55:〔命の結界〕
視線は目の前の森に固定されたまま、僕は数秒前に放たれた紫の言葉を頭の中で何度も反芻した。
たった数秒、それぐらいのものなのに、もう何分もこの体勢でいるよう。
「……もう一度、お願い」
渇いた喉からようやく声が出て、僕は身体を紫に向けた。
確認なんて要らない。それなのに、僕はそう言っていた。
紫は、どこか悲しげで、けれど真っ直ぐに僕を見詰めていて。
――先程の言葉が聞き間違いではなく、ましてや冗談でもないことを訴えていた。
「……詳しくは、家で話しましょう」
「…………」
開かれたスキマに、僕は何も言えずに足を踏み入れる。
頭の中では、相変わらずあの言葉が繰り返しリピートされていた。
「あ、紫様……ミコトさん」
「兄様!お帰りなさい!」
スキマから降り立った僕等に、藍はいつものように……いや、僕を見て少しだけ視線を泳がす藍と、こちらは本当にいつものように擦り寄ってくる橙。
「藍。橙と外に行ってなさい」
「……はい。ほら橙、行こうか」
「はい!兄様、また後で!」
「うん。後でね」
藍に手を引かれ、無垢な笑顔で言う橙を見送り、僕は紫に向かい合う形に座り込んだ。
しかし、身体は向かい合ってはいても、目が合うことが無かった。早い話、紫が僕を見ようとしないのだ。
「紫?」
「……わかってるわよ。けれど、なんで貴方は平然としていられるの」
「もっと慌てて欲しかった?……それは残念だったかな」
「はぐらかさな」
「はぐらかしているのは紫の方。早く、詳しく話を聞かせて。慌てるのも悲しむのも、怒るのもそれからにするよ」
「…………酷い人」
ぽつりと呟いた紫。僕は尻尾をふらりと揺らし、壁にもたれ掛かった。
紫が口を開いたのは、それからしばらく経ってからだった。
「幻想郷の危機……」
「えぇ。まだそこまで大きな影響は出ないでしょうけど、このままいったら、近い内に間違いなく幻想郷は崩壊する」
重苦しい雰囲気の中、伝えられた現実はこれまた重いものだった。
外の世界は、僕の計算が狂っていなければ大体、西暦千六百年から千七百年の間。勿論ズレはあるかもしれないが、大体は合っているだろう。
人間の進歩は凄まじく、それと同時に強大な力も人間に備わっていく。
科学の力が実証され、更にそれが僕が知っている程に認知されていくのは、人間にとってそれは素晴らしいこと。すなわち、繁栄へと繋がっていく。
しかし人間の繁栄は、妖怪の衰退と同じ。
人間が科学を信じ始めれば、神の存在は無意味となっていく。
自然現象が科学で立証されれば、それに恐怖する人間は少なくなり、妖怪を否定し、その恐怖を糧とする妖怪は最悪消滅してしまうだろう。
幸い(妖怪の視点からすれば、だが)幻想郷に住む人間は外界から遮断された生活を送っているので進歩の仕方は限りなく遅い。
だが、それにも限界がある。
もし何かの弾みでこの幻想郷の人間も文化の発展を遂げ、妖怪を否定し始めれば、それは人間と妖怪が共存する幻想郷そのものを破壊してしまうだろう。
「あと百年もすれば、外の人間達は私達を完全に否定し始めるでしょう。その頃には妖怪も力を失い、なす術もなく消えてしまう」
「話はわかった」
ついでに次の会話の内容も。
向こうから言われたら少しショックなので、この際こちらから言ってしまおうか。
「で、その危機をなんとか乗り越えるには、僕の命が必要な訳だ」
「……なんでそんなにあっさりと言えるの?信じられないわ」
「愚痴はいいから先をよろしく」
「誰の為の愚痴だと……。いいわ、まずは説明を終わらせる」
どこか吹っ切れたように紫は言った。開き直った、の方が正しいように思える。
「結論から言ってしまえば、幻想郷と外界を切り離してしまえばそれで解決なの。その為に、この間と同じように私の能力を使って境界の結界を張る。外界を常識の世界。ここ、幻想郷を外の非常識の世界にする、『常識』の結界をね」
「お前のことだ、抜かりなく計画立ててるんだろうから心配はしてないよ。僕が知りたいのは、僕の『命』の使い道さ」
「……えぇ。この結界を張るには、どうしても『大きな力』が必要になるわ。その為に貴方のその妖力と、貴方の『身体』が必要になる」
「身体……?」
「えぇ。まず、貴方の妖力を利用して結界を完成させる。その際に、完成した結界が安定するようにあるモノを結界に組み込む。……それが、貴方よ」
「…………」
思わず黙ってしまった僕。確かに、それは死ぬことと同じ。
俯いた僕に、けれど、と紫は続けた。
「結界自体がしっかり安定して、安定剤を必要としなくなれば、結界は不純な物質を自ら吐き出すわ。つまり、いつかは……」
そこで紫は言葉を切った。
言い切らないということは、それも希望でしかないのだろう。
「妖力はどうする?今の僕は……」
「皮肉なことに、前回貴方が私に譲ってくれた妖力が残っているわ。あれだけあれば、貴方自身の妖力は使わずに済むし、今の貴方の妖力でも安定剤としては充分過ぎる」
「……で、紫の式となった僕なら、比較的安全に結界を安定させられる、と」
「!!」
僕の言葉に、驚いたように目を見開く紫。
優しい奴。僕でなければならない理由を、少しでも隠していようだなんて。
僕は紫に近付き、何気ない仕種から額を合わせた。
そして、離れてから一言。
「隠し事は無し、ね。全部教えてよ、紫」
「…………なんで」
「僕の能力知ってるくせに」
「そうじゃないわよ、なんで貴方はいつも……!!」
膝の上で握りしめられた手。
僕に掴みかかろうとして、けれど寸前で堪えているのがまるわかりだった。
堪えている、というよりは、僕が堪えさせているんだけれど。
「……く、貴方、能力を……!?」
「さてね。さ、続きだ」
先程までと同じように壁にもたれ掛かる。ピクピクと動く耳は無視だ。
「早く」
「……結界が完成すれば、当然貴方はこの幻想郷から姿を消すことになる。そうなると、突然姿を消した貴方を捜そうとして外界に出ようとする者……つまり、結界を破壊しようとする妖怪が出てくるかもしれない。……だから、私は結界が完成した後、貴方に関する記憶をすべて封印するわ。……貴方は、友好関係を広め過ぎたのよ。じゃなきゃ、こんなことをする必要も無かったのに……」
身体を震わせながら言う紫。
確かに、僕の友人達は力の強い妖怪ばかりだ。顔が広いことがあだとなるとは……わからないものだ。
「ほら藍様、早く早く!」
「こら橙!まだ中には……!」
バタバタと音が家の中に響く。
瞬間、紫は後ろを向いて扇子を開いた。
「ただいま、兄様!!」
「おっと」
扉が開き、飛び付いてくる橙を抱き留めて頭を撫でる。
顔を上げると、複雑な表情をした藍の姿。
この様子じゃ、橙はこの事を知らされてないみたいだな。
「私は寝るわ。藍、後は頼んだわよ」
「はい」
スキマを開き、その中へと消えていく紫。その顔は扇子で隠されていて、表情を読み取ることは叶わない。
スキマが閉じて、僕の耳はおとなしくなっていた。
「ミコトさん……」
僕の近くに腰を下ろした藍は、申し訳なさいっぱいの声色で僕の名を呼ぶ。
そんな藍に、僕は胸元から二枚の羽を取り出して藍に手渡した。
「取れちゃったんだ。悪いけど、つけ直して欲しいな。その黒い羽も一緒に」
「……ハイ」
今にも涙が零れそうな笑顔で、藍は返事をしてくれた。
捏造少し含みました。




