宰相閣下は憤慨する
屋敷に足を踏み入れた瞬間の違和感は、疲れたユージンの精神をいたく刺激した。
いつもと同じ顔ぶれの家人たちが頭を下げて出迎える中、当然のことながらフィーネがいないことに、まずは気がつく。
「フィーネは?」
左頬にうっすらと赤みを帯びた執事に、既に帰宅してから幾つめかになる疑問を抱きながら、優先度の高い疑問を投げかければ、その隣に控えていた侍女頭が「少しご気分が」と気まずげに答えた。
ならば、ティアナは付き添っているのかと、娘の不在と同時に気が付いていた妻の行方にもあたりを付けた。
しかし、一瞬落ち着きかけたユージンの肌に、家人達に流れる空気の異質さがピリピリと刺さる。
ティアナの所在を確かめるべきだという判断に、口を開きかけると。
「ユージン様、私、ユージン様にお願いが……」
そんな雰囲気を知らぬげに、請われて預かっている今年社交界デビューを終えた娘が、声をかけてくる。
年若い娘の遠慮のなさに苛つきながら、それを無視する形で執事に問いかける。
「ティアナは?」
いつも冷静沈着な男には珍しくも、先ほどよりもさらに何かを迷うように妙な間を置いてから、結局、ユージンが沈黙で促すのに応えて口を開いた。
「少し、実家にお戻りになると」
意外な返答に、ユージンは眉を寄せた。
その先を待つも執事は黙って頭を下げる。
「……何かあったか? 俺は聞いていないが」
敢えて、苛立ちを隠さずに言えば、執事だけでなく、家全体に緊張が走る。
まただ。
不快なこの違和感と、自らもが原因になりつつある自覚はあるも止める術のない漲る緊張感。
フィーネは自室。ティアナは実家。
過去にない状況に居並ぶ家人を見回すが、皆が皆、俯いて沈黙を守る。
故に、誰もがティアナの不在の理由を知っているのだろうと察する。
となれば、フィーネがこの場にいないのも、それに関連があるのだろう。
ユージンの想定以上に信頼関係を築いている継母と娘を思いながら、ユージンは、まずはフィーネの部屋を訪れようと一歩を踏み出す。
そして、このなんともいえない気味悪さを払拭すべく、傍らの執事に命じる。
「ティアナの実家に伝令を。すぐに呼び戻せ」
あからさまに家人の空気が変わる。
女主不在の心もとなさは残るものの、解ける緊張感に代わって安堵が広がった。
「承知いたしました」
答える執事の声も、物静かさを保ちながらも、いくらか浮ついているように聞こえる。
執事の指示に家人が走るのを見送りながらも、体調が思わしくないという娘に足を向けた。
その時、背後から再び遠慮のない言葉が聞こえた。
「どうして?」
声の方に視線を流せば、イネスに似ていると評判の、しかしユージンにしてみれば箱入り故の厚かましさと無知故の軽々しさばかりが目につく娘が、不満げに眉を寄せてユージンを見つめていた。
「どうして、呼び戻すの? どうせ、すぐにいなくなるんでしょう?」
何を言っているのか。
いや、もちろん、ユージンとて、あの妻が世間にどのように言われているかは承知している。
己とティアナは政略結婚であるのも、そこに然るべき関係がないのも事実だ。
だが、この娘には理解できようもない信頼が、ティアナと己にはある。
ただでさえ不機嫌であったユージンの気配が変わったのを、周りの家人は敏感に感じ取り、その中でも年長にあたる侍女頭は、娘を止めるべきとの思いを込めて、その背後にいる侍女二人に目をやった。
しかし、主の何に確信があるのか、侍女二人は澄ました様子で控えている。
「お兄様が言っていたもの。あの人はユージン様の本当の妻ではないって」
そう言って、娘はユージンに近づいてくる。
ユージンは底冷えのする瞳で、娘を見据えた。
「ユージン様の本当の妻にふさわしいのは私だって」
にこりと微笑む、確かに美しい妻に似ていると言えなくもない娘。
視界の端には、納得したように澄まし顔で立つ侍女。
「私、似ているのでしょう? ユージン様が誰よりも愛しているイネス様に」
まるでそれが当たり前のように、己の胸元に伸びてくる華奢な指先。
「だから」
「黙れ」
低い、平坦な、それでいてシンと静かな室内に響き渡る声。
伸びてくる娘の指先を、荒々しく弾いて避ける。
驚いたように目を見張る娘に、一瞥を向けてから、誰ともなく家人に命じた。
「馬を」と。
何が起きたのか、詳細は分からない。
だが、この娘が原因なのだろうと思い至る。
この娘は何を言ったのだ。
あの思慮深く、慈愛に満ちた、穏やかなばかりでありながら強かな。
あの女性が屋敷を出るほどの。
何を言った?
「聞こえなかったか? 馬を用意しろ」
止まったまま動かない家人に再び命じれば、扉に近い一人が慌てて走り出す。
ユージンは、フィーネの部屋へと向かっていた足先を、執事へと変えた。
「伝令はいらない。俺が直接迎えに行く」
執事は一瞬目を見張り、すぐさま「はい」と答え、命じる前に扉近くにいた侍従が頭を下げて外へと出ていく。
「ユージン様!」
「名を呼ぶな」
娘の甲高い声に、静かに命じる。
名を呼ぶことを許した覚えはない。
だが、禁じる気もなかった。
正直なところ、この娘に興味がなかったのだ。
なんと呼ばれようと、気にもしていなかった。
だが、今はそれが腹立たしい。
ティアナはいつも「閣下」と呼ぶことを思い出す。
己の立場をわきまえたように。
「すぐに子爵家に使いをやって、この娘を引き取らせろ」
冷たく言い放てば、娘の顔色が変わった。
愚かな娘だ。
いや、子爵家そのものに怒りが湧く。
イネスに似ている?
だから、なんだというのだ。
見目が似ていることにどれほどの意味があるというのか。
「俺の妻はティアナだ。彼女に何の不満もない」
宰相という立場の己に寄り添い、未来の王妃を導く役目を背負って現れた女性。
たとえ、これが政略結婚であったとしても、それはこのような娘にむざむざと壊される関係ではない。
「なぜ、彼女を手放し、お前のような愚かな娘を娶らねばならん?」
我ながら、大人げなくトドメを刺したという自覚はある。
娘の顔が見る見る間に青ざめて、その場に膝をつく。
慌てて寄り添う侍女二人にも引導を渡す。
「すぐさま、その娘を連れて去れ。目障りだ」
ユージンは、蹲りすすりなく娘に一瞥と与えることなく、用意されている馬へと急ぐ。
フィーネの元に行くべきかを迷ったのは一瞬だ。
あの娘は何よりティアナが戻って来るのを願っているはずだ。
ならば、ユージンのやるべきことはひとつだった。




