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第11話 わずかばかりの本音

 そうして、そろそろお見舞いの回数が両手の指で数え切れなくなった頃には、すっかり春が過ぎて、夏といっても差し支えない陽気になっていた。結の口の悪さは相変わらずだし、光永の毎回変わる変なお土産も相変わらずだけれど、少しずつ会話が成立してくる。

「あんたと話をするのも疲れるんだもん」

 不味い不味いと不平をこぼしながら病院食を食べる姿に、光永は少し笑った。


 彼女にとって、翌日髪飾りを返しにいったのは半ば意地のようなものだったが、今ではこの年下の友達の反応が面白くて通っている。妹がいたらこんな感じなのだろうか……そんな疑似体験が楽しくて、兄である結城朝広にはお見舞いのことを内緒にするようお願いし、それを結も了承していた。

「友達と秘密の共有とか、ちょっと心踊らない?」

「フツーじゃん。てか、友達いないの?」

「うーん、いないね。ちょっとずつ声かけてはいるんだけどさ、今まで築き上げたパブリックイメージがなかなか壊れなくてねぇ」

「ふーん」


 結としては、てっきりモテる兄に近づこうとポイント稼ぎに来たのかと思っていたので、少し肩透かしを食らった気分である。しかも、彼のことを『怖い人』だとずっと避けてきたという。だから、「ここに遊びに来るのは自分のためだ」という光永のことを、どう扱えば良いのかだんだん分からなくなってきた。


 そうやって考えるのがうっとおしくなってくると、病人よろしくベッドの上でじっとすることができなくなり、今度はリハビリ室で体を動かし始める。症状が良くなることはないが、少しでも動かせば筋力の衰え方が緩くなるのだそうだ。

 力が入らなくて腰が抜けそうでも、必死にリハビリの棒に捕まっている間は何も考えずに済んだ。どうやって立ち上がるか、前へ踏み出すか、歩くか……ただそれだけを考える。


 手が震えていた。

 足も震えていた。

 何回も、何回も足をこぶしで叩き、そして、もう一度足を前に出す。


 がくんと体が揺れて、床に叩きつけられる感覚があった。転んだのだと一瞬遅れて認識する。力が抜けるような感覚や痛みに耐えても、立ち上がれない悔しさ。それらをエネルギーに変えるようにして、再度手すりに掴まる。

 正直、今まで出来ていたことが出来なくなることはとても悔しい。

 そんな結の手に重ねるように、手を置いた人がいた。見ていたのだろうか。泣きそうになりながらも一生懸命笑顔であろうとする光永の手が温かくて、結は一瞬言葉につまる。


 代わりに込み上げてきたのは、わずかばかりの本音だった。

「ほんとに嫌になっちゃう。どんどん動けなくなるの。ここを出て行きたいのに、叩いてもつねっても足に力が入らなくて」

 治す方法なんて無くて、ただ死ぬのを待っているだけ。いくらリハビリしたって、それがちょっと先になるだけ。それがむなしくて、足掻くのを止めていたというのに。

 結は少し前までは軽やかに歩いていた床を見つめる。綺麗に磨き上げられたそれには、冗談のように言おうとして失敗した彼女の顔が映っていた。


「アンタが来たから……アンタのせいだからね。時々上手く言葉が出てこないのよ。口が思い通りに動かないから発音できないじゃない。そしたら悪口もいえない。言われっぱなしなんて嫌じゃない」

 でも、体を動かしたら、今度は自分が衰えていることを自覚してしまった。そうしたら、『死ぬのが怖い』という封じ込めていたはずの思いが溢れそうになる。


 隣の部屋の住人は頻繁に入れ替わった。出るときは魂の抜けた……抜け殻だけだ。

 時々悲鳴が聞こえることがある。真夜中に廊下を掛けていく人々の足音で目が覚めて、ああ、緊急コールだなって思って、また死体が運び出されるのかと思うと、次は自分の番のように思えて、こっそり布団の中で震えた。


「怖いよ」

 段々狭くなる行動範囲。

 自由が消えて、目も開けられなくなり、何も話せなくなって……真っ暗の中、意識だけはあるなんて。

 ――死にたい。

 ――死にたくない。

 押し寄せる感情に潰されそうになる。


 搾り出すように呟いた結の本音に光永ができたのは、ただ頷くことだけだった。

「うん……」

 忍び寄る恐怖がどんなものかなんて、彼女には想像もつかない。だから、目の前にいる少女が落ち着くまで髪を撫で、ポンポンと背中を叩く。そして、打ち身で青くなっている膝や肘を見てそっと目を伏せた。


 ポタリと床に水滴が落ちる。

 結は声もあげずに泣いていた。


 リハビリ室は他に誰もおらず、シンと静まり返っている。

「……そういえばこの車椅子、使ってもいいのかな」

 ポケットからハンカチを取り出し、顔をぬぐった後、光永は車椅子のシートをポンポンと手で叩いた。

 彼女が思った以上にその音は部屋に響いて、二人はビックリしたように顔を見合わせた。


 病院のリハビリコーナーから車椅子で中庭に出ると、天気予報の通りの晴天で、輝かしいばかりの光が燦々と降り注いでいる。プランターに植えられた花はそれらを精一杯受け止めるように、花びらをそらせて受け止めていた。

「お日様はどこにいても均等に照らしてくれるわけじゃない。でも、同じところで立っている人に対し、幸せな人にはたくさん、不幸な人にはちょっと……なんてことはなくて、誰にでも均等に光を与えてくれるんだよね」

 ゆっくり歩く。

「うん」

 汗ばむくらいに降り注ぐ光が眩しくて、二人は少し目を細めたまま空を見上げた。


「幸せって……どういうことなんだろうね」




 結城朝広が久々に妹の病室に足を踏み入れると、開かれたカーテンから光が差していた。エアコンが効いているため窓は閉まったままだったが、不思議と閉塞感は感じない。

「あれ、陽菜さん忘れ物?」

 振り向いた彼の妹の表情からは以前のようなすさみが消えており、驚いて思わず返事が遅れてしまう。

「いや……俺だけど。え、陽菜ってだれ?」

「あれ? あー、お兄ちゃんだったか」

 しまったというような表情で結は、悪戯がばれた子供のように口角を上げた。


「結の知り合いが見舞いに来てくれてたのか?」

「陽菜さんはお兄ちゃんの知り合いでしょ? 前に連れてきたじゃない」

 そこまで話しても首をかしげる兄に対し、結は『光永 陽菜』とフルネームを告げる。

「光永……って、おい、嘘だろ? 全然俺にはそんなこと、一言だって……っ!」

「だって秘密にしてたんだもん」


 結は右手の人差し指を口元に近づけ、内緒のポーズをとった。その爪には、可愛らしいサーモンピンクのマニキュアが塗られている。明らかに素人が塗ったものだが、塗ったのは朝広ではない。彼の母親でもなく、ましてや看護師でもない。とすれば、残るは1人だった。

「もしかして、俺よりも仲良くなっちゃった?」

「うん」


 名前呼びしている時点で負けは明らかだったが、朝広は「なんだよー水臭いぞー」と口を尖らせて少しだけ形ばかりの反抗を試みた。人気者の兄のそんな姿は珍しい。結は甘食カップケーキの話や、勉強を教えてもらったこと、髪を結ってもらったが下手だったことなど色々話し、悪態をついたり誉めたり忙しかった。

 それは、光永陽菜という人物が費やした時間であり、ここで寄り添ってきた証でもあった。

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