105:〔言わない〕
「大丈夫?」
「うん。もうへっちゃらだよ」
傷だらけだったはずの身体。その幾多の切り傷が、凄まじい勢いで塞がっていく。
吸血鬼の自己治癒の凄まじさに目を奪われながらも、僕はフランに問いかけた。今は、とにかく時間が無いからだ。
「フラン。咲夜に一体何が起きているんだ? 何かわかることがあったら、教えて欲しい」
僕の言葉に、フランは少し困ったように首を傾げる。
「……えっと。教えてあげたいのは山々なんだけど……」
ちらりと、横で眠ったままの姉――レミリアを見て、頬を掻きながら口ごもるフラン。
何か事情があるのは簡単に見てとれたが、ここで話を終わらせる訳にはいかない。僕が引き起こしたとはいえ、非常事態の今は一刻も早く咲夜を正気に戻さなければならない。
その為には、少なくとも咲夜が今置かれている状況を理解しなくては……。
そう思って、再度フランに質問しようとして。
「……いいわ、フラン。話しなさい」
「お姉様! 大丈夫なの!?」
不意に声を発したレミリア。立ち上がったフランを手で制した彼女は、周りを一瞥して小さく息を吐いた。
その表情はどこか悲しげで、どこか虚ろな瞳で自分の胸――咲夜のナイフが刺さっていた箇所を眺めている。
「久し振りね……。懐かしいわ、この感覚」
「お姉様……」
消え入りそうな声。平坦な音の言葉でそう漏らし、フランも沈んだ声で姉を見つめている。
この雰囲気では迂闊に口も開けずにいた僕は、黙っていることしか出来ずにいたが、レミリアが立ち上がったところでそれは終わった。
僕に向けられた彼女の瞳には、いつもの紅い光が、元通りに宿っていたから。
「教えてあげる。あの子……咲夜と、私達の間にあったこと。でも、その代わりにひとつだけ約束して」
「……何?」
「あの子を、咲夜を絶対に助けてあげて。あの子は、ずっと、ずっと、長い間を苦しんで生きてた……。もう、楽にしてあげたいの」
胸を抑えながら言うその姿は、従者を想う主とはまた違う。家族を想うような、暖かみのあるその感情が、僕の内側に流れ込んできた。
無言で頷くと、レミリアはこちらへと近付いてきた。
言われるがままに膝を付き、目線を合わせる。
「これから貴方に、私の記憶を送るわ。時間自体はほんの一瞬で済む。けれど、仮にも年単位に及ぶ記憶を受け入れるのだから、何かしら弊害が起きるかもしれない」
「構わない」
「……じゃあ、いくわよ」
真紅の瞳が僕を捉え、ついでコツリと額が当たる。
瞬間、感情が流れ込んでくるのとはまた違う――映像を伴った、質量を持った何かが、頭に直接流れ込んできた――。
――拙い。
かつてここまで――ある程度力を抑えているとはいえ――この私が、痛みで歯噛みをしたことがあっただろうか。
私は闇の妖怪。腕が飛ぼうが脚が無くなろうが、腹が抉られようが首が落ちようが、そこに闇が存在する限り、私の意識が一瞬でもある限り、私は何度でも復活する。
痛覚が無い、わけではない。腕が飛べば普通に痛いし、闇に還せば無くなる傷口と言えど単純に痛い。
だがそれは、私の身体が闇に紛れていなければ、の話だ。大概の攻撃なら、当たる前に身体が反応して闇となり、私にダメージは加わらない。
質量が無い、更には霧のように気体ですらない闇は、それこそ光でもない限り滅することなど出来はしない。
故に私は、闇は永久にあり続ける存在。光と対をなし、互いが互いを殺して生かし合う永久なる存在。
――だと、言うのに。
「この、小娘がぁ!!」
拡散する闇。広がれども薄くはならない闇を部屋中に広げる。
大概の奴はこの闇に呑まれたが最後、私が気まぐれを起こさない限りはその場で一生を終える。
私の闇は、視界は勿論五感全てを浸食していく。
何も見えず、何も聞こえず。気が触れて叫べども、体の内側に響く音すら聴こえない。
そうして何日も何日も、外界から遮断された暗闇の世界に閉じ込めて、じわじわと弱っていく様を眺めて嗤うのが私という妖怪なのだ。
――だが。
「はぁっ!!」
「っ……!?」
気合一閃、とでも言うのか。
闇に呑まれたはずのメイドは、何の変鉄もないナイフで、私の闇を打ち払う。それどころか、
「痛ッ」
闇に紛れていたはずの私の頬に、綺麗にぱくりと赤い口が開き、唾液の代わりに血を垂らした。
だらしのない口だこと、とくだらないことを考えながら、私を囲うナイフを全て弾き返した。
「闇に紛れているはずの私を傷付けるなんて……」
ぎり、と歯軋りの音がして、いけないいけないと唇に手を当てる。
今の私は私に非ず。好き勝手に人間を堕とし、喰らっていた昔ならいざ知らず、今の私には御主人様の命がある。
思わず本気になってこのメイドを殺したりしたら、御主人は容赦なく私を滅しにかかるだろう……あぁ、けれど。それもまた一興かもしれない。
あの優しげな顔が怒りに歪み、私の血でその出が汚れていく。私という存在で、御主人様が汚れていくのだ。それはそれで……良い。
「……本当にダメね。少し落ち着こうかしら」
何故かおかしな方向にスイッチが倒れている気がして、私は完全に闇に紛れて頭を冷やすことにした。完全に闇と化した私に触れられるもの等無いが、それでも油断は禁物。俯瞰の風景を保ちナイフの雨を避けておく。
しばらくはこうして時間は稼げるだろうが……。
(どうにも……煮え切らないわね)
時間稼ぎをかってでたとはいえ、たかが異能持ちの小娘ごとき。このままやられっぱなしはどうにも気に入らない。
一度でいい。あの凍ったように崩れないあの顔を、苦痛に歪ませてやりたかった。
ほんの一撃だ。死にはしない。つまり、御主人の命には背くことにはならない。
少し、ちょっとだ。その端整な顔付きが、少しでも歪んでくれれば、それでいいのだ。
それだけで、私は満足できる。
「……フフ」
自然と笑いが漏れた。あぁ、やっぱり私はこういう存在なのだ。
何かに忠実になろうとしても、結局自分の欲には逆らえない。
御主人様を裏切ることになる。そう頭では理解していても……いいや、理解しているから尚、私は私に逆らえない。裏切りの罪悪感さえ、背徳故に興奮を覚えているくらいなのだ。
「あぁ、あぁ」
闇のまま、ナイフの隙間をくぐり抜けてメイドの背後に忍び寄る。
あと少し。ほんの少しで間合いに入る。この手で直に剣を持ち、肉を切り分けて骨を押し断つ感触が味わえる。
興奮は更に高まっていく。今、私が実体を持っていたならば、さぞかし欲情しただらしのない顔をしているだろう。
メイドは気付かない。私が闇に紛れてしまったことで、攻撃しようにも出来ないのだろう。
既に私は間合いに入っていた。その無機質な顔を間近で眺め、これから歪むであろうその表情に想いを馳せた。
恍惚とは正にこのこと。目を細めて口角を吊り上げた私は、音も無く剣を手に持って――
――剣を構えたルーミアを、すんでのところで突き飛ばす。
「く、おぉっ!」
そして、身体に迫る幾多のナイフと決死の覚悟で向かい合う。
頬を掠め。
爪で弾き。
着物を裂かれ。
「フラン!」
「うんっ」
それでも避け切れなかった銀色は、神速の槍と灼熱の剣が凪ぎ払う。
レミリアの手に戻ったグングニルに着地した僕は、呆然としているルーミアの元へと跳んだ。
「ルーミアっ!」
「御主人様……」
はっとして僕を見るルーミア。まだ、頭の整理が追い付いていないらしい。
仕方なかろう、咲夜がナイフを展開させるその瞬間まで、彼女はそんな素振りを全く見せていなかったのだから。
時を止めたと言えばそれまで。しかし、ルーミア程の妖怪が近付いてきているのを知っていて、無反応を装えるのは並大抵のことではない。
迂闊に接近を許せば、瞬きの間に刈り取られることもあり得る。普通は近付かれていることがわかったならば、警戒するのが当然の反応なのだ。
だからルーミアも油断した。何の反応も示さなかった彼女を見て、接近に気付いていないと考えた。
その油断を突いての奇襲。咲夜は、闇討ちの背中を狙い撃つつもりだった。それも、闇の女王を相手取ったこの状況下でだ。
「……まんまとやられたわね」
ようやく、自分が罠に嵌まっていたことに気が付いたのだろう。彼女にしては珍しく、悔しそうに呟いている。
雪辱を晴らしたいところではあろうが……。
「ルーミア」
「わかっていますわ」
言うより早く、彼女は闇に姿を変えていく。どこか、その闇がねっとりとした質量を持っているように見えて、けれど何も言わずにそれを眺めていた。
闇が屋敷の壁の向こうに消えていったのを確認した僕は、未だ宙に浮いている彼女に意識を向ける。
「…………」
なんて、無機質な心。
それは、触れれば割れてしまうような硝子細工のそれではない。
何事にも揺らぎそうにない、ただひとつの感情が、心そのものを覆ってしまっている。
そして、そのひとつの感情とは――。
「復讐……」
ぽつりと呟いたのは、咲夜だった。
元より色白の咲夜ではあるが、今の咲夜はまるでマネキンのよう。呼吸による胸の上下も、瞬きさえも、今の彼女には見受けられない。
――彼女の周りだけ。いいや、彼女自身も、存在としての時が止まっている。そんな、印象を受けた。
「灰色……灰色の、吸血鬼は、どこ?」
「……?」
「仇を取るの。お母さんを殺した、吸血鬼。灰色の、吸血鬼」
たどたどしい言葉。どこか子供のような言葉遣いと、底冷えした冷たい声に、思わず身体が震えていた。
しかし。
「……レミリア」
「……知らないわ。灰色の吸血鬼なんて、見たことも聞いたこともない」
そうだろうな、とレミリアの言葉に息を吐く。
僕自身、灰色の吸血鬼に知り合いなんていない。
灰色、と言うだけなら僕に当てはまる訳ではあるが……生憎僕は吸血鬼じゃあ無いし、咲夜の母親なんて知りもしない。
「お母さん……お母さんの仇……! 仇を、討つんだ!」
瞬間、放たれるナイフの嵐。最小の動きで避けるに止め、先程『短くなってしまった』爪を再度伸ばした。
結界は使わない。と、言うよりは、使えない。
「一撃でも食らっては駄目よ。まともに食らえば、私の二の舞になる」
「……みたいだね」
空間に満ちるナイフ全てに、例の術式が掛けられている。
僕自身はまだ食らったことがないのでわからないが……レミリアやフランの事後を見る限りは、食らえばただでは済まないだろう。
「ミィ……」
「大丈夫。きっと上手くいくさ」
「……うん。私、頑張るよ」
フランの炎剣が、気持ち強めに揺らめいた。
その隣では、帽子を投げ捨てたレミリアが大きく羽を広げている。
咲夜を正気に戻す為には、僕だけでは到底無理な話というものだ。
けれど、この二人が協力してくれるなら。
そして――
「咲夜」
――彼女の意志が、欠片でも残ってくれているのなら。
僕はそれを、全力で引っ張り上げてやるだけだ。
「まだ、ゴメンは言わないよ」
ざわりと、髪が逆立つ感覚。
「ちゃんと、伝えたいからさ」
次いで、意識が少し重くなる。
――持ってくれよ、僕の意識。
「絶対に、君に文句を言わせてみせる」
レミリアが僕の変化に目を見開いた。
当然だ、今、僕の姿はみるみるうちに『黒色』に染まっていっているのだから。
――疑似黒化。
今の咲夜の感情を操るには、こうでもしないと無理な気がした。
当然、リスクは高い。一歩間違えば大惨事に成りかねない。
けれど、そのリスクに見合うだけのリターンも、ある。
「いくよ、二人共」
鋭くなった犬歯を噛み締めながら言う。
返事を待たずに、僕は地面を蹴っていた。




