伯爵令嬢は後悔している
あの日のことはフィーネにとって後悔しかない。
新しいお母様がいらっしゃいますよ。
そう教えたのは、小さな頃からフィーネの世話をしていた侍女だったと記憶している。
フィーネは母を知らない。
フィーネが生まれた時に亡くなったと、そう聞いていた。
一度としてフィーネの中に存在したことのない、ずっといなくて当たり前の存在。
新しい、と言われてもピンとはこなかった。
ただ、お父様が取られてしまう、と。
今より幼かったフィーネでも、新しいお母様が、お父様の奥様になる人だということは分かった。
そして、屋敷には夫婦で勤めている者たちもいて、彼らは総じて仲良しだった。
だから、フィーネは嫌だと思ったのだ。
お父様を取ってしまう新しいお母様なんて、いらない。
そう思ったから。
扉を開けて入ってきた女性が、どのような人物であるのかを確かめることもなく、叫んでしまったのだ。
「お母様なんていらないんだから!」
その時点で、フィーネは半べそだった。
一方、挨拶する間もなく、フィーネに否定された女性は、パチクリと目を瞬いた。
そして、少しだけ困ったように微笑んだ。
今でも、フィーネがわがままを言うと見せるティアナの表情。
亜麻色の髪、セピアの瞳という柔らかな色彩が似合う、優しい笑み。
その様が想像していた継母とは、あまりに違っていて、その時点でフィーネの戦意はあっけなく喪失したのだった。
そして、その女性の傍らに立つお父様に気が向いて。
怒られる、と身を竦めた。
だが、父が口を開く前に、ティアナが少し屈むようにして、フィーネに身を寄せた。
「……私はフィーネ様のお母様になろうとは思っておりません」
見た目を裏切らない、落ち着いた大人の女性の声だった。
うっかり、素直に頷いてから、言われた意味を考える。
お母様になる気はない。
なら、貴女は私の何になるの?
問いかけできないままに見つめていると、ティアナは笑みをそのままに、お父様に顔を向けた。
「伯爵様の妻になろうとも思っておりません」
つられてお父様を見ると、見たことないような顔をしていて、それが少し怖くて、フィーネの胸が変にドキドキとした。
ティアナはそのお父様の様子にも表情を変えることなく、再び、フィーネに身を寄せ。
「フィーネ様には、伯爵令嬢としての作法や教養を身につける必要があります。私、このように見た目はぱっとしませんが、貴族令嬢としての礼儀作法や教養には定評がありますの」
見た目はパッとしない?
ううん、そんなこと全然ない。
確かに絵本に見るお姫様のようではないけれど。
この人は、とても……なんだろう?
分からないけど、女性自身が言うような事はないと、フィーネは思った。
だが言葉にしては何も言えずにセピアの瞳を見つめるだけ。
ティアナは少し首を傾げて、何かを考える風に。
そして、無事に答えを思いついたようで、笑みが深まる。
「……言ってみれば、家庭教師ですね」
家庭教師なら、一人いる。
とても厳しいお爺さん先生。
読み書きや計算を教えてくれる人。
そして、この方は、礼儀作法とやらを教えてくれる先生なのだ、とフィーネは納得して頷いてみせた。
フィーネの軟化した態度に、ティアナも頷いた。
「それから……伯爵様は、今、とても難しいお仕事をしてらっしゃいます。そのお仕事を進めるためには、私と結婚するのが望ましいのです」
そう続けたのだった。
今になって思えば、十歳の娘に、随分とはっきり言ったものだと思う。
ただ、当時のフィーネはそれにいたく安堵したのだから、ティアナの言動は正しかったのだろう。
しかしながら、その後のフィーネの言動は、今のフィーネにとって許しがたいものだった。
「じゃあ、貴女は私が立派な令嬢になって、お父様のお仕事が終わったら……いなくなるの?」
そんなふうに、不躾に尋ねた。
家人たちの空気が微妙なことに気がついて、慌ててお父様を見ようとするが、その前にティアナが答えをくれてしまった。
「それを決めるのは伯爵様ですが……そうなるでしょう」
あっさりと。
「……ですから、それまで仲良くして下さいませ。ね?」
柔らかな笑みのまま、お願いされて。
フィーネの心は、この優しそうな人がお母様ではなくて、お父様を取らないのなら、仲良くしてもいい、と結論が出た。
「本当に、お母様の代わりではないの?」
本当はお父様と仲良くしない?と聞きたかったのだけれど、それはお父様の前では聞けなかった。
どちらにしたって、ひどい問いには違いないのに、ティアナは微笑んで頷いた。
「はい」
それに、満足してフィーネは答えたのだ。
「いいわ。仲良くしてあげる」
と。
私は子供だった。
それは分かってる。
だけど、思わずにはいられない。
どうして、あんなことを言ってしまったのか。
皆のいる前で。
あれでティアナはこの家において、妻という立場も母という立場も失くしてしまった。
使用人たちだって、ティアナの扱いように戸惑って。
あれから、ティアナは自身の人柄と能力で、この家の使用人たちを従えた。
ティアナは、穏やかで、慈悲深く、凛とした理想の伯爵夫人だ。
フィーネに対する愛情だって疑いようもない。
母を知らないフィーネでさえ、きっと母とはこうなのだろうと確信するほどに。
フィーネは、ティアナが大好きだ。
だけど、あの日、幼きフィーネが放った心ない一言が、何も知らない他人にあんなことを言わせてしまう。
母ではない、妻ではない。
ティアナの存在はそんな括りでは語れないほどなのに。
なのに、そうでないことが、ティアナを糾弾する理由になってしまう。
ティアナが出ていってしまってから、フィーネは部屋に閉じこもりベッドにうつ伏せて泣いている。
ティアナ様がいれば、お行儀が悪いと窘めてくれるのに。
ティアナ様がいないから、起き上がれない。
もし、このまま帰ってこなかったら。
どうしよう。
皇太子様への輿入れなんて、ティアナ様がいてくれるから、胸を張って受け入れられるの。
ティアナ様がいなければ、怖くて足が竦んでしまう。
ティアナ様がいないと、だめなのに。
どれほど泣いていたのか。
扉をノックする音が聞こえて、フィーネは顔を埋めていた枕から顔を上げた。
目元が熱い。
きっと、とても情けない顔をしているのだろう。
返事はしなかったけれど、お父様がお帰りですよと聞こえる。
お父様が帰ってきた。
ティアナ様じゃなくて。
また、ポロリと涙が溢れた。
お父様は、ティアナ様がいないことを、どう思うの?
妻にはならないと言ったティアナ様を、無表情で見つめていたお父様はティアナ様がいなくても平気なの?




