現伯爵夫人は幸を知る
ティアナが帰ってから、フィーネが輿入れする間にあったまったり~な日常
嫁いで早幾年、ティアナは、日がな一日を屋敷でのんびり過ごす宰相閣下、というものを見たことがない。
国の宰相として宮廷に出仕するのは当然のことながら、休みと称して屋敷にいるときも、伯爵領の管理など様々な執務が待っているらしく、部下と部屋に籠ってしまうことも珍しくはない。
さらに言うなら、本来であれば伯爵夫人という立場であるティアナが担うべき様々な雑務ですらも、閣下が仕切っているのが現実だ。
これは、そもそもが期限付きの婚姻であったが故に、余計な痕跡を伯爵家に残したくはないという、ティアナの思いを閣下が汲んだ結果だ。
加えて、もともとティアナが社交の場が極めて苦手だと祖父から聞かされていたらしい閣下は、夫婦として招待された最初の夜会の折にティアナの意向を確認し、ティアナが辞意を示せば、あっさりとそれを了承した。
宰相閣下自身もそういった場が苦手のようだと後にティアナは気がついたが、以来、閣下はティアナにそれを問うことさえなく、どうしても断れない場合には一人で出かけるのが常であった。
こうして、改めて思い返してみて、ティアナは侯爵将軍の孫であり、フィーネの母替わりではあったものの、決して伯爵家の女主でなく、ユージンという男の妻でもなかったのだと気が付かされた。
しかし、これからを共に在ろうと決めた今、閣下が許すままに見ないでいた様々なことに向き合わなくてはと思いつつ、慌ただしいばかりの日々は過ぎて、未だ何も変わらないままにティアナは毎日を過ごしている。
その日、宰相閣下が屋敷で時間を持て余すことになったのは、度重なる偶然の結果であった。
まず、その日は名目上の閣下の休日であり、宮廷への出仕はなかった。
そんな日の閣下の過ごし方は。
何はさておき、日頃はなかなかじっくりと語り合うことのできない父娘の時間から始まる。
朝食を一緒に摂りながら、様々なことについて語り合う親子の会話には、嫁いだ当初から、ティアナも傍らにと望まれていた。
フィーネが話すことに穏やかに答える宰相閣下の邪魔にならないように、それでも求められればそれに加わるのが、決まり事ではない自然な姿だ。
何かに妨げられることがなければ、それはお茶を飲みつつお昼頃まで続けられる。
だが、残念ながらそれは滅多にないことで、大抵は何らかの所用で閣下が呼び出されることで終わるのだが、どういう訳か、この日は皇太子が直々にフィーネを訪ねてきた。
「君が行きたいと言っていた観劇のチケットが偶然手に入ってね」
などと笑顔で言う皇太子に、少しばかり気遣う様子を見せるフィーネを、宰相閣下は楽しんでおいでと送り出した。
「こちらも午後からは予定があるからな」
寂しくないと言えば嘘になるが……と、続けられるのは閣下の本音だろうが、その声は穏やかだった。
「ティアナと二人での食事は初めてだな」
という言葉で始まった昼食を摂っている最中に、慌ただしく伝令が現れた。
本日、閣下が面談を予定していた役人が、揃いも揃って体調を崩しているという連絡に、何か悪いものでも食べたのかと眉間に皺を刻みつつ、大事にするようにとの伝言と共に、伝令を帰したのがほんの数分前のことである。
「……なんなんだ、今日は……」
途方に暮れたように、ソファに座り込んだ宰相閣下にお茶を淹れるべく、ティアナはそっと部屋を抜けた。
忙しい方が、急に時間が空けば持て余すのはもっともだ。
この後は、どうお過ごしになっていただくのが良いかしら。
思案しながら、お茶の用意を手に部屋に戻ったティアナを待っていたのは、深くソファに腰掛け、目を伏せている閣下だった。
寝ていらっしゃる?
日頃の多忙さを思えば、それも納得。
このままにしておこうと離れかけたティアナを低い声が「ティアナ」と呼び止める。
「起こしてしまいましたか?」
足を止め、茶器をテーブルに置きながら尋ねれば、苦笑いを零しながら閣下は身を正した。
「いや、寝てはいなかった……ティアナはこの後の予定はあるのか?」
ティアナは首を振る。
「今日の午後はフィーネと過ごそうと思っておりましたので」
そう、ティアナも少々時間を持て余し気味。
宰相閣下はふむ、と頷いた。
「ならば、少し俺の相手をしてもらえるか?」
もちろん。
頷きながら、そんなことを考えることもなかったティアナは、やはり、まだ閣下の妻という立場に慣れてはいないのだと少し戸惑う。
一方、閣下もほっとしたように微笑むから。
きっと、閣下もまだ戸惑うところがあるのだろう。
「ティアナ」
柔らかな声に呼ばれ、笑みを深めた閣下の手が差し伸べられる。
トクンと鼓動が跳ねる。
最近の宰相閣下は心臓に悪いと思う。
以前から、多忙を極める中であってもフィーネとの時間をなんとか捻出していた閣下は、今は、ティアナと過ごすためにも時間を作ろうとしているのが伝わる。
そして、そんな時間を過ごすたびに、ティアナは5年の歳月の間、目を逸らし続けていた、宰相閣下が己にとっては好ましく想う男性である、という事実を思い知るのだ。
ティアナは年若い娘のような反応を閣下に知られたくなくて、ほんの少しの距離を置いて傍らに腰を下ろしかけるのに
「こちらへ」
と、手を引かれて、座ったのは……宰相閣下の脚の上だった。
本当に、最近の宰相閣下は心臓に悪い。
頭を肩に、左身をたくましい胸に預けつつ、背中から腰を抱く腕の安定感。
揺るぎないものに囲まれながら、ティアナはふわふわとした覚束ないような意識を持て余す。
「嫌か?」
ティアナの身の強張りと、意識の戸惑いに気が付かない筈がない閣下が尋ねる。
「嫌ならばそう言ってくれ」
ティアナは僅かに身を起こして、宰相閣下の顔を窺う。
一見するとどっしりと構えているようにも見えるが、回答を待つ瞳には少なからず不安が見え隠れする。
こんな表情を初めて見たときの戸惑いは、今この時も変わらずティアナにあるが、それでも表情を払拭する術はもう分かっているから。
そして、日常の会話と共に繰り返されるキスや、柔らかな抱擁に慣れつつあるティアナは、この距離に、まだ羞恥は少し残るけれど、恐怖や嫌悪はほんの僅かもないから。
だから、小さく首を振って自ら閣下に身を寄せた。
「俺は仕事バカの朴念仁だそうだから」
ほっとしたように囁かれるそれは
「以前にもおっしゃってましたね。一体どなたがそのようなことを?」
この宰相閣下に言えるのだろう。
純粋な疑問には
「陛下だ」
との答え。
過去に幾度と顔を合わせたことはある案外気さくな皇帝陛下であれば、なるほど、仕事に関しては完全無欠と名高い宰相閣下をそう称すかもしれない。
納得と共に、この方と陛下の信頼関係が見えて、クスリと笑いが零れた。
「……俺は、今でこそ伯爵だの宰相だのと身分を得ているが、所詮、国境守の男爵家の五男だ。本来なら、お前のような女性を娶れる男ではない。お前は俺にとっては、陛下や侯爵将軍からの大事な預かりものだった」
だった、と過去形で語られるそれ。
今は、預かりものではないと。
それがティアナの胸を、恋を知った少女のように高鳴らせ締め付ける。
「だからこそ……お前を貰い受けて3年が経った頃、陛下に離縁を願い出たんだが」
それは、ティアナも同じように思っていたし、ティアナも宰相閣下に離縁を申し出た。
あの時は、それが当たり前だと考えていた。
「だが、陛下に……フィーネの輿入れまではと言われて……」
宰相閣下が、ティアナを引き留めた理由は、フィーネだった。
それを己も受け入れた。
でも。
ティアナの指が無意識にも、閣下の衣をきゅっと握った。
そのティアナの小さな拳を、閣下の大きな掌が包み込む。
「……ほっとしたのだ……お前をこの屋敷に留めておく理由ができたことに」
そっと秘密を打ち明けるような。
ティアナのときめく胸は、明らかな痛みを覚えて。
「……ユージン様」
まだ、自ら夫である男性を抱きしめる勇気は、ティアナにはない。
だが、それでも、寄せ合っていた身を、わずかにも身じろがせてその胸元に顔を埋めた。
あの頃、ティアナにとって、この方との距離を縮めることは自らに課した禁忌であったと思う。
フィーネを立派な淑女に。
イネスを天へと導くこと。
それが命題であり、そのために、この方から距離を置くことに頑なだった。
でも、いつだって。
「お前を幸せにするためにはどうすればいいだろうか?」
宰相閣下を幸せにするにはどうすればよいだろうか。
ティアナだって、そう願っていたのだ。
いずれ、この方の傍らに、人生を共に歩めるどなたかが在れば良いと。
ただ、それはティアナではないと。
そう、言い聞かせてきた。
言い聞かせていたのだ。
自らの想いを封じ込めて。
だから。
「……今、とても幸せです」
それは、とても正直な心の吐露だった。
宰相閣下は、ぱちくりと目を瞬かせてしばし、ぎゅっと眉間に皺が寄った
「ティアナ……俺を甘やかすな」
小難しい顔をしながらも、わずか目元が赤いことに、こんなに近くにいて気が付かないはずもない。
「私、ユージン様を甘やかせていますか?」
少し早い鼓動、辛苦ではない痛み。
そこに、温かな温もりが加わって。
「だったら、とても幸せです」
ユージンは少しの間固まり、やがて
「そうか……」
呟いて、そっと触れるだけの口づけを落とした。
イネスは、気を利かしてどこかを浮遊中




