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94:〔笑顔〕

 ぼんやりとした視界。それが単なる寝ぼけ眼からくるものだと理解するのにさほど時間はかからず、けれどもゆっくり目を開いていく。

 半分程開いたところで瞼を落とし、右手で軽く目を擦り――


 ……ん? 『右手』?


「あらまぁ」


 我ながら間の抜けた声を上げながら、僕は『無いはずの右手』で顔を覆っていた。そういえば、全身大火傷を負っているはずなのに、身体を動かしてもそれらしき痛みが感じられない。

 さてこれはどういうことなのか。どれだけ寝ていたかは知らないが、死に損ないが健康体になるには一日二日じゃ当然無理というもの。それに、妖怪の身は治りが早いとはいえ、跡形も無く吹き飛んだ右手が時間経過のみで治るものなのか。考えてもわかりはしない。

 ……けどまぁ、治っていることを素直に喜んでも別に構わないだろう。

 そう思いながら、不意に現れた気配に視線を向ける。


「目が覚めましたか」

「おかげさまで。運んでくれたのは君かい? 重くなかったかな」

「お気になさらず。腹立たしい程に貴方の体は軽かった」


 仏頂面で言う咲夜は、二枚のタオルを机に置き、僕の身体に手をかけた。突然現れたことには驚くだけ無駄ではあるのだが、僕の身体に触れたその手の冷たさに身体が震える。


「何を?」

「身体をお拭きします。そのままでは具合が悪いので、上半身だけでも身体を起こして下さい」

「それくらい自分で……」


 自分で出来る。そう言おうとして、身体が思うように動かないことに気が付いた。力が抜けて、身体を起こすことすらままならない。

 どうも、健康体なのは表面上だけらしい。仕方が無いので咲夜に身体を任せることにする。


「油断させてブスリとかやめてね」

「…………」


 背中とベッドの間に手を差し込んでいた咲夜が、僕の言葉にムッとする。冗談冗談、と苦笑いを返すと、溜め息をついて身体を密着させてきた。

 慣れた様子で僕の上半身を持ち上げる咲夜。瞼を落として身を任せる最中、女性特有の柔らかな感触が僕の身体に当たり、ふわりとした香りが鼻をくすぐった。彼女の銀髪が首をさらりと撫でる。


「ところで」

「?」


 別段、身体が密着しても特別な反応を見せない彼女に声をかける。至急距離で僕の顔を見た彼女は、何かに驚いたように目を見開いていた。


「どうかした?」

「……いえ」


 ぷいっとそっぽを向く彼女。僕の顔に何かついていたりするのだろうか。もしかすると見るに堪えない傷が顔面に残っていたり……。


「…………」

「何を?」

「いや、不安になった」


 僕の言葉に怪訝そうな表情を見せる咲夜。これ以上至近距離で見つめ合うのもあれなので、何でもないよと返しておく。彼女は無意識かもしれないが、異性に見つめられては照れてしまう。


「……では、身体をお拭きします」

「はいはい」


 スルスルと着物が肩から落ちていく。不愉快な感触が肌を撫で、着物の内側に自らの皮がこびりついているのに気が付いた。

 そう簡単には落ちないだろうなぁ、と溜め息をついていると、咲夜が濡れタオルで僕の身体を拭きはじめた。少し熱いくらいのタオルが背中を撫で、何とも言えない気持ち良さに目を細める。

 毎日しっかり身体は洗っているものの、あの戦いの後では汗やら血やらで汚れていて当然。他人に身体を拭いてもらうのは少し恥ずかしいような気もするけれど、自分の身体が綺麗になっていくのは気持ちが良かった。

 と、そこでふとある方法を思い付く。


「思ったんだけど」

「?」

「こっちの方が楽じゃない?」

「!?」


 ぽんっ、という感じで僕の身体が猫の姿へと切り替わる。この姿ならわざわざ全身を拭かずとも、洗面台程度のスペースとお湯があれば事足りる。

 いきなりのことに目を見開いた咲夜だったが、すぐに無表情に戻って赤く染まったタオルを畳み、僕の着物を手に取った。

 ちなみにこの着物、どういうわけか身につけた状態で変化を行えば共に消え、逆に脱いだ状態で変化すればそのまま残る。 一応意識して変化を行えば、身につけている状態でもその場に残すことは出来るのだけど。今は半裸の状態だったので、変化には巻き込まれずにそのまま残ったみたいだった。

 そんなこんなで今の僕は着物の上に乗った猫。咲夜は、着物を僕に巻くようにして抱き上げていた。さながら生まれたばかりの赤子のように、僕は顔と前足だけを出して咲夜の腕に抱えられている。


「…………」


 僕を抱き抱えた咲夜は、なぜかどことなくおっかなびっくりとした様子で歩き出していた。 どうかしたのか、と聞こうとして、ふと魔理沙の言葉が頭を過ぎる。



 ――『こいつクールな顔して猫苦手なんだ。特にお前みたいな灰色の猫』



「…………」


 静かに、しかし決して遅くはない速さで歩いていく咲夜。平静を装ってはいるものの、感情までは装い切れないもの。緊張して張り詰めたこの感情は、恐らく僕が原因だろう。

 だが、僕が原因だったところで何か出来るわけでもなし。きっとこの手の感情は、一時的に取り除けたところで再発するだろう。

 参ったなぁ、なんて思いながら、けれど咲夜の感情を少しばかり操っておいたりして。僕が傍にいる間はそれを続けるつもりでもあったりして。


「あ」

「何か?」

「……スペルカード」

「パチュリー様がお持ちになっているかと」


 なんだ、と固まった身体から力が抜け、ぐだっと咲夜の腕に顎を乗せる。瞬間、微かに震えた咲夜に苦笑いしながら、スペルカードの場所が確認出来たことに安心する。もし『黒札』や『紅札』の行方がしれなくなっていたら、今頃僕は文字通り死に物狂いで幻想郷を探し回っていただろう。

 そうならずに済んでよかった。そう思いながら、僕はけだるい身体に逆らわずに目を閉じるのだった。










「わしゃわしゃわしゃ〜……と。気持ちいいですかぁ?」


 で。どこでどう間違えたのか、僕は小悪魔の手によって全身を弄ばれていた。いや別にいいのだけれど。

 僕を湯舟に放り込んだ咲夜は一瞬のうちに姿を消し、代わりにパタパタと飛んできた小悪魔の手にはタオルケットと石鹸らしき何か。

 何故か嬉々とした面持ちの小悪魔はあっという間に白い泡をその手に纏わせ、文字通りわしゃわしゃと僕の身体を洗っているのである。


「……咲夜はどこに?」

「お洗濯です!」


 僕の右前足をフニフニしながら元気に言い切った小悪魔の頭では、羽がせわしなく動いている。あれって動くんだなぁ、と至極どうでもいいことを頭の中で考える。


「次はお腹を――あれ?」


 若干息が荒い小悪魔が僕の身体を抱き上げ、不意に怪訝そうな顔付きになる。どうかしたのかと小悪魔の視線を辿れば、そこは。


「……ミコトさんって、メス……なんですか?」

「ジロジロ見るな馬鹿」


 言いながら尻尾で小悪魔の顔をペチリと叩く。こぁっと小さく鳴いた彼女は、おとなしく僕をお湯の中に戻した。身体が半分浸かる程度のお湯はすでに泡だらけ。けれどその泡も少し赤みがかっており、僕の身体がどれだけ血に塗れていたかがわかる。ちなみに、身体を洗うのは今ので三回目である。


「あ、え? ミコトさんって、お、お」


 何やら狼狽している小悪魔を尻目に、僕は前脚で顔を擦る。

 まぁ、小悪魔の反応も当たり前といえば当たり前。今まで男だと思っていた相手が、女(猫ではあるが)の姿をしているのだ。

 けれどこれには理由がある。別に変化を使ってメスの姿をしているわけでもない。猫の時はこれが純粋な姿。多分、『彼女』の姿がそのまま現れているんじゃないかと僕は考えている。


「面倒だから説明はしないけど、姿がどうであれ僕が男なのには変わらないよ。だから、変に気にしないでいい」

「は、はぁ……イマイチ釈然としませんけど……」

「しなくていいの。どうせ言ったってわからないんだから」


 そうですか……と歯切れの悪い返事を返し、小悪魔はまた僕の身体を洗い始めた。










「では、私はこれで」

「うん。ありがとう」


 ベッドに横たわる僕に一礼し、小悪魔は部屋から出ていった。

 咲夜が能力を使って洗濯したと思われる着物からは、不思議な香りが漂っていた。石鹸の香りにしては幾分重く、しかし、これはこれで心地好い。

 そんなことを考えながら紅い天井を眺めていると、コンコンとノックの音が聞こえてきていた。どうぞ、と一声かけてあげると、ノックの主はゆっくりと扉を開ける。隙間から見えた宝石のような羽を見て、なんだフランかと笑みが零れた。


「…………」

「どうしたの。入っておいで」


 壁にもたれ掛かるようにして身体を起こし、顔を覗かせているフランに笑いかける。そんな僕を見たフランは、なぜかキョロキョロと辺りを見回してから部屋へと入ってくる。そして、どこかおどおどした様子でベッドへと近寄ってきた。


「あ、あの……」

「?」


 伏し目がちに口を開くフランからは、申し訳なさそうなオーラがひしひしと伝わってくる。どうやら、先の戦いで僕をぼろくそにした事を気にしているようだった。

 まぁ、確かに燃やされたり手を吹っ飛ばされたりしたが、こうして治っているのだから問題無い。そう伝えてやると、フランは小さく頷いて静かにベッドに腰掛けていた。

 僕と顔を合わせようとしない辺り、どう見ても落ち込んでいる。気にするなと言われても無理な話なのはわかるけれども……これでは、どうにも息苦しい。

 そう思った僕はしばらく考えて。


「フランは、ずっと独りだったんだよね」

「……? うん」

「実はね、フランとはちょっと違うんだけど……君と同じように、たった独りで過ごしていた奴がいたんだ」

「……私と、同じ?」

「うん。といっても、周りから見れば彼は独りじゃなかったんだけどね。彼に会いに来る人がいなかったわけではないから」


 僕が話しはじめると、フランはこの話に興味を持ったのか、軽く身を乗り出した。それを見た僕は、少し笑って話を続ける。


「彼がいたところは、真っ白な四角い部屋だ。その部屋の片隅、綺麗な、それでいて眩しいくらいに真っ白なベッドが、彼の居場所だった」

「白……」

「そう、白。そこで彼は、ただずぅっと窓の外を眺めていた」

「……ずっと? 何で?」

「他にすることがなかったからさ。……いいや、それ以外のことが、出来なかったから、かな」


 怪訝そうに首を傾げるフランにそう返し、僕は軽く天を仰いだ。

 そう。この紅い部屋とはまるで違う、白過ぎて目をつぶりたくなるようなあの部屋では、窓から見える外の様子だけが暇つぶしになりえた。切り取られた、ほんの一部分の街の風景。たったそれだけの狭い世界ではあったのだが、それでも、あの部屋の中を眺めているよりかはマシだった。


「なんで、その人はそこにいるの?」

「そこにしかいれなかったのさ。吸血鬼が昼間、外に出られないように……彼もまた、その部屋から出ることが出来なかった。……別に、日の光に当たれないわけじゃあないんだけどね」


 そう言って笑った僕の声は、軽く自嘲が混ざっていたようにも思う。

 それに気が付く様子も無いフランは、そのまあるい目をぱちりと開いて、僕が再度語り出すのを待っていた。待たすのも悪いので、続きを語るとしよう。


「彼はね、病気だったんだ。胸の中、大事な大事な身体の一部に穴が空いていた。それでも歩くことぐらいは出来たんだろうけど、彼は無力感からベッドを降りなかった。どうせ何をしたって無駄なのだから――そんなことを考えている内に、歩くことすらも億劫になったんだろう」

「……なんで? なんでその人は、そんなことを思ったの?」

「死ぬからさ」


 間髪入れずに答えてやる。フランは瞬きを二、三度繰り返し、その後にようやく僕の言葉を受け入れたようだった。


「彼の身体に空いた穴は、直接命にかかわるような、致命的なものだった。ほおっておいても治りはしないし、治す方法も……まぁ、いろいろあってそれも実行には移せない。彼に残されたのは、ただゆっくりと死んでいくだけの、怠惰な時間だけ」


 と、思い込んでいた。本当なら、もっと何か出来ることもあったのかもしれないが、あの時の荒んだ心では何をしても手にはつかなかっただろう。


「すっかり荒んだ彼を見て、彼の周りの人達はどうにかして彼を元気にしようとした。真っ白で飾り気の無い病室に花を置いてみたり、陽気で明るい音楽をかけてみたり。当然、彼の病気を治すためにも動いてくれていた。……フラン。今の君なら、どう思う?」


 いきなり質問されたからか、フランは少し驚いたように目を開く。それから、少しだけ悩んで、


「……嬉しい、かな。前までの私だったら、邪魔くさいと思ってたかもだけど」


 その答えを聞いて、安心する。狂気に犯されさえしなければ、彼女は素直でいい子なんだ。

 そう思いながらも僕は、じゃあ、と続ける。


「そんな周りの行動に、彼はどうしたと思う?」

「…………?」


 質問の意味がわからない、といった風に首を傾げるフラン。さっき答えた通りじゃないの? 彼も、多分嬉しかったんじゃないかな、なんて。自信なさ気に呟く彼女の頭に手を乗せる。本当にそうだったなら、どれだけ良かったんだろう。


「……彼はね。それら全てを、拒否したんだ。馬鹿だろう? 何が気に入らなかったのか、花瓶は割るわ物は投げるわ、止めようとした友人ですら殴るていたらくさ。本当に救えない」

「…………」

「ただね、僕はそれをものすごく後悔した。自分は何をしているんだ、せっかく元気付けようとしてくれていたのに、ってね。そりゃあ落ち込んだよ? 後から聞いたけど、本当に今にも死ぬんじゃないかってぐらい暗かったらしい」

「……え?」

「結局、謝って許してはもらったんだけどね。向こうは最初から怒っていなかったみたい。ただ、それはそれで思うところもあったけど。どれだけ謝ったって、どれだけ、いいよ、なんて言ってくれたって、あんなことをした自分は簡単には許せなかったし」


 ちらりとフランを見ると、身を乗り出していたフランは少し俯いていた。どうやら、僕が言いたいことをわかってくれたらしい。


「でもね。結局、落ち込んだままじゃいいことなんてないんだよね。許してくれてるんだから素直になればいいのに、そこで落ち込んだままだったら意味がない。それどころか、無駄な心配までかけることになる」

「……でも、私は」

「『でも』なんて聞きたくない。過ぎたことは気にしない! ね?」


 多少強引な気もするが、勢いに任せてフランに笑いかける。

 そんな僕に、フランは。


「……ん」



 ――小さく、けれどとても嬉しそうに笑ってくれた。


 彼女を救った、なんて言うつもりはないけれど、それでも。



「……ありがとう」



 この笑顔を見られただけでも、僕が行ったことに意味があると思えるのだから。

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