第19話 光る雨
声をかけられて朝広が顔を上げると、前に目の覚めるような美貌の親友がいた。隣に可憐な美少女を伴っている。
「妹さんの調子、どうだった?」
「お待たせ。んー、今日は少し気分が悪いって」
ひどくだるそうな妹を思い出しながら、朝広は力なく笑おうとして失敗した。
その視線の先には光永陽菜。目の前にいる親友が意外と目ざとく見つけたことに、比留間は少し驚く。……意識していなければ気づくはずもない距離だったから。
「光永さんだっけ? さっき声をかけてきたよ」
軽い調子で比留間が言えば、今度は朝広が驚く番だった。半ば女性嫌いのこの男が、進んで声をかけるとは思えない。一体何の天変地異の前触れだ?
「怖えーよ。何企んでるんだよ。てか、なんで彼女が光永って分かったんだよ?」
ブルブルと震えて見せれば、秀麗な親友は意味深な笑みを浮かべて「なんだろうねぇ」と流しにかかってきた。最近、笑顔でごり押すようになってきたこの親友がちょっと怖い。
気がついたらコイツのテリトリー内で踊らされている気がする。
「ねえ、あの車……フラフラしてない?」
そんな二人の間に美少女が入ってきた。夜神という名の彼女は、同年代とは思えないほどの落ち着きを持っており、その影響で比留間が色々と変わってきたと朝広は睨んでいる。主に、したたかな方向に。
「車?」
ほっそりした指先へ目を向けると、1台のワゴンがこっちに向かってきていた。しかし、目をいくら凝らしても、その運転席に人の姿が見えない。いや、正しくは、ちゃんとハンドルを握ったまま沈みこんでいるように見える。
嫌な予感がした。
ワゴンがフラフラと向かう先には、母親と赤ん坊の家族。母親は、泣きじゃくる赤ん坊をあやすのに集中していて、まさか車がこっちへ突っ込んでくるなんて思っていない。父親の方は、タクシーを拾いに道路へ出てしまっている。
「危ない!」
ここからでは距離もあって声も届かない。
けれど、届くはずもないのに、まるでリレーのバトンを受け取ったかのように光永が走り出したのが見えた。
「あの……バカッ!!!」
ほぼ同時に朝広も後を追うように走り出す。
光永がその車を不審に思ったのは半ば偶然だった。病院だし介護施設も併設されているのだから、送り迎えの車があってもおかしくない。しかし、1段高い歩道に車が乗り上げたとき、運転席で慌てて起きたような運転手の顔が見えた。介護疲れだろうか、落ち窪んだ目に焦りの色が混じっている。
「危ない!」
誰かの声が聞こえたような気がした。
事態の傍観者となっていた光永は、その声によってはじめて車がどこへ突っ込もうとしているのかを悟る。「まさかそんなことが起こるはずがない」と現実を否定したくなるけれど、実際に車は目の前の母子へと向かっていた。
「誰か……!」
あの人たちを助けて! そう続けようとして、近くに誰もいないことに気づく。
誰か……いや、誰かじゃない。私が、私が
――助けなきゃ!
思いっきり手を伸ばした。
「子どもをしっかり抱えてください!」
ようやく車に気づいた母親にそう叫び、驚いて立ちすくむ母親の背中を引っつかんで強引にツツジの植わった花壇へと飛び込む。三十センチの段差でも、車の足止めくらいにはなるはずだ。
耳障りな急ブレーキの音がして、車が滑るようにして方向を変えたのが見えた。
――間に合った。
ハンドルが効かないワゴンはヨロヨロと減速しながら弧を描き…………前にいた工事用トラックに突っ込んだ。
目に映ったのは、フロントガラスにクモの巣状のひびが入り、真っ白でキラキラ光るガラス片が、まるで雨のように降り注ぐ光景。
植木で細かい傷が走る右腕を何とか伸ばし、膝に力を入れて、硬質の雨からかばうように体を起こす。
二人に怪我はなさそうだ。あと少し頑張ることができれば、自分の手で誰かを守ることができるなぁなんて、こんなに切羽詰っている状態でも暢気な考えが頭に浮かんで、可笑しくなった。
上を向いた瞬間太陽が目に入って、思わず眩しくて……キラリと光る物が目に入る前に、明るい茶色の髪が見えたような錯覚を起こす。けれど、ガラスが一斉に降り注ぎ、コンクリートで固められた地面でそれらが飛びはねる轟音で、光永は気を失っていた。
――お日様はどこにいても均等に照らしてくれるわけじゃない。でも、同じところで立っている人に対し、幸せな人にはたくさん、不幸な人にはちょっと……なんてことはなくて、誰にでも均等に光を与えてくれるんだよね。
そう話したのは、今からあまり遠くない日のこと。何でこんなこと思い出しているんだろう。
――「幸せって……どういうことなのかな」
ただ……思うのは、こんなことになってもあんまり何かを恨めしく思っていない自分が不思議で、心静かにいられることが、ひどく心地よかった。
「……で……った」
病院の前で良かった。そう呟いた光永の手を誰かがそっと握る。
「もう少し休んでおけよ。多分、ショックとか薬が抜けたらすげー痛いと思うから」
目を開けようとしたら、「もう少し眠れ」と冷たい手が額に当てられたので頷いた。耳がキーンとしていて、これが耳鳴りというものなのかと、はじめて知る。
「多分、まだ頭がガンガンしてると思うけど、一応伝えとく。光永が助けようとした二人はかすり傷みたいだって」
間に合ったんだよと、泣きそうな声で報告したその声は朝広のものだった。
髪に触れる手が優しい。髪……そうか、あの光る雨の中、太陽に重なって見えたのは、彼の髪だったのかもしれない。
「助かって、良かった」
搾り出すように吐いた安堵のため息に、少し硬直したような手。
「本当にビックリしたんだぜ。いきなり車に突っ込んでいくし。まあ、車にぶち当たらなかったのは幸いだったけど。本当にお前、バカ」
茶化すように言う彼の声はどこか鈍く、重い。
「もしかして結城君……心配して、きてくれたの?」
一歩間違えば、彼もガラスのシャワーを浴びることになったのだ。いや、それどころか、コントロールが効かなくなった車にはねられてもおかしくない状況だった。
「そりゃ誰だって、好きな人が目の前でひき殺されそうになってるのを、指くわえて見てるわけねーだろ。」
まるで怒っているような声で……けれども確かに、言う。
「好きな……人?」
「もしかしたら俺、死んじゃうかも~なんて思うより先に体が動いてた」
漫画のヒーローみたいに格好良く間に合わせることなんて出来なかったけどな、けど……間に合ったら、ガラスのシャワーの盾になるくらいの覚悟はちゃんとあったんだよ。そこまで言ってから朝広は、一呼吸置いた。
「遅くなってごめん。これで俺の返事に変えられないかな?」
「……」
無言の光永に、彼は少し慌てたように付け足した。
「いや、もう英明からぞっとするほどの笑顔で小言を喰らってるから、あんまり怒らないで欲しいんだけど」
しょんぼりとしたような声がなんだか可愛らしい。きっと、それはもうブリザードが背後で吹き荒れるような言葉の切片がぐさぐさと刺さるような小言だったに違いない。
そんな光景が目に浮かぶようで、光永は笑ってしまいそうになり……顔が引き攣れるような感覚に違和感を覚える。
「じっとしてろって、傷の治りが悪くなるから」
最後はなんだか声が震えていたので、手を上げると朝広の頬に触れたらしい。少しくすぐったそうにするのが動きでわかった。
「跡が残るかな」
その質問に迷うように身じろぎされる。
「傷跡は残らないという話だった……けど」
「けど?」
どうしたんだろう。そう思ってゆっくり目を開けようとすると、低く唸るように止められた。
「あ……いや、まだすぐ後に1回手術が残ってるから。えーと、なんか瞼をちょっと切ったんだって。いい子だからじっとしてろって」
「なんか、お兄ちゃんっぽいねー」
言い含めるような話し方がなんだか新鮮で、光永の口元に笑みがこぼれる。けれど、朝広はその言葉にびくりと体を震わせて、ぎこちなく彼女の手から離れた。
「ごめん。ちょっと、病院から光永の親父さんとかに連絡してもらってくるから」
何故か沈んでいる朝広に、光永は大事なことを伝え忘れていたことを思い出す。そうだ、まだ返事の「ありがとう」も「嬉しい」も伝えていない。
「待っ……」
彼女は慌てて引きとめようとして、無意識に目を開き……そのまま固まった。
開いた目。
その目の前が、
――目の前が、真っ白だったから。




