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現伯爵夫人は認めている

 この方にとって、一度目の結婚も二度目の結婚も、政略結婚だった。

「ただいま」

 家の者がそろって出迎える中、穏やかな笑みを浮かべる宰相閣下は、まずは一度目の結婚で得た愛娘に近づき、均整の取れた長身をかがめて白い額に唇を落とした。

「おかえりなさいませ、お父様」

 フィーネは、それを嬉しそうに受け入れて、そしてお返しのキスを高い位置にある頬に背伸びして贈る。

 主が帰還すれば、間違いなく繰り返されるほほえましい光景だ。

 これを見れば、宰相閣下にとって一度目の結婚が不幸ではなかったことは明らかだった。

「おかえりなさいませ、ユージン様」

 続いて、フィーネの横に立つ娘が言葉をかけた。

 数日前から、預かっているロゼッタという娘は、今年16歳になる。

 宰相閣下はそれに頷きで応え、そして、視線がティアナへと移ってくる。

 ティアナは言葉なく、一礼をもって彼の帰還を出迎えた。

 

 ティアナは名目上の妻だ。

 そして、誰もが名目上の妻であると知っている。

 だから、取り繕う必要はない。

 夫婦としての抱擁もキスもない出迎えは、ティアナが嫁いでから崩されることなく繰り返されているものだ。


 娘を伴い宰相閣下が歩き出し、そのすぐ後ろを当然のようにロゼッタが付いて歩く。

 ティアナは、そこから数歩遅れて後に続いた。

 よくできた使用人達は、表情に僅かにも浮かべることはなかったが、この位置関係に不安を覚えていることは、ティアナは重々承知している。

 だが、宰相閣下がそれを許しているのだから、ティアナに異論はない。

 ロゼッタは、初日こそティアナの立場に戸惑っていたようだが、すぐに察したようだった。

 むしろ、実家で何かを聞いていて、それを確信したのかもしれない。

 使用人たちの不安を感じ取っているように、ティアナはこれもまた気が付いていた。

 ロゼッタのチラリとティアナを見やるその視線に、蔑みと、どこか勝ち誇ったような色があることを。

 それでも、ティアナは何も言う気はない。

 宰相閣下が許しているならば、それがすべてだ。


『私、あの娘、嫌い』

 ここ数日、目に見えて機嫌の悪いイネスに、ティアナは苦笑いを零す。

 この幽霊も、随分と感情豊かになったものだ、と思いながら。

「……あと数日のことですから、我慢してください」

 言いながら、今日届いたばかりのネックレスを確認する。

 フィーネの鮮やかなエメラルドの瞳に合わせた石をあしらった繊細なつくりに満足しながら、箱に戻して蓋をする。

「くれぐれも、高ぶって窓を割ったりはなさらぬように」

『……今度、誰かが私に似てるって言ったら、家中の窓を割ってやるんだから』

 激しい言葉にティアナは再び苦笑いを一つ。

 そして、やわらかな口調で語りかける。

「イネス様の従妹に当たるかたですもの……目鼻立ちはとても似てらっしゃいます。だから、フィーネ様と並ぶと姉妹のようですね」

『ティアナ!』

 イネスの感情で、窓際のカーテンが舞い上がる。

 しかし、窓ガラスは割れなかった。

「割れませんでしたね」

 僅かに悪戯めいた色を声に乗せれば、イネスはプッと頬を膨らます。

 少女のような幽霊にティアナがもう一つ宥めの言葉を口にしようとしたとき、扉がノックされた。

「はい」

 家人の誰かであろうと、扉を開ければ、そこに立っていたのは意外にも宰相閣下だった。

「少し、いいか」

 尋ねられて、ティアナは「はい」と答えて男を招き入れた。

 部屋に入ってきた宰相閣下はティアナのいで立ちを見て、少し戸惑ったようだった。

「このような姿で申し訳ありません」

 まだ、夜更けというほどの時刻ではないが、眠りについても不思議ではない時間だ。

 この後は、納められたフィーネの輿入れ道具を確認するだけの予定だったティアナは、既に寝着を身につけ、その上にガウンを羽織っただけの姿だった。

 いつも結っている髪も下ろして、緩やかにまとめているという無防備ないでたちを詫びる。

「……いや、こちらこそ急にすまない」

 夫婦ではあり得るはずもないやり取りを交わして、宰相閣下はソファに腰を下ろした。

 ティアナは、少し間を空けて脇に立つ。

 まるで主従。

 だが、これが二人の定位置だった。

「一週間後に侯爵家の夜会があっただろう。あれにロゼッタを伴うつもりだ」

 カタン、と音がした。

 ロゼッタの名前に反応したイネスが調度品を僅かに動かしたのだろう。

 宰相閣下も物音には気が付いたようだが

「はい」

 何事もなく応えを返したティアナに、すぐに意識は逸れた。

「フィーネのエスコートはアレックスに頼めるだろうか」

 ティアナの従弟にエスコートを頼むということは、ロゼッタのエスコートは宰相閣下が務めるということ。

 またも、異変を起こしそうなイネスを、ティアナは視線で制した。

 そして、穏やかに宰相閣下に返す。

「はい。私からもお願いの手紙を」

 あの優秀な従兄殿ならば、特に問題なくフィーネの立場も宰相閣下の思惑も汲んでくれるはずだ。

 明日にでも筆を取ろうと決める。

「そうだな……それから、ロゼッタの準備も頼む。大方のものは実家で準備しているようだが、見てやってくれ」

 風もないのにふわりとカーテンが揺れる。

 しかし、背後で音もなく発せられた抗議は宰相閣下に届かなかった。

 ティアナだけが心でため息を一つつく。

 しかし。

「承知いたしました」

 声音には何一つ含むことなく答えた。

 宰相閣下は満足げに一つ頷き。

「それからフィーネの準備だが」

 さらに続けた。

「ドレスの件は承知した。なんなら、もう少し増やしても構わない」

 分かっていた答えであるが、希望がとおりほっとする。

 手紙、そして、ドレス工房に伝達を。

 明日の準備が作られていく。

「はい。ありがとうございます」

 礼を口にすると、宰相閣下は苦笑いを零しながら首を振った。

 礼を言うことではない、というのだろう。

「礼を言うのはこちらだろう。何もかも任せきりで、すまないと思っている」

 ティアナが思ったとおりのことを言葉で返されて、ティアナも小さく首を振ってその労いに答えた。

 さあ、これで、話は終わりかと閣下を送り出すつもりのティアナに反し、閣下は背もたれに体を預け大きく息をついた。

「……この部屋は落ち着くな」

 幾分、疲労感の見える瞼を閉じて呟かれる言葉は、本音のようだ。

 この部屋はティアナが嫁いで与えられた部屋だった。

 宰相閣下の寝室とは程遠い、貴賓室の一つ。

 ただ、元の調度品はあまりに華美で落ち着かなかったため、許される範囲でティアナはそれらを排除して、質素なものに切り替えてもらった。

 長居するつもりはなかった部屋だが、過ごしやすいにこしたことはないと多少わがままを言ったが、結果としては5年の歳月を過ごすこととなったのだから許されるだろう。

「ありがとうございます」

 ティアナは素直に礼を言う。

 宰相閣下は、ゆっくりと目を開いた。

 落ち着いた濃いブラウンの瞳がじっとティアナを見つめる。

「俺の部屋もそろそろ模様替えをすべきなのだろうが……」

 再び、瞳は閉ざされた。

 夫婦の私室は、ティアナの知らぬ場所だ。

 だが、この愛らしい若い妻と過ごすべき場所だったのであれば、それは優しい彩りに染められているのだろうとティアナは想像する。

「閣下」

 俯き、大きな右手で額から目元を覆う姿に、一瞬手を伸ばしかけ。

 それは己に許された行為ではないと押しとどめる。

 そして。

「無理をなさることはないでしょう」

 そうとだけ、言葉をかけた。

「だが、もう十五年だ。俺がこんなではイネスは……」

 そのまま沈黙した宰相閣下に、ティアナはそっとその背後を見やる。

 心配げに見つめるイネスは何か言いたげだ。

 何か言いたいことがあるなら、伝えることがティアナにはできる。

 だが、イネスは何も言わずに、視線をティアナに向けただけだった。

「閣下」

 ティアナの呼びかけに、宰相閣下は顔を上げた。

「時が解決するならば、誰も苦しみません」

 長い月日は間違いなく、傷を癒してくれるだろう。

 でも、それだけではどうしようもないことだってあるはずだ。

「ですが、いずれは」

 癒され、一歩と進める日が来るだろう。

 この方も。

 イネスも。

「いずれは、か」

 宰相閣下は少しだけ自嘲気味に笑みを浮かべた。

 ティアナは、それを受け入れた。

「はい、いずれ……それで良いではありませんか」

 そして、たぶん、それは遠くない。

 動き始めているのだ。


 ティアナは、ただ、それを受け入れるのみ。

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