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現伯爵夫人は諭す

 突然、実家に戻ったティアナを、祖父である侯爵は思いのほか穏やかに迎え入れた。

 どちらかといえば長身の部類に入るティアナを腕を広げて「おかえり」と誘い、誘われるままにティアナはその広い胸元へと身を寄せる。

 ティアナの両親は、既に他界して久しい。

 霊を見るという厄介な娘を、それでも侯爵家領地の片隅で、惜しみない愛情をもって育ててくれた両親。

 彼ら亡き後、ティアナを手元に呼び寄せたのは、この祖父と、祖父にとっては二度目の妻であり、ティアナにとっては血の繋がりのない祖母となる女性だった。

 祖母は、元々は王妃の教育係として宮殿に仕えていた女性で、年齢を理由に職を辞す際に祖父に請われて侯爵家に嫁いだという経歴の持ち主だ。

 見えないものと、ときに戯れ、ときに怯える幼児を鷹揚に受け入れ、慈しんでくれた二人のおかげで、両親はこの世に留まらずに済んだのだろうと、ティアナは思っている。

 そして、ティアナの身についている全てが、この祖母から授けられたものといって良いだろう。

 その祖母も他界して幾年と経つ。

「ゆっくりとしていくが良いよ」

 若い頃から何度と戦に赴いた侯爵将軍の喉は潰れて、声はしゃがれている。

 年老いて、なお大きい祖父の身体にすっぽりと抱きしめられて、ティアナはほっと息をついた。

 何も聞かれない。

 異端能力故に、社交界に馴染めなかったティアナは、祖父を見送った後は、いずれは修道院にと考えていた。

 それを受け入れていたような祖父が、既に適齢期を過ぎたティアナに嫁ぐよう乞うたときの戸惑いは、今はもう昔のことだ。

 ようやく戦が終わり、平和を歩み始めた国の若き宰相に力を。

 未来の王妃に平和の象徴となるような美しさと聡さを。

 異端ではない、祖父と祖母によって与えられた能力でもって。

 それらを彼らに与えてくれないか、と。

 戦を治めた候爵閣下の掌中の珠。

 知性と品格を持ち合わせたお前に、あの親子の支えになって欲しい、と。

 それに応えたいと思い、力は尽くした、と思う。

 願わくば、お前にも一人の女性としての幸せを、と続いた祖父の想いには応えられないが。

 もう、いいですか。

 祖父に、そう尋ねるのは難しくない。

 武闘派としてだけでなく、知略家としても名を馳せた祖父のことだ。

 ティアナより、よほど先のことも見えているのかもしれない。

 ただ、今は何も言わずに抱きしめてくれるから。

 ゆっくり休んで良いのだ。

 ティアナは素直に頷いて、祖父に促されるままにソファへと腰を降ろした。


 何やら、屋敷内に慌ただしい気配が蠢いたのは、祖父と二人で夕食を終えて寛いでいた時だった。

 ティアナも幼い頃から知る侍従が現れて、祖父の耳元へと何かを囁いていく。

「ティアナ、お前に客だそうだ」

 そんな言葉を残して、祖父は客間にティアナを向かわせる。

 先に部屋に通されていた客人を、正直、ティアナは予想していなかった。

「閣下」

 備えられているソファに腰かけることもなく、声をかけたティアナに向き合う宰相閣下は、いたく不機嫌な様子だ。

 一歩、踏み出して距離を縮めてくるのに、つい、身体を引いてしまえば、端正な男の面には僅かに戸惑う気配が漂う。

「ティアナ」

 名を呼ばれ、応えるように、今度はティアナが一歩近づく。

 それでも、お互いに手を伸ばせば指先が繋がるだろうかという距離を置いて、ティアナは膝を折って礼をした。

「帰るぞ」

 挨拶も、なんの前置きも何もなく、いきなり言われてティアナは目を瞬く。

 閣下の言葉の意味が分かりかねて、少し首を傾げると、ティアナの疑問をしっかりと理解したのだろう

「俺はお前を迎えにきたのだが」

 いささか苛立ったような言葉に、ティアナは正直なところ狼狽していた。

 迎え?

 それも、閣下ご本人が?

 何故にティアナを迎えにくるのか。

 それでも、あからさまにそれを表には出さないことに、成功するほどには、ティアナは強かだった。

「ですが、閣下」

 声が感情的にならないようにと。

 珍しくも、そんな心持ちで、ようやく発した言葉は、しかし、「ロゼッタは、子爵家に帰した」と冷静に返す声に遮られ、さらに、閣下は一歩二歩とティアナに近づいて。

「帰るぞ」

 腰に手を添え、促し、導くように押される。

さほど強い力でもない。

 しかし、常にはない閣下との距離と、ティアナの知らぬ強引さに、今度は取り繕う余裕もなく、ティアナの肩はビクッと跳ねた。

「ティアナ。フィーネも待っている。帰るんだ」

 閣下の愛娘の名前に、ティアナは顔を上げた。

 傍らに立つ閣下は、祖父ほどに背は高く、傍らに立たれてしまえば表情は分からない。

 だが、今はしっかりとティアナを見下ろしているため、その表情は見て取れた。

 あからさまな不機嫌。苛立ち。

 見え隠れする不安と心配。

 平素であれば、ティアナには見せないだろう閣下の内側に、少なくない罪悪感を抱きながらも、ティアナは首を横に振った。

「……いえ、しばらくこちらに留まろうと思っております」

 閣下の眉間の皺が、更に深まる。

 腰に添えられた掌の指先にも、その感情の起伏は現れた。

「伯爵夫人が、実家に何日も滞在したとなれば、つまらぬ噂に拍車がかかるだけだ」

 もっともな意見なのだろう。

 宰相閣下が伯爵であり、ティアナはその夫人である、という事実があれば。

 しかし、その事実は上辺であることは、誰よりも当事者である二人が知っていることだ。

「つまらぬ噂……でしょうか?」

 ティアナの問いかけに、いよいよ閣下は不快だと表情を歪め、ティアナの正面に立った。

 腰に添えられた手をそのままに、もう片方の手が肩をやんわりと掴む。

 一段と近づく男性の大きさを、ティアナは祖父以外に知らない。

 ありえないと分かっていても、歴然すぎる体格の差に怯えがチラリと掠めて身が強張った。

「まさか、本気にしている訳ではないだろう」

 フィーネを諭す時と、似て非なる声が、近い距離から落ちてくる。

「お前と離縁し、ロゼッタを妻になどあり得ん」

 ティアナは、思わず息をつめた。

 こんな風に正面切って、離縁を否定されるとは思ってもみなかったからだ。

 心なしか鼓動が逸った気もしたが、それを抑えて言葉を選び出す。

「……閣下、時期なのです」

 呟くように。

 自分でも思いがけなく弱々しい声であったが、宰相閣下には届いたようだ。

 うつむくティアナを覗き込むように、顔が寄せられる。

 少し顔を上げて合わせた視線の先のその面は、やはり不機嫌に顰められていた。

「時期?」

 低い、低い声だ。

 恫喝するでもない静かな響きにも関わらず、威圧感はティアナを凌駕するには十分。

 それでも、ティアナは頷いて。

「はい」

 続ける。

「誰もが、それが噂であると思いながら、否定する事ができないのです。そろそろだと分かっているから」

 宰相閣下にも、思い当たることがあるのだろう。

 ティアナの言葉を、黙して受け入れる。

「……最初は3年と思ってました」

 この関係。

 あの愛らしい娘を、淑女に育てるために。

 この優秀な宰相様に、権力を与えるために。

 祖父に請われての結婚は、期間のある契約だった。

「気がつけば、もう5年です」

 後悔はしていない。

 ティアナ自身が望んだと言ってもいいだろう。

 だが、もう、終わるべきなのだ。

「この状態が閣下にとってご都合が良い事は承知しております。ですが……歪な形を保ち続けることは難しいのです」

 ティアナは、そっと身を引いた。

 強く囚われていた訳でもない身は、あっさりと大きな手から解放される。

「そろそろ、正しい形に戻す頃です」

 宰相閣下の手は、ティアナを追いはしなかった。

 そっと降ろされて、緩い拳に形を変える。

 それを視界の隅に捉えながら、ティアナは再び膝を折って礼をした。

「どうぞお帰り下さい」

 少しの間。

 頭を下げたままのティアナの耳には、小さな吐息が届いた。

 そして、目の前の男が動く気配。

 そっと窺えば、じっと己を見下ろす静かな瞳があった。

 そこに不機嫌さはなく、いつものとおりの宰相閣下だった。

「今日のところは帰ろう」

 そう言って、再びティアナに伸びる手は、ティアナの肘をそっと支えて、まっすぐに背筋を伸ばさせた。

「明日、また来る」

 思いがけない言葉だった。

「閣下」

 その言葉の、いや、その行動の真意をはかりかねて、ティアナは反射的に呼びかけた。

 だが、男はもう一度

「明日、だ」

 言い置いて、ティアナに背を向けた。

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