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第2話 後ろ向きの彼女

 鍵を開けて家に戻る。

「ただいま」

 返事はないけれど一応お決まりのあいさつを光永は口にした。母親は離婚して家を出たし、父親は仕事で遅くまで帰ってこない生活にもすっかり慣れてしまったように思う。


 兄弟はいない。

 昔、妹ができたらしいけれど、未熟児だったらしく、生まれてすぐ死んでしまったのだそうだ。そのときの彼女はまだ小さくて、妹がいたことも、死んでしまったことも気づかなかったのだけれど。

 でも、いまは時々考える。妹が生きていたら、この家ももう少し明るくなっていたのだろうかと。母親もここにいたのだろうかと、帰ってきてくれたのだろうかと。


「……ただいま」

 もう一度呟いた声に、答えは返ってこなかった。



 明るい家庭……か。考えながら彼女は今朝洗っていった食器を棚に戻す。

 結城君の家は、きっと家庭も明るいんだろうなぁ。授業参観のときにチラッと見かけたけれど、綺麗なお母さんだったと記憶している。さわり心地が良さそうな結城君の無造作ヘアーはお母さんがセットしているという話だったから、仲が良いに違いない。お父さんは営業してそう。あの人懐っこさはお父さんに似たんじゃないかと思う。

 兄弟は、いるのかな? なんとなく面倒見が良さそうなので、弟か妹がいそうだけど、彼に懐いているんだろうな。


 ただいま。おかえり。

 ご飯できてるから手を洗ってきなさい。はーい。

 そんな、普通の幸せな家庭の光景が光永の目に浮かぶ。うっとりと目を細めた彼女は、お米を研ごうとして気がついた。

「あ……」

 馬鹿だ。マニキュアなんか塗ったら料理なんか出来ない。塗ったところで、一体誰がそれを見てくれるというのか。


 ため息が光永の口からこぼれた。

 自分は他の人とは違うのだ。皆が遊んでいる間、塾に行って、その合間に家事もしなければならない。毎日、毎日、繰り返される雑事に追われ、次第に感覚は麻痺していったけれど、どうして私ばっかり……という思いはぬぐいきれなかった。


「ああ、なんだか思考が惨めになってきた。やめやめ」

 思考を振り切るように、ご飯のタイマーをセットする。今日は野菜炒めでいっか。ニンジンとキャベツと豚肉を冷蔵庫から出しながら、同時に、追いついてきた思考に囚われる。


 結城君のプレゼント、誰が貰うんだろう?

 誰だか知らないけれど、きっとすごく喜ぶに違いない。


 ニンジンを軽く洗って皮を剥きはじめると、テーブルの上に置いていた携帯が鳴り出した。手早く作業を終えると、光永はタオルで手を拭いて携帯を操作する。メールを送ってくるような人物なんて1人しかいない。

「お父さん、夕飯食べないのか」

 声に出すと、急に夕飯を作る気も食べる気も失せてきた。


 家の中は暗く、そんな中に一人でいると心がじめじめしてくる。でも、食べるものに困っているわけでもなければ、欲しいものに飢えているわけでもない。勉強やっていれば大人は誉めてくれるし、評価は良いし、人付き合いだって適当に浅く広くこなしていると思う。

 何か役に立つ能力さえあれば、誰かが必要としてくれるから……グループからはみだすこともない。寂しいなんて思わない。


 現実だけ取り上げれば、さほど私は不幸ではないのだろう。

 でも、そう思うのに、どうしても幸せだと感じることが出来なかった。毎日がつまらなくてたまらなく、賞賛の声も私を癒してくれることはなかった。

 学年が上がってクラスが変わっても、その気持ちは変わることがないだろうと彼女には思えた。




 ――ちょうど今は春休みだった。


 朝はご飯と漬物をコタツに運んでアニメを見ながら食べた。片付けて、宿題に取り掛かり、お昼ご飯を食べて昼寝し、目が覚めたらゲームして時間を潰す。それから夕飯を作って一人で食べて、テレビを見て宿題して寝る。それが、光永の生活リズムになっていた。

 けれどそれも何日か続くと宿題も終わってしまい、ゲームもクリアしてしまう。

「……暇だ」

 ごろんと横になる。いくらでも眠れそうだ。


 予習しても良いし、何か別のことをやっても良いのだろうけれど、とかくやる気が出ないのだ。かといって一緒に遊びにいく友達はいなかった。

 憎たらしいことに、テレビの天気予報はここ数日晴れるといってる。行楽日和というのだろうか。彼女は「私には関係ないけど」と小さくつぶやいて、コタツにもぐりこんだ。


 ――いつの間にか眠っていた。


 夢の中に結城が何かを持って立っていた。チェックの包装紙に黄色いリボンのそれはあの日のプレゼントのようだ。

「これ、光永にやるよ」

 それをこちらに差し出される。がさがさと包装紙のこすれるような音がした。

「いいの?」

 半分手が出てるくせに、夢の中の彼女は確認を取るように不自然に首を傾げる。

「うん!」

 それに答えてくれたのは、太陽のように明るい笑顔だった。


 手を伸ばす。

 あと十センチ。

 指先にリボンが触れる。

 あと五センチ。

 一センチ。

 受け取……


「あ!」

 受け取ろうとした手が宙をかいて、光永は目を覚ました。食べかけの昼食が目に映り、次に起き上がった振動でカラカラと箸が音を立てて落ちたのが、ひどくここが現実であると示しているようだった。

 なんて夢を見たんだろう。夢なのだから誰に迷惑をかけているわけでもないのだけれど、じっとりと変な汗をかいてしまった。喉の渇きを覚えてコップに水道水を汲み、一気に飲みほすと彼女は気づきたくなかったのにと苦虫をつぶしたように顔をしかめる。


「私……誰かからの贈り物が欲しかったんだ」

 どうりで何も欲しいと思わないわけだ。浅ましいことに光永の欲しがっていたものは、「誰かが私のために」選んでくれるものだったのだから。

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