10 ひとつだけのワガママ
小さく息をついて、オスカーが続ける。
「……なら、初日の今日は、魔法の属性などの基礎座学と、魔力を体内で巡らせて感じられるようになるまで、ということでどうだろうか」
「はい、大丈夫です。呪文を習うまでは、まだ魔法が使えないふりを続けますね」
「ああ。それがいいだろう。筋がいいと言われる人でも、最初のホウキの呪文を使えるまで一週間以上はかかるからな」
「そうでしたね……」
その辺りの細かいことは、もう昔すぎてよく覚えていない。
「クルス嬢には……、時を戻す前の記憶があるのだったな」
「……はい」
正直に答えた。彼に対してはもう今更、隠そうとしても仕方ないだろう。
「なら、フィン・ホイットマンの事件についても、起こると知っていたのだろうか」
「それは……、半分が『はい』で、半分が『いいえ』です」
「と言うと?」
「前の時は、私の知らないところで、単純な毒殺によって、フィン様とお見合い相手とメイドが殺されたんです。なので、お見合いを受ければ、それを防げるかなと思って」
オスカーが驚いたように目を見開いて、数度瞬いた。
「……フィン・ホイットマンを救うために見合いの話を受けたのか?」
「はい、もちろん」
答えて、ハッとした。
フィンとのお見合いについて、オスカーには何も言っていなかった。人命救助が優先して、彼がどう思うのかまで考える余裕がなかった。
(でも、あの時の私たちの関係で、それを言うのも変よね……?)
それで彼はお見合いの場にいたのだろうか。少しは自分のことも考えてほしいと言われるのだろうか。
そう思ったけれど、彼からは意外な言葉が返った。
「なんて危険なことをするんだ」
滅多に怒る人ではないのに、怒っているように聞こえる。
「あの……、ウォード先輩?」
「あなたは……、あなた自身の安全を、どう思っているんだ?」
今度はどこか嘆願するかのようだ。すごく悪いことをした気になってくる。
「その、毒殺だってわかっていたら、なんとかなるかなって。なんであんな大事になったのかは、私にもわかりません」
「……前の時とは違う結果になることがあるんだな」
「はい。私が言動を変えた分……と、そこから波及する範囲で、結構変わっているかと」
「なら……、毒殺ではなくなったのは、あの場にルーカスがいたからだろう」
「ルーカスさん?」
「ああ。お茶を運ぶメイドの様子がおかしいことに気づいて、到着する前に止めていた。残念ながらメイドは助けられなかったが」
「なるほど……」
それならつじつまが合う。
自分が他の令嬢の代わりにお見合いに行くことになった。そこにルーカスとオスカーが臨時の警備としてやってくる。『どくしんのルーカス』が、前の時には誰も気づかなかった異常にいち早く気づいて手を打つ。それによって、裏魔法協会が他の方法を取らざるをえなくなる。
筋は通っているけれど、ひとつだけ気になることがある。
「……ルーカスさんとウォード先輩が、私のお見合いの場にいたのは偶然ですか?」
わざわざ変装までしていたのだから、おそらくは偶然ではないのだろう。そうわかりつつ投げかけてみると、オスカーが耳まで赤くなる。
(かわいい……。って、そうじゃない)
「……いや。……すまない、ルーカスに焚きつけられて……。あなたの安全を守るためだと言われたのが大きいとはいえ、無神経だったと思う」
「そう、ですか……」
(私を守るために? 変装までして?)
彼の性格からして、それは真実だろう。それに、あの時は確かに、彼はその目的を最優先にしていた。
(……大好き)
気持ちが忙しくて何も言えないでいると、オスカーの申し訳なさが増していくように見えた。
「その辺りはいくらでも謝るが……。どうか、そんな無茶はもうしないでほしい」
「無茶、ですか?」
「危険だとわかっているところに一人で行こうとすることを、無茶とは言わないのだろうか」
「……そう、ですね。それは、無茶だと思います」
「あなたは……、自分に、生きていてほしいと言った。自分もまた……、そしてきっとあなたの両親も、あなたに同じことを望んでいるのを忘れないでほしい」
(あ……)
カッと顔が熱くなった。そんな当たり前のことに気づかないでいたことが、あまりに恥ずかしい。
自分の命を軽んじたつもりはない。両親から娘を取りあげてはいけないこともわかっている。
けれど、そうなってもおかしくなかったのだ。少なくとも、魔法が使えないジュリア・クルスであれば。
そして結果的に、自分を守ろうとしたオスカーを危険にさらした。それは二度としてはいけないことだ。
「……ごめんなさい」
「わかってくれたならいい。……フィン・ホイットマンとつきあうことにしたのは、事件が終わっていないからだろうか。それとも……」
驚いて彼を見る。なんで彼がそれをこんなに早く知っているのか。
(間違いなくお父様よね……)
ため息をつきたくなる。
「ウォード先輩の言うとおりです。護衛に魔法使いがついているので、普段から守ろうとは思ってはいませんが。乗りかかった船なので、落ちつくまでは様子を見ようと思いました」
「……そうか」
落ちついて話しているように見える彼の中に、わずかな安堵が見てとれる。
(気のせい、よね……?)
それからしばらくオスカーは黙っていた。何かを言うか言わないかを迷っているように見えて、黙って彼の言葉を待つ。
(こういう表情も好き……。って、それは今は置いておかなきゃ。彼はきっと事件のこととか、まじめなことを真剣に考えているんだから。危険だからすぐに別れろって言われるのかしら……?)
逡巡の後に、彼が顔を上げて視線を重ね、ゆっくりと言葉を形にしていく。
「これは……、言える立場ではないと思うのだが。ひとつだけ、ワガママを言ってもいいだろうか」
「……なんでしょう?」
「自分は……、あなたの真意を知っているつもりだ。だから……、自分が距離を縮めないのはいい。……けれど、できるなら……、誰のものにもならないでほしい」
祈るように言う彼の耳が赤い。
(オスカー……)
心臓が今まで以上に暴れだすのを感じる。
(好き。あなたが好き。大好き)
できるなら今ここで彼を抱きしめて、彼のものになると宣言したい。他の誰でもない、あなただけのものだと。
けれど、できないのだ。好きで好きでしかたないからこそ、彼と一緒にいると、もう一度同じ道をたどる未来しか見えない。
一緒にはいられないことをわかった上での、最大限の思いをもらった気がした。
(大好き……)
「フィン様には、今は仮で……、問題が解決した時に、正式に返事をすると伝えています。なので……」
「……余計なことを言ってすまない。忘れてくれて構わない」
(オスカー……)
それが彼の本心ではなく、自分のことを考えて引いてくれたのだということくらいはわかる。そういう考えをするのが、自分が愛したオスカー・ウォードなのだから。
どうにも愛しくてしかたない。
近づくことが許されない今、この気持ちをどうしていいかわからない。
「……私からも、ひとつだけ、ワガママを言ってもいいでしょうか」
「なんだろうか」
オスカーが不思議そうにする。かわいい。
「頭を撫でてほしいです」
彼が驚きを通りこして一瞬固まった。それから、今まで以上に赤くなる。かわいい。
前の時、まだつきあう前に、一度だけ彼が頭を撫でてくれたことがあった。
(確か……、名前で呼んでほしいって伝えて、初めて呼んでくれた後)
理由はわからないけれど、すごく嬉しかったのは覚えている。
だから。
先輩と後輩でしかない関係の中でも、それだけは許されるのではないかと思ったのだ。
「ダメですか?」
席を立って、彼の横にかがんで、のぞきこむようにして見上げる。ほんの少しイタズラをしている気分だ。
「むしろ、いいのか……?」
「あなたがイヤでなければ」
「……クルス氏には内緒に。消されかねない」
「もちろ……」
答えきる前に、大きくて優しい手が乗せられた。壊れものに触れるかのように、大切そうに撫でてくれる。
嬉しくて泣きそうだ。心音が高鳴っているのに、不思議とそれも心地いい。
(やっぱり、彼のこの手が好き……)
別荘で撫でてくれた優しい手。体に残ったその感触を大事にしていたのに、ふいにフィンに撫でられてしまった。それが引っかかっていたのだ。こんなに早く上書きができるとは思わなかった。
思わず、甘えるように擦りよってしまう。
彼の手にほんのわずかな戸惑いがあったけれど、すぐに優しさが加えられた。
(大好き……)
伝えられない思いを交わすのは、これが限度だ。先輩と後輩として許されるギリギリ。ここまでなら、許される範囲だと信じたい。
視線が絡まる。
(大好き)
彼の瞳が同じ言葉を返してくれているように見える。
吸いこまれるような、吸いよせられるような、そんな気がした。
思わず顔が近づきそうになったところで、後ろに引いたのはオスカーだ。
「……クルス嬢。一度休憩を」
「はい……。……ウォード先輩」
ビジネスライクな距離に戻る。
そうでなくてはならないとわかっているのに、顔の熱はなかなか引きそうにない。




