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2/12

元伯爵令嬢は信頼している

 その人は、イネスに向かってにこりと微笑みながら語りかけてきた。

 特別に美しい容姿の女性ではない。

 しかしながら、久方ぶりに自分自身に向けられた笑みは優しさに満ち満ちていて、事の異常さに気が付きもせずに、その人に見入った。

「心残りはなんなのですか?」

 イネスに向けられたらしい言葉。

 何もかも包み込むような、全てを受け止めるような穏やかさ。

 耳に心地よいそれが自分に向けられているらしいとは気が付きながら、やはり、それがどれ程の奇跡であるのかを忘れて、もっとと乞うように女性を見つめ続ける。

「イネス様」

 名を呼ばれて。

 少しの間を置いて、はっとする。

 今、この女性は私の名を呼んだ?

 いったい、どれくらいぶりだろうか。視線を交わしながら、名を呼ばれるなんて。

 イネス、という名を耳にすることはあっても、それはいつだって誰かが語る単語の一つに過ぎなかった。

 イネスの存在を知り、イネスを呼ぶためにそれを声にする者なんて、もういないと思っていた。

「イネス様」

 もう一度、その女性が名を呼ぶ。

 穏やかさと優しさはそのままに。

 でも、少しだけ困ったように眉を寄せて。

「触れることはできないのです。どうか、泣き止んでください」

 言われて、イネスは自分の頬に触れた。

 そして、女性の言葉通り、泣いていることを知る。

『止まらないわ』

 泣いたことにも気が付けないのに、止める術など知り得ない。

 女性は頷いた。

 自分の唇が言葉を紡いだのもどれほど振りか。

 しかもそれが彼女に届いた事に驚き、なおも目頭が熱くなる。

「イネス様、ここは本来貴女様がいらっしゃる場所ではありません。貴女様の心残りが、貴女様をここに留めているのです」

 言われた意味は分かるから。

 でも、のどが引き攣って声が出ないから、コクコクと必死に頷いた。

「心残りは何なのでしょう?」

 そして、最初に掛けられたものと同じ言葉。

 イネスはこの時初めて知った。

 心残りがあるが故に、私はこうしてここに留まっているの?

 行先も分からないまま。

 ただ、佇んで。

 イネスは、歪む視界の中の女性を見つめる。

 急かす風もなく、微笑み続ける女性に導かれて、素直に答えた。

『分からないわ』

 それは正直な言葉だった。

 きっと、彼女の言う通り、自分には心残りがあったのだろう。

 でも、誰にも気が付かれず、ふわふわと漂っている間に、何もかもがおぼろげになってしまったように。

 私は誰?

 ここはどこ?

 どうしてここにいるの?

 今、自らに問いかけてみる。

 きっと、心残りだらけだっただろうに。

 なのに、分からない。

 なおも、涙がぽろぽろと溢れるだけだ。

「申し訳ありません」

 突如、女性が詫びるから、イネスは驚いた。

「……心残りがない訳がありませんね」

 まるでイネスの心を読むように。

「ですが、貴女様がここに留まる事は良い事ではありません。貴女様のためにも、ここに暮らす方々のためにも」

 イネスはそれにもコクリと頷く。

 小さな子供や、気配に敏い者がこの屋敷に長く留まる事を厭う。

 動物が、イネスの気配を感じ取って、吠えたり怯えたり。

 そんな事が繰り返されるから、イネス自身も己の存在が本来ここに在るべきでないこと。歪んだものであることは分かっているのだ。

 だが、どうしようもなかった。

 誰も……夫も娘も、イネスに気がついてはくれない。

 人は亡くなると、天に召されると聞いていたのに、イネスが天へと昇る気配はなく、かと言って、イネスのような魂のみの存在がそこらに溢れているのかといえば、そうでもない。

 イネスは途方に暮れるしかなかった。

 どうして良いのか、分からないまま。

 何年もここに留まって。

 そう、多分、最初の何年かは、イネスから働きかけてみたりしたのだ。

 でも、何もできなかった。

 夫や娘が嘆いているのを、慰める術もなく。

 やがて、落ち着いて日常を取り戻していくのを、少しばかり寂しい気持ちで。

 ただ、見ていた。 

 それしか、できなかった。

「イネス様」

 女性は、まっすぐにイネスを見つめた。

 そこから笑みは消えていた。

「私がここに参りましたのは、貴女の心残りを消し去るためではありません」

 僅かな逡巡もなく、凛とした瞳にイネスは映らないけれど、確かに彼女はイネスを見つめている。

 イネスはいつの間にか涙の止まった瞳で同じように彼女を見つめた。

「ですが、私がここでなすべきことは、きっと貴女様の望みとかけ離れてはいないでしょう」

 再び、微笑む。

 誰だか知らない。

 でも、その微笑みと、言葉と、それを紡ぐ声。

 それら全てが、この女性を信用してしまって良いのだとイネスの心が認めていた。

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