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9/12

元伯爵令嬢は願う/宰相閣下は夢を見る

 フィーネは泣いて泣いて泣き続けて、そのまま寝てしまった。

 それを、イネスは傍らで見ていることしかできなかった。

 頭を撫でることもできず、声をかけることもできず。

 ただただ、蹲って肩を震わせる娘の傍らに座って見守るしかできなかった。

「ティアナ、早く帰ってきてよ」

 聞こえるはずのない声で呟きながら、触れられない娘の髪を撫でる。

 枕に顔をうずめたままだから、フィーネの表情は見えない。

 だけど、先ほどまで震えていた肩は、今は穏やかに上下していて、フィーネが一時とはいえ、ようやくのように自責の念から放たれたことをイネスに教えてくれた。

「私の声は届かないの。私では温めてあげられないの」

 だから、戻ってきてよ。

 見えないのに、フィーネの前では我慢していた涙がポロリと零れて落ちる。

 もちろん、それがフィーネを濡らすことはない。

 もどかしい。

 もどかしい。

 昔を思い出す。

 生まれたばかりの娘が泣いても乳をあげることも、抱き上げることも、何もできなくて。

 もどかしくて、いろいろなものに当たり散らして。

 それでも、誰にも何も伝わらなかった。

 何も変わらなかった。

 だけど、あの日。

 ティアナが来てくれたから。

 いつも、フィーネの傍にティアナがいてくれるようになって。

 その日から、イネスは穏やかな心を取り戻した。

 もうずっとずっとこんな思いは抱かずに済んだのに。

「ティアナ、帰ってきてよ」

 ティアナに今すぐ会いに行きたかった。

 戻ってきてと、フィーネの傍にいてと請いたいのに。

 だけど、イネスはこの屋敷から出られないようだった。

 実体のない身は、どうしてか外に出ようとすると壁や窓や開かれた扉にさえ弾かれてしまうのだ。

 ポロポロと零れる涙を拭うこともなく、それでも、イネスはフィーネの傍らに座り、眠ってしまった娘の触れられない髪を、背を撫で続けた。


 どれほどそうしていたのだろう。

 控え目なノックがして、そっと扉が開けられた。

 すると、ぐっすり眠っていたように見えたフィーネがパチリと目を開けて、勢いよく身を起こした。

「ティアナ様!?」

 そう呼びかけて、だが、そこに立つ人を認めた途端、顔を歪めて、すぐさまそれを隠すように枕に顔を埋めた。

「フィーネ」

 優しい声が名を呼ぶのにも、ピクリとも反応しない。

 フィーネの父親は困ったように微笑みながら、部屋へと入ってくるとイネスに気が付くはずもないまま、ベッドに腰かけた。

 イネスのすぐ隣。

 イネスは、なんとも不思議な気持ちで夫を見つめた。

 ユージンは大きな手のひらで、フィーネの髪を撫でる。

 イネスではどうあがいてもできない慰めは、しかし、悲しみに沈む娘の顔を上げさせることはできなかった。

 それでも根気よく、ユージンは髪を撫で続ける。

 やがて。

「ティアナ様は?」

 少し落ち着いたのか、フィーネが枕に顔を沈めたままで尋ねる。

 弱々しい震えた声に、ユージンが少し眉を寄せたのを、イネスは見守った。

「会えたよ」

 すると、フィーネはようやくのように顔を上げた。

 真っ赤に腫れた目元にユージンが優しく口付ける。

「少し、疲れているようだったから、今日は侯爵家で休ませた方が良いだろう」

 それが本当なのか。

 イネスには分からない。

 それは、娘も同じだったようだ。

「帰ってきてくれないの?」

 そう呟いた、その瞬間に、フィーネの瞳から再び雫が溢れた。

 先程までは、枕に染み込むばかりだったそれは、ユージンの指先にすくわれる。

「私、初めてティアナ様に会った時、ひどいことを言ったわ」

 ユージンは頷いた。

 それを否定する術は、この親子にはない。

 イネスだってそれを知っている。

 でも。

「ティアナはそんなこと怒ってないよ」

 そうだ。

 ティアナは、そんなこと怒っていない。

 あの女性は、全てを承知して、なお、この二人にとってかけがえのない存在となるまでに、惜しみなく全てをささげてくれたのだ。

 そして、それはフィーネだって、分かっている。

 だからこそ。

「でも、私は私を許せない」

 それにユージンは言葉を返さない。

 ただ、宥めるように涙に濡れる頬に口づけ、抱きしめ、目を伏せた。



 ユージンの脳裏に様々なことが浮かんでは消える。

 ユージン自身忘れていたような情景がやけに鮮明であったり、かと思えば、しっかりと覚えている筈なのに絵画のような断片的な場面が続いたり。

 時系列もバラバラで、ころころと無秩序に変化するから。

 ああ、夢を見ているのだ。

 そう、理解する。


 イネスを初めて見た日から、それは始まった。

 噂に違わぬ美貌の娘が、儚げな風情で目の前に立っている。

 目の前に現れた男が、政略結婚の相手だと知っていて、俯き続けていた娘。

 冷静沈着、を通り越し冷酷無比とも言われる男爵家五男は、体格の良さとあいまって、蝶よ花よと育てられた娘には、さぞかし恐ろしかろうと。

 最初に距離を置いたのは自分の方だったと今なら分かる。

 背を向けた己を見る娘の瞳が、どこか寂しげだったのは、それが確かな記憶なのか、夢故の都合の良い幻影なのかは、分からなかった。

 ただ、あの時のユージンは、自ら娘に近づくことなどできなかった。

 ユージンの前で身を縮める娘の態度に大人気ないと、更に距離を置くことしかできなかったのは、言い訳するなら自身も若かったからだ。

 義務だけで妻とした、と。

 その娘に、一方的に情愛を抱いたなどと、認めたくないほどにプライドばかりが高く。

 鷹揚に腕を広げて抱きしめて、愛を囁けるはずなどないほどに未熟だった。

 それでも、歩み寄るチャンスは何度もあった筈だ。

 肌を重ねた夜も。

 子を身ごもったと告げられた日も。

 徐々に母の体になっていくのを見守る日々にも、だ。

 だが、結局、距離を置いたままに、妻は子と引き換えにこの世を去った。

 その時々に、己が何を思い、何をして、何をしなかったか。

 全てを覚えているわけではないが、いつも、そこには苦々しい後悔がついて回る。

 結局、政略結婚ではありながらも、妻を愛しむ想いは確かにあったのに、一度としてそれを告げることなく、妻を亡くしてからは、懺悔のようにひたすらにフィーネに愛情を注いできた。

 宰相閣下ともてはやされるも、こと情愛に関しては愚かで不器用なのは自認している。

 だから、もう、恋だの愛だのという男女の情はいらぬと思っていた。

 だが、あの女性が現れた。

 ティアナを妻とした日は、イネスを妻としたとき以上にはっきりと覚えている。

 あの侯爵が「懐刀として貴殿に預ける」と。

 そう言って、宰相という重責を負ったばかりのユージンに、最も権力を持つと言われる将軍が嫁がせた孫娘は、当たり前だが、イネスとは、まったく違っていた。

 初めて顔を合わせた日、まっすぐに己を見つめる女性は、鬼人と恐れられた将軍の面影をうっすらとその面に湛えながらも、まろやかさと柔らかさを備えた笑みを浮かべて優雅に礼をくれた。

 その仕草一つで、ユージンの立場と、己の役目を十分に弁えていることは、すぐさま知れるほどに。

 だが、実際に嫁いできた娘は、ユージンの予想をはるかに超えていた。

 初対面で、十にもならぬ娘に政略結婚であることをはっきりと告げたのには、正直驚かされた。

 だが、あれでフィーネの信頼を得たのは間違いない。

 なによりも、今ある二人の絆が、ティアナがいかにフィーネに愛情を注いだかを如実に語っている。

 ユージンに対しても、そうだ。

 あの言葉で、ティアナがユージンの妻としての立場を望んでいないことは知れた。

 本音を言えばほっとした。

 この女性は同胞であり、男女のしがらみは不要なのだ、と。

 そして、ティアナは名のみの夫であるユージンにも、真摯であり続けた。

 あの女性は。

 ユージンは知っている。

 ティアナは、全てを受け入れる。

 フィーネの想い。

 ユージンの心。

 そして、まるで、イネスの願いをも知るかのように。

 全てを弁え、そして、ユージンに、フィーネに寄り添い続けてきた。

 惹かれないはずがない。

 最初に、妻としなくて良いと安堵したのは、何だったのかと思うほどには。

 ユージンは、もうどれほどもティアナを一人の女性として、側に置いてきたのだ、と今更に思い知る。

 ただ、男としての己をぶつけるには、ティアナは高潔過ぎた。

 数年で立ち去る意志を隠すでもなく。

 立場を弁え、使命を果たさんとする娘に、それ以外を望むのは酷く醜いものに思えた。

 いや、それも言い訳だろうか。

 そして、今。

 役目を終えた、と彼女は言う。

 それは、正しいのだろう。

 ユージンはその地位を揺るぎないものに。

 フィーネは嫁ぐ。

 彼女に課せられた使命は、終わりを迎えつつある。

 とすれば、ティアナがこの家を出ていくのは、必然であるのだろう。

 侯爵将軍も言ったではないか。

 『預ける』と。

 いずれ返すべき存在だったのだ。

 だが、それを想像して。

 ゾッとした。

 あの存在が、己の元を去る、という現実に感じるのは焦燥と絶望。

「ユージン様」

 不意に声が聞こえた。

 記憶の奥底にある少女のような軽やかな声。

 それが誰なのかを思い出した瞬間、その姿が目の前に浮かぶ。

 亡くなったときのまま、少女のような姿で。

「イネス」

 名を呼べば、妻は泣きそうに、それでも微笑んだ。

 ユージンには見せたことのない表情に、これもまた夢なのだと思い知る。

「私、ユージン様を好きでした。でも、言えなくて」

 都合の良い言葉だ。

 それでも、ユージンはこの機を逃せば、なお後悔を重ねることが分かっていたから。

「愛しく思っていたよ。フィーネが産まれて、変われるかもしれない……変わりたいと」

 そう願っていたのだ。

 イネスの瞳からポロリと涙が零れた。

 思わず手を伸ばすのに、指先は何の抵抗もないままに目の前の妻をすり抜けて。

 やはり、もはや、この後悔は取り返しがつかないのだ。

 目の前の幻も、まるで、ユージンと同じ想いを持つように。

「後悔していたの」

 呟きは続く。

「もう、後悔して欲しくないの……誰にも」

 そして、何かを決意するように、自らの手のひらで零れる涙を拭うと、まるで花が咲くように微笑んだ。

「今、貴方に必要なのは誰ですか?」



 ふと浮上した意識に、フィーネを抱いたまま眠ってしまったのだと気がつく。

「イネス」

 何年ぶりかに、その名を呟く。

 何も起こらない。

 当たり前だ。

 もう、彼女はいない。

 だが、ティアナは、存在しているのだ。

 ならば、後悔しないためにできることは決まっていた。

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