元伯爵令嬢は怒っている
その信頼はあれから一度だって薄らいだことはない。
ティアナというこの女性を得たことにより、一時は浮遊するだけしかなく、記憶も自我も感情も失いかけていたイネスはそれらを取り戻した。
そして、今、イネスは腹を立てていた。
感情を高ぶらせてはいけません、とティアナは言うけれど、この状況に腹を立てずにいられる筈がないのだから仕方がない。
「この二つのドレス、どちらが良いと思われますか?」
イネスが怒っていることを十分に承知している筈なのに、いつもの穏やかな様子を僅かにも崩すことなくティアナは尋ねてくる。
左右のそれぞれの手にはドレスのデザイン画が掲げられていた。
それをちらりと見て、イネスはムスッとしながら。
『どちらでも良いです!』
荒々しく答えれば、どこからともなく突風が吹き、ティアナの持つ紙をバタバタと騒がせた。
ティアナはそれをものともしない。
「どちらもフィーネ様にお似合いなのは分かってます……2着とも準備してしまって良いかしら。後で閣下にお尋ねしましょう」
そんな風に言いながら、デザイン画を大事そうに厚紙でできたファイルへと挟み込む。
そんな些細な動作でさえが、落ち着きと優雅さに縁どられており、このティアナという女性の人となりが窺える。
だが、今はそれこそが腹立たしい。
この状況でさえ、一糸乱れぬその様が、イネスを苛立たせる。
『良いの?』
感情そのものを表現する尖った声の問いかけ。
ティアナは首を傾げた。
そして、ああ、と何かに気が付いたように頷くと。
「無駄な浪費は心が痛みますけど、フィーネ様のドレスですから閣下も……」
見当違いな答えが返る。
『違うわ!』
ブワリ、と窓際のカーテンが膨れ上がる。
ティアナがフィーネに「人の発言を遮ってはいけません。それがどんなに理不尽なことであっても最後まで聞き届け、その上で冷静な返事を返さなくては」と言っていたのを瞬間的に思い出すが、そんな淑女の心得は今の自分には関係ないと自らを奮い立たせる。
『こんな状況、どうして許せるの!?』
ティアナはイネスの無作法には、何も言わない。
むしろ、受け入れるように柔らかく微笑む。
「イネス様、私はすべてを承知してここにいるのです」
そんなこと。
『分かってる』
だけど。
「大丈夫です」
大丈夫じゃない。
誰もかれも、今の状況が大丈夫ではないと知っているのに。
どうして、この女性だけがそれに気が付かないで「大丈夫」と言うのか。
いつもは驚くほど全てに聡いこの女性が、なぜ。
「空の光は近づいてきているのでしょう?」
ティアナの言う大丈夫が、それを指しているならば確かに。
『ええ……でも』
イネスは頷きながら、続きを口にしようとして。
でも、何を言って良いのか分からずに口を閉ざす。
「イネス様が天に召される日は近いでしょう」
イネスには見え始めた光。
ティアナはそれが見えていないと言いながらも、寸分の狂いなくそちらの方向に視線を向ける。
「それを見届けることができるまで、ここにいられたら良いのですが」
呟かれたそれに、イネスは唇を噛みしめた。
だめだ。
こんな思いを抱えたままでは、あの光になんて救われる筈がない。
気が付いて、ティアナ。
私のたくさんあった心残り。
ティアナに出会った頃、それらは、イネスの中で朧気であった。
だが、ティアナを得て、イネスは何が自分をここに留めているのかを思い出し始めた。
今や、それは確固としてイネスの中にある。
それを消すためにティアナは現れたのでないと分かっている。
それでも、貴女は旦那様に寄り添い、娘を導き、私の心残りは少しずつ消えていきつつあったはずなのに。
どうして。
今、私が一番心配しているのは。
今、私が何より願っているのは。
気が付いて、ティアナ。
私の心残りが、また、一つ増えていることに。




