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第16話 月は綺麗だけれど

 カラカラと窓を開けると綺麗な月が出ていた。

「ありがとうって、言いそびれたな」

 朝広は澄んだ夏の夜の空気を吸い込み、ぼうっと明かりがつく近所の窓を眺める。


 光永陽菜が朝広に告げた言葉は、紛れもなく彼に好意を寄せているというものだった。勿論、彼だって彼女のことが嫌いではない。むしろ、尊敬しているし、一緒にいても変な気を使わなくて良いところや、妙に所帯じみた気安さのようなところも好ましいと思っている。妹のことでは感謝しているし、強い子だとも思う。

 けれど、その好意は英明が言うような『好き』かどうかといわれると、とっさに答えることなんて出来なかった。


 そういえば、月は太陽の光で輝いているって誰かが言っていたことを思い出す。

 ――光永は俺のことお日様みたいだって言ってた。一緒にいると素直になれる気がするとも。

 だけど光永を照らしているのは、本当に自分なのだろうか? 

「月が綺麗だけど、ちょっと怖ぇー」




「月が綺麗だけど、なんだか寂しいなぁ」

 同時刻、光永も月を見ていた。半ば強要されたからとはいえ、もう少しましな告白の仕方はなかったのだろうかと考えてしまう。

 いや、そもそも告白なんてするつもりはなかったのだ。この気持ちが恋だなんて確証は全くなかった。人気者の彼にとっては、『またか』という思いでいっぱいだろうし、下手をすると、彼の妹のところに顔を出すのも難しくなるかもしれない。


 正直なところ、結城朝広という人物とは関係なしに、光永は病院へ通っている。友達に会いに行く感覚が一番近いだろうか。

 学校であった話、朝広の噂、家のこと……嬉しかったことも、面白いことも、悔しかったことも正直に話した。結も、病院内で患者有志による秘密の焼肉パーティの話から、現在の病状のことまで話す。お互い肩肘張らずに、不安なところや弱いところも見せ合える仲にはなっていた。


 そうやって不安を口にしなければ、確実に悪化している病気を受け止めるのは難しかったように思う。時折ろれつが怪しくなる結の言葉を聞き返すたびに、光永は胸が締め付けられるようだった。

 ここで、見なかった振りをして姿をくらますことは容易いのかもしれない。けれど、それでは自分だけが辛いのだと悲劇のヒロインを演じる以前の自分と変わらない。だから、相手に嫌がられない限り、向き合っていたかった。


 窓から外を眺めていると、父親が帰ってきたのが目に入る。「おかえりなさい」と2階の部屋から声をかけると、仕事で疲れた様子の父親は軽く片手を挙げた。続いて玄関が開く音がする。

「ただいま」

 ぼそりと呟くような言葉に被せるように、光永は部屋の扉を開けて階段を駆け下りた。

「おかえりなさい。今日はかぼちゃの煮つけだから。あと、テレビ見る前にお風呂の用意をしてね」

「あー、うん」


 仕事帰りの父親に『あれやって、これやって』と言えるようになったのはつい最近の話。以前は『仕事で忙しいだろうし、一応食べさせてもらってる身だし』と遠慮していたのだが、確実に不満が募り、『気を使ってやっている』という険悪な雰囲気になってしまっていた。いや、そんな雰囲気になっていたことに気づいてもいなかったというのが正しい。

 朝広にそんな浅ましさを指摘され、それに腹を立て、落ち着いて、ようやく彼女は自分の気持ちに気づいた。


 ヒステリックに自分の感情を押し付けるのではなく、相談という形で話をすることはできないだろうか。3日間悩んだ挙句におずおずと切り出せば、父親は「ようやく言ってくれて安心した」と疲れた顔で笑った。

 相手に遠慮して、この状況に疲弊していたのは、何も彼女だけではなかったということである。




 さて、クラスが一緒といっても、離れようと願えばいくらでも離れられるらしい。まあ、『友達』として、教室の移動の際やお弁当を食べる際にべったりだったメンバーとも、クラスが変われば挨拶もしない仲になるのだから、その逆もしかりなのだろう。

 用事がなければ話すことなどなかった関係が、用事を作らないことで全く話さない関係に変わっただけだ。

 ただ、朝広はとても目立つので、遠くからでもその存在を認めることは多々あったのだが。


 その存在感を無視することができず、ついつい目で追ってしまうたびに、彼女としては『早くクラス替えにならないかなぁ』と真剣に願ってしまう。

 勝手に期待して、好きになって、良い返事が貰えないと分かるやいなや拒絶してしまった。自分勝手にも程があるだろうと頭では分かっている。分かっているが、改めて拒絶の返事をもらう勇気はない。

 穴があったら入りたいというのが正直なところで、悶々としたまま過ごす毎日は、まるで真綿で首を絞められる気分だった。


 一度そんな気持ちを『彼には絶対内緒で』という条件で、光永は結に話したことがある。

 フライング気味の告白にフリーズしてしまった朝広の話、そして現在の彼女の心境に至るまで全て聞いた後、彼の妹は林檎ヨーグルトを食べながらあっけらかんと笑った。

「お兄ちゃん馬鹿だから……思考を、処理し切れて……ない。言わなきゃ……届かない人だから、良かった。迷惑なんかじゃ……ない。何度も……言った方が……良い」


 あんな恥ずかしいこと、何度も言えるわけがない。

 今日も今日とて、体育の先生に追いかけられている彼の姿は否が応でも目に入ってくる。視線を合わせないように目を伏せると、ああ、もう関係ない人に戻ってしまったんだなという思いがして、光永は心がじんわり痛むのを感じた。

 彼がほかの人と楽しそうに喋る姿を見た分だけ、あの日のことがなかったことにされていくようで。


「はあ」

 つい、ため息が出てしまった。


 そんな光永の気持ちを知ってか知らずしてか、隣のクラスからやってきた女子の集団が噂話を始める。

「結城君ってリスみたいで可愛いよね~」

「イケメンだし」

 昼休みにわざわざ別の教室まで出張しに来る人がいるくらい、彼は人気者らしい。勿論見栄えのする人だから、さもありなんと光永はぼんやりと考えた。


 見かけだけでなく、中身を知ればもっと好きになってしまうだろうとも思う。意外に気のつくところ、意外に鈍感なところ。真剣な悩みを抱えていても、笑っていられる強さも含めて。

「真野君と比留間君の3人が並ぶと圧巻だったよね。爽やか系結城君、麗しの比留間様、癒しの真野ちゃんで」


 その顔面偏差値の高いトリオは昨年から校内でも有名だった。今年度から内1名が転校したことにより、大分表立って騒がれることは減ったが。

「あの3人いつも一緒だったから。昼休みも同じ教室に固まってたし。結城君は誰とでも合わせられるようでいて、意外と親しい人としかつるまないのかなって思ってたよ」

「でも、真野君のところにあまり行かないねぇ」


 止まらない噂話から身を引き剥がすようにして、光永は席を立った。学級委員長として、夏休みの課題を受け取りに行かねばならない。


 明日からは夏休みだった。

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