31 別荘でのひと時
オスカーが休んでいる部屋を出たとたん、廊下にへたりこんだ。顔が熱い。
彼の腕の中で泣いてしまった。すがってしまった。ずっとセーブしていたのに。
その感覚が、温もりが、香りが、体にも心にも残っている。
優しく撫でてくれた手が愛おしくてしかたない。
(オスカー……。……大好き……)
本人には決して聞かせられない言葉を、何度心の中で言い続けてきただろうか。
(あ……。緊急だったとはいえ、オスカーのファーストキス……)
感触を思いだして、思わず指先で自分の唇に触れる。
彼はもう大丈夫だとわかったことで、救命措置でしかなかった行為が意味を変えていく。
前の時。自分が彼の初めての相手なのは間違いなかった。だから、今回もおそらく。
(ひゃあああっっっ……)
顔から湯気が出そうだ。
緊急だったから仕方なかったという思いと、つい嬉しくなってしまうことへの申し訳なさが混ざる。
(ううん、あれは救命措置。数には入らないわ。うん、そういうことにしよう)
そう決めても、彼の中にはなくても、残っている感触が愛おしい。
「……あ」
それから、気づいた。
(ちょっと待って。あれから湯浴みをしてないし、洗浄魔法すらかけてない! え、待って。こんな状態で抱きついたの??!)
恥ずかしすぎる。臭わなかっただろうか。そう思うと気になってしかたない。恥ずかしさで死にそうだ。
逃げるように台所に駆けこんで、まず自分に洗浄魔法をかけた。
「オートマティック・ウォッシュ」
便利なのに魔法協会では習わない魔法だ。街での生活には必要ないからだろう。
(オスカーには孤児院でも領主邸でも魔法を見せたし、今回だって魔法を使った以外にはありえない状況だもの。もう今更よね。……それに、どっちにしろもう帰れないし)
無事なオスカーを帰して、自分が魔法を使えることをごまかしきれるとは思えない。魔力開花術式を受けていないのに習ったこともない魔法を使った娘は気持ち悪いだろうし、本当のこの時間のジュリアじゃない自分は、両親から娘を奪ったも同然だろう。
だからもう家には帰らない覚悟をしている。彼が元気になったら行方をくらませて、両親には手紙で無事を知らせるつもりだ。
そう決めてしまえば、人目を気にして魔法をセーブする理由はなくなる。
開き直って、ボロボロになっているドレスも直すことにする。
「マーテリア・イウェルスム」
物質の時間を戻す古代魔法だ。ただつなぎ合わせるだけの現代魔法では、ちぎれた部分を持ってきていないから直せない。やぶけてから時間が経っているぶん魔力消費は多いけれど、すっかり元通りだ。
化粧までは戻せないが、それなりに見せられる状態にはなっただろう。
気持ちを新たにして台所に向かう。
「まずは台所をきれいにして……」
彼がいつ目を覚ますかわからなかったから、できるだけそばを離れないようにしていた。食事に思い至ったのも、彼の無事が確認できてからだ。
一年近く放置されていた別荘はそれなりに汚れている。
「オートマティック・ウォッシュ」
洗浄魔法で台所もピカピカにした。
「魔法が使えるって、楽……」
しみじみ思って声にでた。こんな贅沢な魔力の使い方をするのは今の自分くらいだろうが。
「クイド・プロ・クオ」
硬貨を手にして、ほしい食材をイメージしながら古代魔法を唱える。その物の価値より少し高い金額の金銭と、店にある物を入れ替える魔法だ。
店側はむしろ得するけれど、勝手に入れ替えるのは倫理的にはよくないと思って、知ってからも緊急の時しか使っていない。今は、その緊急時だ。オスカーに着せた服も同じ魔法で手に入れている。
目の前にひととおりの食材が並んだ。
自分用に作る気にはなれなくて何も口にしてはいないけれど、不思議と空腹感はない。まずは彼に何か、今の彼の状態でも食べられるものを用意したい。
回復魔法は、食事をとれなかったことによって縮んだ胃を戻すことはできない。それは身体の自然な働きで、治すべき異常とは認識されないのだ。
(……懐かしい)
実家は、掃除や洗濯などは使用人がしていたけれど、料理だけは母が作ることが多かった。趣味のようなものだったのだろう。それを習って、結婚した後はできるだけ作っていた。作るのが好きだった。
彼のためにまた料理を作れるのが嬉しい。それは、この一度か、多くてもほんの数日の間。
だから、伝えることはできない思いを込めて、大切に大切に調理していく。
▼ [オスカー] ▼
クルス嬢が戻ってきたのは、空が完全に明るくなった頃だった。
(……彼女は上位の魔法使いだ)
身ぎれいになっただけなら湯あみをしてきたのかと思うけれど、破けていたドレスがすっかり元に戻っている。
(パーツが揃わなくても直せる魔法があるのか……?)
魔力開花術式を受けていない彼女がなぜ魔法を使えるのか。なぜ自分も知らないような魔法を使えるのか。
わからないけれど、今は聞かないことにする。知られたくないことなのだろうから。
彼女が運んできたのは具のないスープだ。きれいな褐色をしている。ちょうど触れられるくらいの温度に気づかいを感じる。
ひと口含んで、驚いた。
(なんだこれは……)
五臓六腑に沁みわたって、舌だけでなく全身が喜んでいる気がする。色々な食材を煮込んで、溶けだした栄養だけをすくってきたかのようだ。上等な店のスープもかすむレベルだ。
「……すごくうまい」
自然とこぼれて、そのまま飲み干す。
「食事がとれるならもう大丈夫ですね」
彼女がホッとしたように息をつく。
「迷惑をかけてすまない」
「いいえ、迷惑では……。ただ、ケガを治してから一週間近く眠っていたので。やはりダメだったのではないかと心配だっただけで……」
「一週間近く……」
そんなに時間が経っていたことに驚く。その間ずっと、彼女は自分のそばに居てくれたということか。
「……なぜ」
今は不思議と、自然に言葉が口をついて出た。
「なぜ、あなたは自分にここまでのことを?」
彼女の目が揺れる。
(ああ、また……)
本当のことを隠す時のクセだと、もう気づいている。
「私をかばって大けがをしたのだから、当然じゃないですか」
笑ってくれているのにどこかぎこちなくて、仮面をつけているかのようだ。
(やはり……、まだ、ダメなのか……)
話しても大丈夫だと彼女に信頼してはもらえないのかと思い、ぐっと歯を噛みしめる。




