110:〔ほのぼの紅魔館〕
ベッドに座り、壁に背を預けたまま、手元の本をぺらぺらと捲っていく。
横文字で書かれているそれは、本来なら当然の如く理解不能な羅列でしかない。しかし、この本の持ち主であるパチュリーの粋な計らいによって、文字の意味が直接頭に入るような魔法を掛けてもらっているのでそこは安心である。
「熱心ね」
コトリ、と何かが置かれる音。遅れて、咲夜の声が聞こえてくる。
顔を上げると、仕事中の咲夜が腰に手を当てて立っていた。
「折角貸してもらったんだし、たまにはね」
パタン、と本を閉じる。
暫くはここ、紅魔舘にいることを舘の全員に伝えたところ、暇潰しにでも使いなさいとパチュリーが貸してくれたのだ。
それにレミリアが驚いていたのでそれとなく聞いてみると、どうやらパチュリーは大図書館から本を出すことを嫌うらしい。それこそ、自分から本を貸すことなんて滅多に無いそうだ。
因みに、本の表紙にはくすんだ色の横文字が並んでおり、本の厚さも相まって傍目には難しそうな印象を浮ける。が、その実書いてある意味は至極簡単なものである。
本のタイトルは『空中での魔力操作法・初』。もっと簡単にするなら『空の飛びかた・初心者編』。
パチュリーのチョイスに泣けてくるものがあった。
「で、どうなの? 役に立ちそう?」
「んー……。魔力と妖力じゃ色々と感覚が違うみたいだから、まだわからないかなあ」
先程まで読んでいたページを開く。そこには、道具を応用した空の飛び方が示されていた。
やはり、箒は基本に位置されるらしい。他の道具に比べ、箒は応用力に優れる印象を受けた。
「咲夜は、どうやって空を飛んでるの?」
「私?」
僕の言葉に、自分を指差し首を傾げる咲夜。それから軽く、彼女は身体を宙に浮かべる。
「言われてみれば、明確なイメージは持ってないわね。でも、霊力を使って空を飛んでいるのは確かかしら」
「ふうん……」
「霊力イコール浮力……みたいな感じかしら。まぁ、そこは人それぞれなんでしょうけど。レミリア様は背中の羽で、パチュリー様は風の魔法で、美鈴は気と妖気を織り混ぜて……。舘のメンバーだけでも、空の飛び方はバラバラなのだし」
試しに色々やってみたらいいじゃない。と言葉を締めた咲夜は、くりくりと自分の三つ編みをいじり始める。どうも、最近の咲夜は微妙に子供っぽい気がする。
「試しに、ねぇ。例えば?」
「……例えば、って」
僕の問いに、言葉を詰まらせ視線を泳がせる咲夜。先程聞いた通り、感覚で空を飛ぶ彼女には、難しい質問かもしれない。
そう思い、肩をすくませる僕は、咲夜を見上げながら口を開く。
「ま、それらしいのがあれば試してみるけどさ」
最悪、飛べないままでも正直構いはしない。パチュリーの優しい優しい気持ちからこんな本を読んではいるが、暇潰しと片付けてもいいくらいのものなのだから。
……とは思うものの、やっぱり出来れば飛べた方が良いよなぁ、なんて。
改めて本を開き、最初から読み始める僕なのであった。
で、時間も流れて。
「こら。あんまりべたべたくっつかない」
「いいじゃん別に。ミィは私のモノだもん」
「誰が決めた」
「私」
清々しいまでに言い切ったフランを背中に乗せ、ぐだりとベッドに寝そべる僕。本はベッドの脇にあるテーブルに避難中。
唐突に現れたフランは、特に何をするでもなく、ただ僕の身体にベッタリとくっついて動かなかった。
もうかれこれ二時間近く、僕とフランはくっつきっぱなしである。流石に暑い。
「何が楽しいのか知らないけどさ……」
「だって。暫くしたらいなくなっちゃうんでしょ? だったら今のうちにくっついておかなきゃ」
「くっつかなきゃいけない意味は」
「マーキング」
「やめなさい」
べりっとフランを背中から剥がす。多少可動域を越えた右肩が悲鳴をあげたものの、フランは抵抗せずに離れてくれた。
そのまま、身体の正面にフランを寝かせる。
「わーい」
抱き付いてきた。
が、そこは想定内なのでそのまま好きにさせておく。フランの頭に手を置いて、脱力して瞼を落とした。
「あーあ、ミィがほんとに私だけのものだったらなー」
どこまでも無邪気に言うフランに苦笑。流れ込んできた感情に乱れは無く、ただ純粋にそう思っていることがわかる。
薄く目を開くと、フランはこちらの顔を見上げていた。彼女は悪戯っぽく笑うと、その尖った歯をキラリと光らせて、
「ね、私と一緒になろうよ。幸せにするよ?」
「……ばーか」
「きゃっ」
とんでもないことを言い出した彼女の頭を、くしゃくしゃと掻き乱す。金色の髪は、しかしすぐに纏まって、一筋の光を反射した。
「……冗談なんかじゃないのに」
「ふふ、分かってるさ。でも、フランがその台詞を言うにはまだ早いかな」
「えぇー……。じゃあ、いつになったら言っていいのさぁ」
ぐい、と僕の身体を押して仰向けにさせたフランは、納得いかないといった様子でそう言ってくる。
僕は、そんな彼女の額に軽く唇を触れさせた。
「えっ……」
瞬間、彼女の顔が茹で上がったかのように真っ赤になる。それを確認した僕は、ちょんとフランの額を押して、
「少なくともこれくらいは軽く出来るようになってから、かな」
ぽてん、とベッドに倒れたフランを尻目に、僕は部屋を出るのであった。
本来ならばこちらも赤面ものの行為ではあるが、そこは当然自分の感情を操作済み。感情を悟られないようにするなんて朝飯前である。こちらの心を読むような能力相手なら、どうなるかはわからないけれど。
「あら」
「おや」
と、ここでばったりレミリアと遭遇。執事もどきの時なら姿勢を正すところだが、今の僕はただの灰猫である。
「珍しいのかな? 一人で舘を歩くなんて」
「そうでもないわ。確かに、私の傍には咲夜が居ることが多いけれど」
咲夜は今忙しそうだったからね、とつまらなさそうに呟くレミリア。忙しくとも、咲夜ならレミリアの方を優先しそうなものなのだが。
「なんか、随分と生き生きしてたから。声をかけづらかったのよ」
「……要は、気を使ったわけだ」
「私らしくないことにね」
クスリと笑うレミリア。
それから何となく歩き始めると、レミリアは僕の隣に並んで、同じスピードで歩き始めた。
レミリアが来た方向に歩き出した為に、彼女にとっては来た道を戻ることになるのだが。
「……たまにはね」
ぽつり、と呟かれた言葉は、果たして僕に向けられたものだったのか。
わからない。わからないが、この雰囲気は嫌いではなかった。
「レミリア様。こんにちは。珍しいですね、昼間にここに来るなんて」
「咲夜が忙しそうだからね。代わりに見張りにきたの」
「あはは。じゃあ、きりきり働かなければいけませんね」
燦燦と照り付ける太陽の光。
それを浴びながら、楽しげに花に水をやっていた美鈴は、レミリアに笑顔でそう答えていた。
「いやぁ、今日は暑いですねぇ」
「まあね」
「……着物、脱がないんですね」
「まあね」
「暑苦しいわ」
「まぁね」
三度目にどや顔で、微妙に発音を変えて返してやると、隣から痛烈な一撃が飛んできた。犯人は三度目の言葉を放ったレミリアである。
若干身体が曲がる程の威力の突きを受けながらも、彼女を太陽から守りきった僕は偉いと思う。
「貴方、本当に暑くないの?」
「別段。だって、上半身はこれ一枚だけだし。精々が包帯くらいのものだし」
「……別にいいけどね。私がこだわることじゃないし」
言葉通り、大して気にもしていないのだろう。それよりかは日光に警戒しているようで、しきりに彼女は僕が持つ日傘の位置を気にしていた。
そんな目をせずとも、ちゃんと持っていますとも。
「美鈴は暑くないの?」
「私ですか? 暑いには暑いですが……気にする程でもありませんかね」
身体には自信があります。そう言って胸を張る美鈴を見て、違う意味に聞こえた僕は間違っていない。
咲夜の美が月とするならば、美鈴の美は太陽だ。こちらも、あながち的外れじゃあないだろう。
「ところでミコトさん。この後はお暇ですか?」
「うん? うん、大丈夫だけど」
「なら、多少組み手の相手をお願いしたいです。構いませんか?」
「あぁ、そういうことなら全然いいよ。僕も、少し動きたかったところだから」
「よかった。なら、一時間後に門の前で」
「はいはい、と」
満足げな美鈴に背を向けて、レミリアを連れて再度館に入っていく。
楽しそうだし、私も見に行くわ、なんて言っているレミリアに苦笑しながら、僕は軽く首の骨を鳴らした。
あぁ、やっぱり。
僕はこんな雰囲気の方が、合っている。




