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106:〔ここから先は私のお話〕

「う、くぅっ、うぅぅ……」


 押し殺したような泣き声を聞きながら、レミリアは血塗れの自分の身体を見て小さく息を吐いた。

 目の前には、つい先程自ら手を下した妹の姿。レミリア同様、彼女の身体もまた血塗れになっている。


「ふぅ……」


 思わず出た溜め息。愛して止まない妹を、やむを得なかったとはいえ手に掛けたのだ。溜め息くらいは許して欲しい。

 レミリアはそう思いながら、翼を畳んで背中に隠れて震えている少女を包む。

 運のない娘だと、レミリアは思う。










 ――いきなり館に乗り込んで来たかと思えば、諭す暇も無く私の胸にナイフを突き立てたこの少女。 単なるナイフなら、幾ら喰らおうが物の数では無かった。例え銀のナイフであろうとも、私には大した問題じゃあない――。



 そう思っていたレミリアは、その考えが間違いであることを痛感していた。


 ナイフが刺さっている筈の胸からは、ほんの少しも血が滲んでこない。それどころか、刺さっている感覚そのものが、無い。何も考えずに天井を仰いでいれば、刺さっている事実を忘れてしまいそうな程に。


 ただそれも、本当に何も無かったら、の話。


 レミリアはその瞬間、感覚が無いにも関わらず、嫌と言うほどにナイフの存在を感じ取っていた。


「……貴女」


 自分に馬乗りになっている少女に、ようやくそれだけ言葉を放つ。

 向けられた瞳は硝子のように無機質で、鈍い銀色は光を持たずにただただ沈み込んでいた。


 違う。

 こんな瞳、人間の子供がするものなんかじゃ、ない。


 凄まじい脱力感に襲われながらも、レミリアは必死に頭を動かした。

 少女の見た目は人間の子供。背丈もレミリアと比べて高くはなく、身体も多少は肉付きが少ないものの、まだまだ未成熟な子供のそれだ。


 しかし、明らかに瞳だけが、子供のそれとはかけ離れていた。


 作り物のように光を反射し、けれど自ら光を放つことはない。

 中心に居座る黒いモノは、全てを呑み込んでしまいそうな程に奥深く。眼の中心に穴が空いているのかと疑いたくなる位に、瞳の光が死んでいた。


 過去にレミリアは、似たような瞳を見たことがあった。

 彼女の妹、フランドール・スカーレット。生まれ持った強大な力に振り回され、教育らしい教育も与えられずに地下室に幽閉された吸血鬼。

 百年余り幽閉されたフランドールの瞳もまた、今の少女のような瞳をしていたのだ。


 ――空っぽの瞳。


 何も求めていないのか。


 求めるがあまり他の全てを投げ出したのか。


 似た瞳を持った二人ではあるが、その瞳に至る過程はきっと違う。

 胸にそびえ立つナイフを眺めながら、レミリアはそんなことを考えていた。

 少女は、抵抗しないレミリアを暫く動かずに睨み付けていたが、やがて本当に動かないと判断すると、その場から消えた。

 文字通りに瞬間的に消えた少女に目を見開いたレミリアではあったが、すぐに強張った身体から力を抜いた。


 ――どうせこのナイフのせいで力が出ないのだ。だったら、無駄な力を使わずに、いざというときの為に溜めておく。


 自身の身に起きている異常の原因。それがナイフにあると確信したレミリアは、目を瞑って意識を集中させる。

 イメージは拡散。全身が霧になり、館全体を包み込むような感覚。

 無論、実際にそんなことは出来はしない。普段の彼女ならいざ知らず、今の彼女は吸血鬼とは思えない程に弱体化しているのだ。

 なのになぜ、彼女は意識をそれに集中させるのか。


「気付いて、パチェ」


 答えは至極単純。館にいる旧友への救援信号だ。

 用心深い彼女の友は、銀髪の少女が館に乗り込んできたことには当然気付いている。証拠に、館全体にはまんべんなく彼女の魔力が漂っていた。

 探索型の大規模結界。彼女がその気になれば、館を超えて彼方の先までその規模は膨らんでいく。それを館に集中させているのだから、当然そのぶん効力は高くなっているだろう。

 故にレミリアは意識を結界に呼び掛けた。妖気が無かろうが身体が動かなかろうが、意識さえあれば旧友は気付いてくれる。そう信じて。


「油断したわね、レミィ」

「……パチェ。気付いてくれたのね」

「当たり前でしょう」


 仏頂面で現れた旧友に、苦笑いで返すレミリア。

 何も言わずにレミリアの傍に座り込んだ彼女の旧友――パチュリー・ノーレッジは、ナイフに手を翳すと小声で何かを呟いた。

 ただでさえ小声で早口な彼女が、高速で呪文を詠唱する。ものの数秒で詠唱を終えたパチュリーは、翳していた手を振りかぶったかと思うと、勢いよくナイフを真上から叩き付けた。


「っ!?」


 条件反射で身体を跳ね上げたレミリアは、しかし倒れはせずに広げた羽で宙に浮き上がった。

 ナイフはレミリアの身体を突き抜け、館の床に深々と突き刺さっている。

 パチュリーはナイフを叩いた手を擦りながら、レミリアの身体を見て小さく溜め息をついた。


「もう大丈夫でしょう? なら早く行きなさい。死人が出るわ」

「……何?」


 レミリアが首を傾げ、しかしパチュリーはすでにその場から消えていた。必要最低限以下のことだけを語って去っていった魔女に、残されたレミリアにはもやもやした何かが残る。


 ――早く行けとはどういうことか。あの娘がどこに向かったのか、結界を展開しているパチュリーならそれはわかって当然だ。

 けど、あの口振りは私も知っていて当然、と言った感じだった。それに、死人が出るだなんて物騒なことまで言っていた。

 御父様が生きていた頃は、あの『時の魔女』を筆頭に血生臭い出来事がやたらと起きてはいたが、私が城主になってからは随分と落ち着いてしまった。

 そんな今の館で、死人が出るような場所なんて――


「……まさか」


 つらつらと思考が歩き、辿り着いたひとつの扉。

 外傷ひとつ見当たらない彼女の顔が青くなり、一筋の汗が眼の横を伝う。


 ――駄目だ、早く行かなきゃ本当に――


「ッ!?」


 地に降りて扉に駆け出したレミリアは、突如響い轟音に身を震わせる。

 館を揺るがす衝撃波。ここを覆っていた結界が音を立ててひび割れた。


「駄目……駄目よ、フラァンッ! 」


 叫びながら、レミリアは地を蹴って部屋を飛び出した。

 向かう場所は地下。厳重な封印が施された、妹が存在を許される唯一の場所。

 辿り着くのは早かった。そして、あるはずの封印が破られているのを理解するのも早かった。ただ、ほんの少し。地下室の扉を開けるまでが、躊躇したせいで遅かった。


「が、かっ……」

「なぁんだ、もう終わり?」


 彼女の妹――フランドールが心底つまらなそうに、座り込んだ少女の頭を蹴り飛ばす。跳ね上がった首は反動でガクリと垂れて、赤い液体が数滴地面に滴った。


「フラン! 止めなさい、もういいのよ!」

「ほぉらぁ、早く起きてよぉ」


 ぐったりとしたまま動かない少女の頭をわしづかむフランドール。その小さな手からは考えられない握力で、少女の身体を持ち上げる。

 レミリアはそんな妹の腕を掴み、必死に妹を止めようとしていた。

 しかしフランドールは止まらない。

 隣にいる姉の姿など無いかのように、口の両端を吊り上げながら、動かない少女を眺めている。

 普通なら、ここで終わりだろう。誰の目から見ても勝敗は明らかだ。

これ以上の攻撃は戦いの域を超えてしまう。

 それでもフランは止まらない。元より彼女はこれを戦いとは思っていないのだ。遊びに遠慮などいるものかと言わんばかりに、彼女の行動はエスカレートしていく。

 完全に無抵抗の少女を片手で揺さぶり、惰性でそのまま投げ捨てる。かと思えばまた持ち上げて、今度は間違いなく狙って地面に叩き付けた。










 ――ここか。


 唾を飲み込んで、ひとつ心の中で頷いた。

 今の一連のフランの行動。恐らくそれが、咲夜の心に刻み込まれた『トラウマ』のきっかけだ。

 最初は僕が『トラウマ』の原因だと思っていた。だからこそ、僕に対する苦手意識を払拭させるために最初の反乱騒動を起こしたのだ。彼女が心の底から忠誠を誓う存在――レミリアが傷付けられているのを見れば、咲夜は間違いなく僕に襲い掛かってきていたはずだ。そしてそうなれば話は早い。一瞬でも『憤怒』が『恐怖』を超えさせすれば、僕がその状態を維持させる。


レミリアとの戦闘で多大なダメージを受けているであろう僕は、掛値無しの全力で向かってくる咲夜にきっと打ち負けていただろう。結果的に僕を下したことが出来た咲夜は負い目を無くし、晴れてトラウマ解消――万が一動けない僕にトドメを刺しに来た時の為に、ルーミアに助力も頼んでおいた。

 これが僕の考えていた事の顛末。全てが全て上手くいかずとも、大筋が通ってくれれば成功する自信はあった。

 けれどそれは、トラウマの『原因』が僕であることが前提での作戦。つまり、『原因』が僕じゃない以上、失敗する成功する云々の話ですらなかったのだ。

 事実、咲夜にトラウマを植え付けたのは、僕ではなく昔のフランだった。僕はそれを呼び起こすきっかけを作ってしまっただけの話。当然作戦は瓦解して、予想は全て無駄に終わる。

 結果的にその作戦は咲夜の心の傷をえぐりあげ、無用の問題を引き起こしてしまったわけなのだが、今はそれはおいておく。


「……」


 隠行を続けたまま、顎に手を当てて考え込む。

 レミリアから受け取った記憶のおかげで、僕とフランが関係した咲夜のトラウマの疑問は解けた。

 ただ、咲夜がああなってしまった原因がどうにもわからない。トラウマが全ての原因だと言うならば、もっと早くにこんな事態に陥っていたはずだ。

 今の咲夜を支配するのは、身体を凌駕する程に強力な復讐心と、どこまでも広がっていくかのような、のっぺらとした虚空感。虚しい事と自分で理解しているくせに、五体に刻み込まれた復讐の念は彼女を際限なく走らせ続けている。


「ミィッ!」

「っ!」


 声に反応し、反射的にしゃがみこむ。ナイフは髪を数本散らし、しかしどこにも刺さらずにその姿を消した。

 隠行まで見破るなんて、いよいよもって異常な話だ。僕の隠行はあの紫でさえも気付かないと言うのに。

 しかも……。


「……有り得ない。底が見えないなんて」


 ずきずきと痛む頭を抱えながら、思わず出た本音。

 先程から幾度となく、僕は咲夜の感情を引き抜き続けているはずなのに、全くと言っていいほどに咲夜の心は動じていない。こちらの見た目ばかりが黒くなり、咲夜の心は少しも変化していないのだ。

 感情の引き抜きとて、無限に続けられるわけではない。このまま今の状態が続けば、先に音を上げるのは僕の方だ。元より、負の感情に対する抵抗を高める為に、擬似的とは言えリスクの高い『黒化』までしているのだ。どちらにせよ、長丁場は望ましくなかった。


「咲夜! 咲夜! 私がわからないの!?」


 上空では必死にレミリアが咲夜に呼び掛けている。呼び掛けることに必死なレミリアをフランがカバーすることによって、今の今までナイフに当たってはいない。

 しかし、レミリアにしろフランにしろ、一度はあのナイフに掛けられた術式のせいで力が落ちてしまっている。直撃を喰らうのも時間の問題だった。


 ――どうする。どうすればいい。


 痛む頭で考える。

 要するに、咲夜を正気に戻させればいい話なのだけれど、僕の能力だけでは正気に戻すまでには至らない。

 親い存在であるレミリアの呼び掛けも、今の状態では右から左だ。

 こうなったら、一度気絶させてしまおうか。……いいや、時間稼ぎにはなるだろうけれど、結局解決には至らない。それ以前に、今の咲夜にはそんな隙は見当たらなかった。懐に入る前に打ち落とされるのがオチだろう。


「くそ」


 悪態をついて、頭を激しく掻き乱す。


 ――せめて、咲夜がああなった原因がわかれば、対処のしようもあるだろうに。


 そんなことを考えて、ふと思い出す。


 そういえばもうひとつ。

 レミリアからもらった記憶の他に、もうひとつだけ、覚えの無い記憶があったのを思い出した。













 『それは、報われない一人の女性の話。』


 『血塗れの人生の果て、他人から見れば悲劇としか言えない結末の物語。』









「ッ!?」


 途端、電流のように頭を走った痛みに顔をしかめた。

 けれど思考は止まらない。加速する思考は更なる頭痛を呼び起こすも、溢れだした水のように思考は進んでいく。






『彼女を取り囲むは数多の妖。それら全てを凪ぎ払うのが彼女の行き様。』


『果てに残るは大陸最強の妖怪。紅い霧を操る規格外の吸血鬼。』






 答が最初からわかっている虫食い問題のように。

 或いはあるべき場所に自ら嵌まっていくパズルのピースのように。

 滞ることなくスムーズに流れていく思考に、何故だか違和感を覚え始める。







『時の魔女は魔女ではなくなり、紅い霧の吸血鬼は霧を抱えて消えていく。』


『残されたのは愛する家族。我が身よりも家族を選び、彼女は息を引き取った。』







 暫くして、気付く。

 思考は確かに声となり、僕の頭の中で響いていることに。

 いつか聞いた、懐かしくさえある女性の声。









『かつての魔女の夫と娘。妻を、母を失った二人は少なからず絶望した。』


『そして、その絶望こそが、全ての始まり。』









 一際強烈な頭痛。鈍器で殴られたような衝撃と、直接電流を流されたような鋭い痛みが、僕の意識を刈り取っていく。

 身体が揺らぐ。

 いけないとは思いながらも、目の前が暗くなっていくのを止められない。








『ここから先は私のお話。貴方では関われない、遥か昔の物語。』










「だから少しだけ、私とウェルハイムに身体を貸して。大丈夫。あの娘は私が誓って助けてあげる」

「ほぉ……。あやつと我の因縁は、世代を超えて続いているらしい。喜べ、魔女よ。娘はかつてのお前にそっくりだ」



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