運の尽き
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田中浩二がコンビニに入ろうとしたとき、自動ドアの上からプランターが落ちてきた。あと三センチ右にいたら頭を直撃していたところである。プランターは地面に激突して土と赤いゼラニウムを派手に撒き散らしたが浩二は「またか」と呟いただけで特に驚きもしなかった。驚いていたら身がもたない。この半年、こんなことは日常茶飯事なのだから。
店内に入ると、レジには三人の客が並んでいる。いや、並んでいるというより、固まっている。互いに肩が触れ合うほどの距離で立ち、誰一人としてスマートフォンを見ていない。皆、周囲を警戒するように視線を巡らせながら、自分の番が来るのを待っていた。
一年前なら、こんな光景はありえなかった。
当時の日本人は他人との距離を極端に取りたがっていた。電車では隣に誰かが座ると露骨に嫌な顔をする。見知らぬ人間に話しかけるなど論外で困っている人を見かけても関わらないのが「常識」だった。
浩二自身、その風潮に染まっていた一人である。
「いらっしゃいませ」
店員の声に覇気がない。無理もない話で今朝方この店では冷蔵庫が突然爆発し、一人で品出しをしていたアルバイトが重傷を負ったばかりなのだ。浩二はその話をSNSで見て知っている。「やっぱり一人作業は危険」というハッシュタグとともに、割れたガラスの写真が拡散されていた。
浩二は棚に向かい、おにぎりを手に取ろうとした。その瞬間、背後から声がかかる。
「あの、すみません」
振り返ると、三十代半ばくらいの女性が立っていた。ベージュのトレンチコートを着て、髪をひとつに束ねている。顔には疲労の色が濃く滲んでいるがそれはこの時代、誰もが同じである。
「リンクお願いできませんか」
女性はそう言って、スマートフォンの画面を見せた。政府が開発した「セーフティ・リンク」というアプリが表示されている。位置情報とバイタルデータを共有し、互いの安全を監視し合うためのシステムだ。
「コンビニ出るまででいいので」
女性の声には切迫感があった。
浩二は一瞬躊躇した。一年前の自分なら、絶対に応じなかっただろう。
当時、SNSには「見知らぬ女に声をかけられても絶対に応じるな」という投稿が溢れていた。親切心で助けたら痴漢扱いされた、道を教えただけでストーカー呼ばわりされた、落とし物を届けたら窃盗犯にされた。真偽不明の「被害報告」が毎日のように拡散され、男たちは女を警戒し、女たちは男を警戒した。
それだけではない。男女間の分断が進むにつれ、同性間でも猜疑心が蔓延していった。電車で気分が悪くなった人を介抱したら「勝手に触るな」と訴えられた。倒れた老人に心臓マッサージをしたら「肋骨を折った」と損害賠償を請求された。路上で発作を起こした人にAEDを使おうとしたら「セクハラだ」と騒がれた。
そんな話がSNSで拡散されるたびに、人々は萎縮していった。関わらないのが一番。見て見ぬふりが正解。助けを求められても無視するのが自己防衛。そういう空気が社会全体を覆っていたのだ。
浩二も例外ではなかった。電車で妊婦が目の前に立っていても席を譲らなかった。譲ったら「妊婦扱いするな」と怒られるかもしれない、そう思ったからだ。駅の階段で荷物を持った老人が苦労していても手を貸さなかった。「余計なお世話だ」と言われるのが怖かったからだ。
だが今は違う。
「わかりました」
浩二は自分のスマートフォンを取り出し、アプリを起動した。QRコードを読み取ると、画面に「リンク完了」の文字が表示される。同時に、女性のバイタルデータが画面の隅に浮かび上がった。心拍数八十二。やや高めだが許容範囲内だろう。
女性の肩から力が抜けるのがわかった。
「ありがとうございます。助かります」
「いえ」
それ以上の会話はない。浩二はおにぎりを二つ取り、女性は弁当を一つ取った。二人は無言のままレジに向かい、会計を済ませ、店を出る。
外に出ると同時に、女性のスマートフォンが振動した。
「あ、友人と合流できそうです。リンク解除しますね」
「どうぞ」
タップ一つで繋がりは切れる。画面から女性のバイタルデータが消え、浩二は再び「孤立状態」に戻った。女性は軽く会釈をして、駅の方へと歩いていく。
これが今の日本の日常である。
見知らぬ人間と一時的に命を預け合い、用が済んだら何の感慨もなく別れる。かつてSNSで罵り合っていた男と女が生存のために手を組まざるを得なくなった皮肉。浩二はそのことを考えるたびに、乾いた笑いが込み上げてくるのを感じる。神様というのはなかなか意地が悪い。
◆
「運が悪くなった」という現象が最初に報告されたのは半年前の四月七日のことだった。
その日、東京だけで交通事故が通常の五十倍発生した。全国では三百人以上が「不可解な事故」で命を落としている。階段から転げ落ちる、看板が頭上に落下する、突然車が歩道に突っ込んでくる。個々の事故に因果関係はなく、ただ「運が悪かった」としか言いようがない事例が雪崩を打ったように起きたのだ。
皮肉なことに、最初の犠牲者の多くは「一人でいた」人間だった。
当時の日本では一人で行動することが美徳とされていた。「お一人様」という言葉がもてはやされ、一人で食事をし、一人で旅行をし、一人で映画を観ることが「自立した大人」の証とされていた。他人と群れるのは弱さの表れ、一人で完結できることが強さの証明。そんな価値観が蔓延していた。
結果として、四月七日に死んだ三百人のうち、実に八割以上が「一人でいた」状態だったのである。
当初、政府もマスコミも、この異常事態の原因を突き止めようと躍起になった。新種のウイルス、電磁波障害、テロリストによる攻撃。あらゆる仮説が立てられては棄却された。結局、原因は今もってわかっていない。わかっているのは「法則」だけである。
法則その一。一人でいると危険率が跳ね上がる。
法則その二。複数人でいると危険率が下がる。ただしゼロにはならない。
法則その三。人数が多ければ多いほど安全、というわけではない。二人でも十人でも、効果はほぼ同じ。
法則その四。「複数人」の定義は曖昧で物理的な距離だけでなく、心理的な繋がりも関係しているらしい。
この最後の法則が厄介だった。たとえば、同じ電車に乗り合わせただけの見知らぬ乗客同士は「複数人」とカウントされない。しかしセーフティ・リンクでペアリングすると、なぜかカウントされるようになる。
政府は急遽セーフティ・リンクを開発し、国民全員にインストールを義務付けた。このアプリには厳密な条件がある。まず、リンク相手との物理的距離が五十メートル以内でなければ効果を発揮しない。離れすぎると警告音が鳴り、三分以内に距離を詰めなければリンクは自動的に切断される。
さらに厄介なのがバイタル監視機能だ。リンク中は互いの心拍数、血圧、体温がリアルタイムで共有される。政府の研究によると、相手のバイタルを「気にかけている」状態でなければ、リンクの効果が著しく低下するという。つまり、形だけ繋がっていても意味がない。相手の数値を定期的に確認し、異常があれば声をかける。そういった「関心」がなければ、リンクは機能しないのである。
当初は「監視社会だ」「プライバシーの侵害だ」という批判が噴出した。だがリンクを拒否した人間がバタバタと死んでいく現実を前に、そんな声はすぐに消えていった。
あれほど他人を避けていた日本人が今では見知らぬ人間に自分から声をかける。一年前には考えられなかった光景が今や当たり前になっているのだ。
◆
浩二の職場は新宿にある中堅の広告代理店だ。
オフィスに着くと、すでに同僚たちがデスクについている。以前は九時出社だったが今は八時。全員が同じ時間に出社し、同じ時間に退社することで通勤時の危険を最小化しようというわけだ。
「おはよう、田中」
声をかけてきたのは隣の席の山本という男だった。浩二より三つ年上で入社以来ずっと同じ部署にいる。
一年前の山本は典型的な「関わらない」タイプだった。挨拶は最低限、雑談はせず、昼食は一人で食べる。飲み会には絶対に参加せず、プライベートの話は一切しない。浩二とは五年も同じ部署にいたが住んでいる場所すら知らなかった。
今では毎日一緒に昼食を取り、退社後は駅まで並んで歩く仲になっている。互いの趣味も家族構成も知っている。好きでそうなったわけではない。そうしないと死ぬかもしれないからだ。
「おはようございます」
浩二は席に着き、パソコンを立ち上げた。画面の右下にセーフティ・リンクのアイコンが表示される。現在のリンク人数は「四十二名」。同じフロアにいる全員と繋がっている証拠だ。
ふと、画面の隅に表示されている山本のバイタルを確認した。心拍数七十五、血圧正常、体温三十六度四分。問題なし。この確認作業が今では無意識の習慣になっている。
「今朝のニュース見た?」
山本がコーヒーを啜りながら言った。
「名古屋で孤独者が二人死んだらしい。一人はマンションの廊下でタイルが剥がれて転倒、一人は自宅で火災」
「またですか」
「政府の発表だと、孤独者の事故死は先月だけで三百人超えたって」
「孤独者」というのはリンク相手がいない人間のことを指す行政用語だ。様々な事情で誰ともリンクできない──あるいはしようとしない──人々がこの国には一定数存在する。彼らの死亡率はリンク者の実に二十倍にも達していた。
「なんでリンクしないんだろうな」
山本の声には純粋な疑問と、わずかな軽蔑が混じっている。一年前の山本なら、孤独者の気持ちを誰より理解していたはずなのに。
「できない人もいるんじゃないですか」
浩二は言った。
「一年前まで他人と関わるなって散々言われてたじゃないですか。急に繋がれって言われても、切り替えられない人もいますよ」
「まあ、そうだけどさ」
山本は肩をすくめた。
「死ぬんだぞ。切り替えるしかないだろ」
その言葉には自分自身に言い聞かせているような響きがあった。
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昼休み、浩二は山本と、もう一人の同僚である佐藤と三人で社員食堂に向かった。
「見ろよ、あれ」
山本が顎をしゃくった。食堂の隅のテーブルに、一人で座っている男がいた。四十代くらいで白髪交じりの髪を短く刈り込んでいる。周囲の席は空いているのに、誰も近づこうとしない。
「経理の高橋さんだ」
佐藤が声を潜めて言った。
「あの人、誰ともリンクしないらしいよ」
「は? なんで?」
「知らない。でも、セーフティ・リンクすら入れてないって噂」
浩二は高橋という男を見た。周囲の喧騒から切り離されたように、一人で黙々とうどんを啜っている。その姿は一年前の日本人の典型だった。他人と距離を取り、自分の領域を守り、誰とも関わらない。かつては「自立した大人」と呼ばれていた生き方が今では「死にたがり」と同義になっている。
三人は空いているテーブルを見つけて座った。食事を始めると、自然と会話が弾む。昨日見たテレビの話、週末の予定、最近できたラーメン屋の評判。
「田中、今度の土曜、バーベキューやるんだけど来ない?」
山本が言った。
「参加者多いほうがいいからさ」
一年前の山本は絶対にこんな誘い方をしなかった。そもそも人を誘うこと自体がなかった。今では週末になると必ず誰かを集めようとする。
「行きます」
浩二は頷いた。断る理由がない。断れば危険が増すだけだ。
◆
午後の会議が終わり、浩二がデスクに戻ろうとしたとき、廊下で高橋とすれ違った。
至近距離で見ると、高橋の顔には深い皺が刻まれていた。疲労ではない。もっと長い時間をかけて形成された、諦念のような表情だ。
視線が合った。高橋は軽く会釈をして通り過ぎようとしたが浩二は思わず声をかけていた。
「あの、高橋さん」
高橋は足を止めた。
「何か」
「いえ、その……リンクしませんか」
高橋の目が細くなった。
「君は優しいな。だが私は誰かと繋がるつもりはないんだ」
「でも、危険じゃないですか」
「危険だな。毎日死ぬかもしれないと思いながら生きている」
淡々とした口調だった。一年前なら、この言葉は何の違和感もなく受け入れられただろう。当時の日本人は皆、そうやって生きていた。他人と関わるリスクを恐れ、一人で完結することを選んでいた。
「一年前はこれが普通だったんだがな」
高橋は薄く笑った。
「他人に関わるな、助けるな、声をかけるな。そう言われて育った世代だ。急に変われと言われても、私には無理なんだよ」
「でも……」
「君たちは若いから適応できた。私はもう遅い」
高橋はそれだけ言うと、浩二に背を向けて歩き去った。
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翌朝、会社に着くと、妙な空気が漂っていた。
「田中、聞いたか」
山本が駆け寄ってきた。
「高橋さん、死んだって」
浩二の足が止まった。
「昨晩。帰宅途中に、信号待ちしてたところにトラックが突っ込んできたらしい」
「……そうですか」
「やっぱり一人は危険なんだよ。可哀想だけど、自業自得だよな」
その言葉に、浩二は小さな違和感を覚えた。
一年前までこの社会は高橋のような人間を量産していたのだ。他人を信じるな、関わるな、助けるな。そう教え込んでおいて、突然「繋がらないと死ぬ」と言われても、すぐに適応できる者ばかりではない。
高橋はあの時代の被害者だったのかもしれない。
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葬儀は三日後の土曜日に行われた。
斎場で高橋の妹だという女性に声をかけられた。
「兄は十年前に妻と娘を事故で亡くしたんです」
女性は静かに語った。
「それ以来、誰とも親しくなろうとしなくなりました。当時の風潮も手伝って、兄はどんどん孤立していった。人と関わらないことが正しいと、本気で信じていたんです」
浩二は黙って聞いていた。
「この『異常』が始まったとき、私はリンクを勧めました。でも兄は言ったんです。『今さら人を信じろと言われても、どうすればいいかわからない』と」
女性の目に涙が浮かんでいた。
「一年前までの日本が兄のような人間を作ったんです。そして今、そういう人間を『自業自得』と切り捨てている。おかしいと思いませんか」
浩二は何も言えなかった。ただ、深く頭を下げることしかできなかった。
◆
葬儀の帰り道、浩二は一人で歩いていた。
ふと、視界の端に何かが動いた。とっさに身を引くと、頭上から古い看板が落ちてきた。錆びた金属が浩二のすぐ横の地面に激突する。
「大丈夫ですか」
声をかけられ、顔を上げると、若いカップルが心配そうにこちらを見ていた。
「リンクしましょうか? 駅までなら」
一年前なら、こんな申し出はありえなかった。見知らぬ人間に声をかけるなど、「不審者」扱いされるのがオチだった。道で倒れている人がいても、皆スマートフォンを見ながら素通りしていた。関わったら面倒なことになる。そう思っていたからだ。
「……お願いします」
浩二はスマートフォンを取り出した。
リンクが完了すると、カップルのバイタルが画面に表示された。二人とも正常値。浩二のデータも、彼らの画面に届いているはずだ。
「最近、暖かくなってきましたね」
女性が言った。
「そうですね」
たわいもない会話。だが一年前には絶対に交わされなかった言葉だ。
駅に着き、リンクを解除して別れた。カップルは手を振って改札の向こうに消えていく。
浩二はその背中をしばらく見つめていた。
◆
夕暮れ時、シェアハウスに帰宅すると、同居人たちが夕食の準備をしていた。
「おかえり、田中さん」
吉田が振り向いた。
「今日はトマトソースだよ。手伝って」
一年前の浩二なら、他人と一緒に料理を作るなど考えられなかった。食事は一人で済ませるもの。他人の生活に踏み込まないのがマナー。そう信じていた。
「わかりました」
浩二はエプロンを手に取り、キッチンに立った。
「そういえばさ」
青木がパスタを茹でながら言った。
「来週、会社の同僚たちとキャンプ行くんだけど、二人も来ない?」
「いいね、行きたい。田中さんは?」
浩二は少し考えた。
「行きます」
「よし、決まり。人数多いほうが安全だしな」
「……それだけが理由?」
吉田が茶化すように言う。
「いや、まあ、楽しいからだよ」
テーブルに料理を並べ、三人で席についた。
窓の外では夕焼けが空を染めている。穏やかな光景だった。明日も誰かが死ぬのだろう。明後日も。それでも腹は減るし、パスタは美味い。
青木がワインを開けようとして、コルクを盛大に飛ばした。天井に当たって跳ね返り、吉田の額を直撃する。
「痛っ」
「ごめん」
「もう、青木くん一人でいるときじゃなくてよかったね」
「ほんとだよ。今のコルク、一人だったら打ちどころ悪くて死んでたかも」
三人は顔を見合わせ、笑った。
笑うしかなかった。
実際先月、それで一人亡くなったというニュースを見た事があるからだ。
国民総不運──そんな時代である。
(了)




