第20話 太陽の光、燦々と
「光永さんの視力は、現在ほぼゼロに近い状態です。眼球にガラスの破片が入って、角膜に大きな傷ができています」
そんな医者の言葉に、光永はただただ頷くことしかできなかった。到底受け入れたくない事実のはずなのに、奇妙に冷静でいられるのは、その言葉がまだ現実味を帯びていないからかもしれない。そんな彼女に医者は淡々と事務処理をこなすように、残酷な現実を告げる。
「すぐにアイバンクから角膜の提供を受けることができれば、つながる確率が高いのですが、現在、すぐには手配できないとのことです。届き次第、すぐに手術に入りたいと考えますがよろしいですか?」
「あ、はい。お願いします」
「なんか俺、泣きそう」
その話を隣で聞いていた朝広は、病室を出てからため息をついた。やり場のない怒りと悲しみを込めたそれは質量を伴っていそうなほどに重々しい。そんな親友の姿に、比留間はもう一つの悪い知らせを伝えるべきか迷ってしまう。
「運がなかったという言葉で片付けるには、あまりにも理不尽だと思うけれど……」
言葉につまってしまった彼の後に続くように、夜神が続けた。
「ここで泣くのは筋が違う。まだ、光永さんも泣いていないのだから」
まだ、これから彼女には越えなければならない試練が待っている。だから、一人で諦めている場合ではないと夜神は言葉を選ぶようにして伝えた。
「そう、だな」
まだ希望がないわけではない。
そう持ち直しかけたところ、病院の自動ドアが開いて彼のよく知る人物が走ってきた。
「朝広! こんな入口で何してるの。結のところに行くわよ」
いつもは綺麗に化粧をしているはずの母親が、最低限の身だしなみを整えることしかしていない。気丈な人の、いつになく弱った姿に嫌な予感がする。
「母さん?」
悪いことって、追い討ちをかけるように重なるものなのだろうか。
「朝広……妹さんの容態が悪化したんだって」
伝えられなかった『もう一つの悪い知らせ』を、言いにくそうに英明が呟いた。
先ほどまで強い日差しを投げかけていた太陽は、すっかり傾いており、無機質な蛍光灯が病院内を照らしている。白い病室、白いベッド、そして白い顔をした結は、ピンクの生地に色とりどりの花や鳥の刺繍が施されたポーチを抱えていた。
「幸せってどういうことなんだろうって思ったの」
いつになく言葉がしっかりした彼女は、まさか先ほど心停止した人物と誰が思うだろう。
朝広から光永の事を聞いた結は、一瞬自分を責めるような表情をした後、母親にピンクのポーチを取ってくれるよう頼んだ。ファスナーを開けると、そこには光永と初めて出会った日に投げつけた髪留めやマニキュア、母親からもらった櫛や髪ゴム、光永から貰ったマニキュアのリムーバーやお菓子の包み紙などが大切に入っていた。
筋力が衰えて瞼も開けられないが、まるで目に焼きついているから構わないと微笑む。そして、それらをさらりと撫で……発したのが先ほどの言葉だ。
「私、やっぱりすごく恵まれてなかったなって思うの。だって、もう瞼が開けられなくて、光も見えなくて。もうすぐだ、もうすぐだって、自分がカウントダウンをはじめているのが分かるんだもん」
点滴で栄養剤を流し込んでいる体は、ひどく痩せている。けれど、以前のような何かに飢えているという印象は不思議と受けない。
「運が悪かったと言われたら、やっぱりそうだと素直に頷くよ。でも、不幸だったかといわれたら、違うような気がする」
優しいお兄ちゃんと、明るいお母さんがいて、何もしてあげられなかったけど……途中で人生にすねちゃったけど、馬鹿なこともいっぱいやった気がするけど……幸せだったと思える。
「多分、他人がどう言おうと、自分が自分の持っている小さな幸せを大切にできたなら、充分なんだね。だから泣かなくていいよ」
「泣いてなんかないぞ」
光永のこともあって涙が浮かんでいた朝広は慌ててぐいと拭った。
「昔っから、いいとこ見せようとする。目を開けてなくたって分かるんだからね」
基本的に聡い子なのだろう。それゆえに、この状況は彼女にとって残酷でもあるのだけれど。
「ね、お母さん、窓開けてくれる?」
夕暮れとはいえ、まだまだ熱気と湿気を含んだ空気が外のにおいを運んでくる。
「まだ暑いわね」
窓に一番近い位置にいた結の母親が何気なしに呟けば、開けて欲しいと頼んだ本人も頷いた。
「うん。でも、そこがお日様に一番近いから」
沈む夕日を3人で眺める。耳を澄ませば、バイクが走り去る音や、電車が走る音、音響式信号機の奏でる音楽が聞こえる。
「あのね。陽菜さんの目に、私の目を使って欲しいの」
「……結?」
「大丈夫。私の目、筋肉以外だったら使えるから。あの人に光を取り戻してあげてよ」
自分の身体は、他の誰でもなく自分のものだから、自分で使い道を決めたいのだと彼女は笑った。
「それにね、あーんな天然ボケの人の目が見えなくなったら、赤信号でも平気な顔して渡ろうとしちゃう。走って来た車の方だってビックリだよ。だから世間に対するボランティアにもなるのかな」
何も出来なかった私からのせめてものお礼だから、使って欲しい。役に立てることがあって嬉しいなと……笑った。
朝広はもはやジンと熱くなった目の奥から溢れる涙を止めることができず、震える声を隠すこともできなかった。
「ありがとう」
いてくれてありがとう。
……妹として、生まれてきてくれてありがとう。
生きていて欲しいと思うけれど、それよりも今は、妹の決断を褒めてやりたくて。
光永に『妹がいたからって幸せとは限らない』なんて偉そうに言ったけれど、撤回しなければなるまいと彼は思う。
「結はすげーな」
「馬鹿兄貴を残していくのは心残りなんだけどさ。じゃ、後はお母さんと話したいことがあるから、お兄ちゃんは出てって。陽菜さんのとこに行ってあげるといいよ」
「えっ。今すごくいい感じじゃなかった?」
邪魔者だとばかりに部屋から追い出され、唖然とする朝広に「いってらっしゃい」と結の声が背中を押した。
それが、最後に聞いた彼女の声だった。
夜の帳が下りて、星が瞬いて、静かに朝日が昇る。
追い出されるかもしれないと覚悟していた朝広だったが、事情を知っているスタッフは快く一晩院内に泊まることを許してくれた。
「眩しいな」
借りていた毛布を脇へ畳んで窓を開けると、もうセミの声が聞こえる。あまりにもいつもと変わらぬ鳴き声に、そりゃセミにとっちゃ、俺に何があろうと関係ないのだろうけれど……と少しばかり理不尽な怒りをぶつけてみるが、しんみりするのは苦手なので、外が騒がしいことに安堵もした。
手術は夜の間に終わった。
彼女はもう起きているのだろうかと、病室の前を歩いていたら、看護師さんが「光永さんなら今起きたわよ」と教えてくれる。
早歩きで病室へと近づき、控えめにドアをノックすると彼女の声が聞こえた。思ったよりも元気な声に安心して、指先から力が抜けてしまう。
「光永、どうだ?」
扉を開けながら問いかけると、まだ目に包帯を巻いた彼女は元気そうに笑った。
「手術は成功したって。もう少ししたら包帯だって取れる。視力だって後数日で戻るって」
移植する組織が新鮮だったから、成功する確率は高いと医者が説明したらしい。本当はすごく不安だったのだと、光永は白状する。
「ごめんね、なんか心配かけちゃって」
「そうだぞ。無茶苦茶心配かけて。心臓つぶれそうな勢いだったんだからな」
「結ちゃんにも心配かけちゃったかな」
「そーだぞ。光永の目が見えなかったら赤信号に突っ込んで行きかねないってさ」
そこまで言ってから、妹のことを思いだして顔が歪んだ。彼女がまだ包帯していることに感謝しつつ、母親から借りたハンカチで涙を拭った。
「後で会いに行きたいな」
「……光永が回復したらな」
「今日も暑くなりそうだね」
「汗がとまらねーなっ」
結の遺体はその日のうちに霊安室から自宅に戻ることになっている。今日は通夜で明日は葬式。親戚が手配をしてくれているらしい。
結はもう目を開けることはない。……けれど光永が彼女の分も見てくれるだろう。
これからずっと一緒だから。
「いい天気だから、早く目を開けられるようになったらいいな」
「夏の太陽は暴力的なまでに眩しいぞ」
暑くなりそうな予感に、うんざりしてしまう。
「そうだね。飛びきりの太陽も隣にいてくれるみたいだし」
嬉しそうに彼女は微笑んだ。
太陽の光は燦々と降り注ぐ。
太陽がある限り、光がなくなるなんてことはないから、精一杯その恩恵を受けよう。
「陽菜」
「な……なによ。急に名前で」
「光を見る目が2個あるんだから、太陽だって2個あっても良いよな。俺にとっての太陽は、ここにいるんだし」
そう言って、朝広はベットに突っ伏して思いっきり泣いた。
そんな彼の頭を彼女は何も言わず、優しく撫でた。
ふいに気持ちのよい風が吹いてカーテンを揺らしては、途切れ途切れに朝日が二人を照らしていった。




