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現伯爵夫人は憤る

 いよいよ、宰相閣下が後妻を娶るらしい。


 まだ、二番目の妻とは、離縁さえ成立していない。

 にも関わらず、昨夜の夜会の一件は、そんな噂話を瞬く間に社交界に蔓延させたようだった。

 

 宰相閣下が前妻に生き写しの娘を伴い、片時も傍らから離さなかった。

 

 その事実が、ただの噂をそれ以上のものにのし上げた。

 イネスにしてみれば不本意のようだが、確かにロゼッタはイネスに似ている。

 ティアナとの政略結婚の意味を知っている者達は、それが意味を失いつつあることに気が付いているはずだ。

 だから、ロゼッタを宰相閣下がエスコートすれば、そんな噂は当然のように立ち上るだろう。

 ティアナにとって、それは想定内であった。

 片時も傍らから離さなかった、というのが真実であれば少々意外ではあったが。

 いや、ティアナが思っているよりずっと、宰相閣下はロゼッタに興味があるのやもしれない。

 いずれにしても、ティアナにとっては大した問題ではない。

 今回のことがなくても、いずれ時は来るのだ。

 それも遠くないうちに。

 そろそろ、侯爵家に行って、今後の話をした方が良いのかもしれない。

 そう思い至り。

 思いがけず、零れ落ちそうになったため息にはっとして息を呑む。

 ため息をつく理由などない。

 これは、最初から決まっていたことだ。

 まもなくフィーネの輿入れが公になる。

 新しい妃の誕生は、そのままティアナがこの家を去ることを意味する。

 その後のことは、宰相閣下次第。

 ティアナの預かり知らぬことだ。

 そう言い聞かせ、目の前に並べられた宝石類に手を伸ばした。


 の、だが。

 集中できない。

 今日は、もうこのくらいにしようか。

 いくつかの装飾品の仕上がりを確認しながらも、思ったよりも進まないことに、今度は素直にため息を一つ零した時だ。

『ティアナ!』

 突然、ティアナの目の前に現れたイネスに眉をひそめるも、その血相に説教は思い留めて宝石を箱に戻す。

「どうしました?」

 敢えて、静かな動作と穏やかな言葉でイネスを促す。

 だが、イネスは落ち着くどころか、なおも焦れたように。

『あの娘が!……ああ、もう早くユージン様の部屋に来て!』

 実体のない娘に急かされて、ティアナは仕方なく足早に部屋を出た。

 仮初の夫である宰相閣下の部屋は遠い。

 だが、その部屋に辿り着く前に、ティアナの前にこの家の者達らしからぬ騒々しさが耳に届く。

「ティアナ様!」

 ほっとしたような様子を見せながら、ティアナの後について、やはり少々急ぎ足でついてくる家人達にまで急かされているように、ティアナは件の部屋に近づく。

 そして、その光景に眉を寄せた。

 屋敷の主の部屋の扉が無遠慮に開け放たれている。

 数人のメイドが戸惑うように中を窺い見ており、何やらガタンガタンと物を移動させるような物音が聞こえてきた。

「何事なの!?」

 ティアナは意図して、凛と声を張った。 

 メイドが揃って振り向き、ティアナを見てほっとしたように強張った表情を幾分解きながらも、慌てて駆け寄ってくる。

 図らずも、家人に取り囲まれる形となったが。

「ティアナ様!」

「あの……あの!」

 よくよく躾られているメイドの戸惑う言葉は、動揺ばかりが滲み出て要領を得ない。

 ティアナは一歩と足を進めた。

 瞬間、差し出すようにティアナの前に主の部屋への道が出来上がる。

「これは……」

 部屋の状況を認めて、ティアナはしばし言葉を失った。

 もともと部屋に置かれていたのであろう調度品が、部屋の隅に寄せられている。

 いつか想像したとおり、壮年期を迎えている宰相閣下には、少しばかり若々しく思えるような。

 だが、それでも宰相閣下が変えることができない部屋の品々。

 それが無遠慮に、部屋の片隅に追いやられている。

 ティアナの中に、抑えきれない感情が湧き上がった。


 あどけない幽霊の娘と、部屋の模様替えができないと目を覆った閣下の姿を思っての。

 これは、怒り。

「あら、ティアナ様、何か?」

 部屋の中央で、勝ち誇った様子でロゼッタが立っている。

 両脇には、ロゼッタが実家から伴った侍女が二人。

 その周りでは、困惑を隠しきれないこの家の男衆がやはり優し気な風情の調度品を持って、立ち竦んでいた。

 それらを視界に納め、最後に扉の脇に執事がいることを確認して、ティアナは一つ息を吸う。

 それを吐いて、落ち着け、と唱える。

 この場に、怒りは不要だ。

 落ち着いて、何が起きているのかを確かめなければ。

「……ロゼッタ様、これは?」

 ティアナは静かに問いかけた。

「お部屋の模様替えを」

「数十分後には新しい調度品が届きますので」

 答えたのはロゼッタではなく、両脇の二人。

 ティアナは頷いた。

 納得した訳ではない、言い分を聴取しただけだ。

「閣下のお許しは?」

 これは、娘にはではなく、傍らの執事に尋ねる。

 主の絶対的な信頼を得ている白髪の執事は、ティアナの問いに、常に見せる落ち着きをいささか失いつつも、なんとか声を荒らげることもなく答えた。

「私は何も伺っておりません」

 ティアナはそれにも一つ頷いて見せた。

「今すぐ、元に戻しなさい」

 これは、この場にいる者全てに。

 ティアナの一声に、あからさまな安堵を浮かべて、立ち尽くしていた男たちが調度品を動かし始めた。

 扉付近に集まっていた者たちまでもが、こぞって部屋の中へと入り、協力してキビキビと動く様に、ロゼッタは感情も露わに叫んだ。

「それを片付けてと言ったでしょう!?」

 家人達はそれに反応しなかった。

 ティアナの言葉が絶対というあからさまな態度に、ロゼッタは完全に頭に血が上ったようだ。

「そんな調度品、いらないわ!」

 ロゼッタの不満げな声を受けて、控えていた侍女が口を開く。

「フォルト家で一流の職人に仕上げさせた調度品を……」

 いつかイネスに言ったことのある淑女の心得を、敢えて犯して言葉を遮る。

 ティアナの中に、抑えても抑えきれない怒りが零れ落ちた結果だ。

「ここは宰相閣下の私室です。閣下のご命令なくして、何事も進める訳には参りません」

 その間も、少しでも手の空いている者達は召集され、速やかに調度品が納められていく。

 どれほどの時間をかけて調度品を移動させたのかは知らないが、あっという間に部屋が元に戻されていく。

「……何よ、何なのよ。皆して、どうしてこの人の言いなりになるの?」

 子供のように、ロゼッタが声を上げて周りを詰った。

 ティアナは、両脇の侍女に視線をやる。

 この幼げな主を止めるのは、あなた方の仕事だと。

 それはティアナの侍女たちに対する譲歩だった。

 しかし、侍女たちは苦々しい表情でティアナを見遣るだけだ。

 ロゼッタは、なおも、この家の家人達を責め続け、やがて叫んだ。

「世間の誰もあなたの事など、ユージン様の妻だと認めてはいないわ!」

 その一言に、屋敷の者達が揃って、時を止めたように固まった。

 ティアナは、その中にあって一人だけ冷静であるかのように、小さなため息を一つ零した。

 それに正気づいた執事が、二人の間に割って入る。

「……ロゼッタ様、お言葉が過ぎましょう」

 ロゼッタは少しばかり涙目できっと執事を睨みつけた。

「間違ってないでしょう!?」

 執事はそれには答えない。

 苛立ったように、ロゼッタの手が上がり、執事の頬を叩いた。

「やめて!」

 いつの間に、この部屋に来ていたのか。

 扉に隠れるようにしてフィーネが立っていた。

「なによ、貴女だって、この女が母だとは認めていないでしょう!」

 矛先がフィーネに向かう。

 ティアナは、手を一つ叩く。

 パン!と小気味良い音が部屋に響き渡り、家人達ははっとして再び動き始めた。

 ロゼッタは口を閉ざし、それでもティアナを睨みつけた。

 それを悠然と見返して、ティアナはどうすべきかと考える。

 ロゼッタの狼藉への腹立たしさに、つい追い詰める真似をしてしまったことに僅かな自己嫌悪を抱えながら、それを追い出すように。

 静かな息をつく。

 宰相閣下の本意が知れぬ今、とにかく穏便に事を納めなければ。

 今回のことはロゼッタが先走ったとはいえ、この先、この娘が万が一にもこの家に嫁ぐことになるのならば、あまりに家人達に悪印象を与えるのもいかがなものか。

 ティアナの答えは、決まった。

「大変不快です。お暇させていただきますわ」

 そこはかとない本音を巧みに隠すように醸しながら、敢えて、剣呑な言葉を選ぶ。

 ティアナの言葉は、再び動いていたはずの家人達を一瞬にして硬直させた。

 その場にいる者達全てに視線を巡らせ、ティアナは傍らに立つ執事に目を留めた。

「馬車の用意をお願いします。しばらく実家に帰りますので、そのように宰相閣下にはお伝えくださいませ」

 他の者同様に動きを止めていた執事は、ぎこちなく礼をして、部屋を出た。

 次にロゼッタに目を合わせる。

「この度の私への無礼」

 ビクリ、とロゼッタの肩が揺れる。

 二人の侍女が、不審げな顔で、なおもティアナを睨みつけた。

「本来であれば然るべき措置を求めるべきでしょう」

 それに、はっとしたように侍女が顔を見合わせた。

 名目上であろうと、仮初であろうと、今のユージンの妻はティアナである。

 いやそれよりも。

 ティアナは子爵家のロゼッタとは格が違う侯爵家の娘だ。

 ティアナがその気になれば、ロゼッタを罰することなどたやすい。

 昨夜の夜会の熱にあてられたか、周りの者に唆されたか。

 いずれにしろ、己のしでかしたことを思い知らせるように。

 二度とこのような無体をしでかさぬように。

 同時に、ティアナ自身の行為を、主のためというよりも、そのプライド故であったと家人に知らしめるように。

 高慢にさえ見えるようにと、ティアナはもう一度ロゼッタを見据えた。

「ご判断は閣下に」

 それに御意、と頭を下げたのは、戻ってきていた執事だ。

 ロゼッタの興奮に色づいていた面が、見る見る間に青ざめていく。

 その様子に、思ったほど馬鹿な娘ではないかもしれないと思いながら、背を向けた。

「ティアナ様!」

 扉に塞がるように、フィーネがいる。

 その背後には、イネスが浮いている。

「……そんな不安な顔をしてはいけません、私がいない間は、貴女がこの家の女主おんなあるじなのですから」

 フィーネはフルフルと首を振る。

 素気無くするには、少女からティアナへの信頼は確固過ぎた。

 ティアナは、さほど背の変わらない少女を、そっと抱きしめる。

「これが一生のお別れでもないのだから……少しだけ、時間をくださいな」

 何の時間なのか。

 疑問を抱いたのは、言っているティアナか、言われたフィーネか。

 それとも。

 最後にティアナは、ひっそりとイネスに目を向ける。

 フィーネ以上に不安げなイネス。

 大丈夫、と笑みを唇に乗せた。

「ティアナ様……馬車のご用意ができました」

 メイドの声に頷き、歩き出せば、半歩後を執事が付いてきて、重々しい玄関の扉を開けてくれた。

 馬車に近づきつつ。

「フィーネ様のお輿入れの準備はほとんど終わっていますから問題ないと思います。細かな事は侍女頭に説明してありますから、閣下に最終確認をして頂いて下さい」

 少しだけ、とフィーネには言ったものの、ティアナにとってここに戻ってくるかは未知だった。

 これを機に侯爵家から戻るように言われるやもしれない。

 むしろ、いい機会だと宰相閣下から、離縁の話が出る可能性もあるだろう。 

 ティアナの考えを悟ったかのように、執事が息を呑む。

「ティアナ様。申し訳ございません」

 馬車に乗る寸前、執事が頭を下げる。

「……何を謝っているのか、分からないわ……それよりも、戻って頬を冷やした方が良いわ」

 ティアナは微笑む。

 それしか、今はできなかった。

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