
『なぜそれを先に言わぬ。とく見せよ』
「え」
そこに姿はないはずなのに、いるような気配が強くなる。
少しして、世界の摂理の声色が変わった。
『我としたことが、これほど重大な見落としをしていたとは』
「見落とし、ですか……?」
『汝の中に契約者の印はないが故の疑問であったが。契約履行の証があるではないか』
「契約履行の証……?」
『うむ。汝は我の知らぬ時において、我とヒトの子の契約を履行したのであろう?』
「えっと……、そう、ですね……?」
時間を戻したことであの時間が自分以外の記憶からなくなっていて、世界の摂理の中にもないのなら、そういうことになるのだろうか。
『しからば契約は既に履行されている。その訂正は無効である。二重に対価を受けとるわけにはいかぬ故、汝の魔法は返すよりほかあるまい』
「え」
あまりに想定外すぎて理解が追いつかない。世界の摂理の言葉が終わるのと同時に体が熱くなって、体内に魔力が巡る感覚が戻る。
「ちょっと待ってください……、時間を戻していても、履行した事実は有効なんですか?」
『元より。魂に刻まれた事実は消えぬ。その我は言わなんだか? 「契約は履行された。以降、汝は自由である」と』
(言われたわ……!!!)
完全にその通りのことを言われた。けれど、時間を戻したから、すべてなかったことになっていると思っていたのだ。戻ってきても魔法が残っていたのと同じように、残るたぐいのものだとは夢にも思わなかった。
全身の力が抜ける。
「もっとわかりやすく言ってください……」
それが不可能な要求なのはわかっている。けれど、時間を戻しても有効だと知っていたら、今回いろいろと苦労する必要もガマンする必要もなかったのだ。文句のひとつくらいは言わせてもらいたい。
「フッ……、はははははっ!」
「オスカー?!」
唐突にオスカーが笑いだす。彼がこれほど声をあげて笑うのは初めてで、すごく驚いた。
「要は、初めからジュリアの心配は解決されていたわけか」
「ううっ、すみません……」
一番の被害者は彼だ。散々苦労をかけて巻きこんで、結果、何も必要なかったなんてひどすぎる。
「いや? 上々だ」
そう答える彼はムリをしているようではなく、いまだかつてないくらい機嫌がいい。
「世界の摂理。自分たちがここに囚われている理由ももうないはずだ。すぐに帰してほしい」
『ふむ。期待とは違ったがおもしろい余興ではあった。よかろう』
白い世界が、更に白く眩しくなる。たまらず目をつぶって、次に開いた時には見覚えがある場所にいた。
「……元の部屋、ですかね?」
「ああ。原初の魔法使いの魔力開花術式の部屋のようだな」
「あたたかいですね」
数日前にここに来た時は底冷えがしていたのに、今はホットローブを脱いでいてちょうどいいくらいだ。
「そうだな……。本来立ち入り禁止の場所だろう? ここに残っていたのに気づかれないよう、早めに出られたらと思うのだが」
「やってみましょうか、空間転移」
オスカーのうなずきを得て、つないだ手に軽く力をこめる。
「テレポーテーション・ビヨンド・ディスクリプション」




