それぞれはそれぞれとして
暖かな日差しが、全てをキラキラと輝かせる春の日。
ティアナはフィーネの髪を結い上げていた。
いつもならば、侍女の仕事であるが、今日はお互いにそれが当たり前であるように、フィーネはティアナに背を向けて座っている。
その傍ら、イネスは神妙な面持ちでユルリと浮いている。
緩やかに波打つイネスの金髪。
それもまた、持ち主の動きに合わせるようにフワフワと揺れて。
その美しさについ笑みを誘われながら、明らかに受け継いだと分かる同じ色どりを、ティアナは、ほつれ毛の一つもないようにと、丁寧に丁寧に編み込み、そして、まとめ上げていく。
やがて、いつにないおとなびた髪型が出来上がった。
それでも、これが今のフィーネにはふさわしく、そして、どれほど控えめにしたところで、放たれる光の華やかさは隠しおおせるものではない。
満足いく出来栄えに、ティアナはほっと息をついた。
何も言葉はないが、完成を気配で察したのか、フィーネが立ち上がり、ティアナが育て上げた優雅さで振り返る。
純白の花嫁姿。
フィーネの美しさは、言葉に尽くしがたく。
しっとりとしたたたずまいは、彼女が大人の女性であることを何よりも雄弁に語っていた。
傍らに浮遊する母親が幼子のように髪を下ろしているせいもあろうが、ともすれば、イネスの方がこの女性の娘であるかのような錯覚を抱かせる。
だが、そんなまやかしも一瞬だ。
フィーネの姿を見守るイネスの瞳は母以外のものであるはずもなく。
ティアナは、イネスを思い、しばし時を待った。
思えば、この日のためにティアナはここに嫁いだのだ。
だが、嫁いだあの時は、こんな風にフィーネを送り出すことができるなどとは、僅かにも考えていなかった。
この娘を妃にふさわしい女性へと育てることはティアナの役目であったけれど、こうして送り出すのは己ではないと思っていた。
だからこそ、なおさらに感慨深く。
そして、実の母でありながら、その役目をティアナに譲らざるを得ないイネスには、許される限りの時を与えたかった。
だが、無情にも時は過ぎる。
脇に控えていた侍女頭が純白の紗をティアナに差し出した。
それを受け取り、絶妙なタイミングで身を屈めるフィーネの頭から背を覆うようにヒラリと舞わせた。
母として。
娘に。
許された行為を成し遂げて、目の前の花嫁を見つめる。
そっと見やったイネスは、ティアナの視線に気が付いて満足げに微笑むから。
ティアナもわずかに微笑んだ。
やはり言葉は、一つとしてなかった。
やがて、扉をたたく音が部屋に響いた。
開かれたそこに立つのは、花嫁の父だ。
礼装に身を包んだ宰相閣下は、フィーネを感慨深げに眺める。
フィーネの姿はすでに、純白に埋め尽くされており、父であろうとも男性にその面を見せることはできない。
娘としての最後の面を見ることができるのは母の特権であり、妻となった娘の最初の面を見つめることができるのは夫の権利だ。
閣下も何も言わない。
フィーネに向かって手を差し伸べ、白い手袋に包まれた手のひらが差し出されると、それを導いて自身の肘へと誘った。
そして、見事な花嫁へと変貌させたティアナを労うように、視線を向けて一つ頷く。
穏やかな笑みが添えられているそれに、ティアナも微笑みと頷きで返し、歩き出す父娘の一歩後ろについた。
イネスの姿は、どうしてか消えていた。
宰相閣下はゆっくりとした足取りで部屋を出て、廊下、階段と進む。
フィーネの育ったこの場所一つ一つを辿るように。
何かを見つけたようにフィーネの歩みがゆっくりになれば、閣下も同じように歩を緩めて。
閣下がもの言いたげに足を止めれば、フィーネが分かっているというように少し頷く。
禁じられている訳ではないのに、交わされない言葉はティアナにも届いていて。
時折、二人そろって背後を伺うから、やはりティアナも声なく応えを返した。
どれほどにゆったりと進んだところで、いずれは屋敷を出る扉にたどり着く。
執事が深々と頭を下げてから、軋むことないそれを開け放てば、すでに王家の紋章が描かれた馬車が控えていた。
これに乗り込んだ瞬間から、フィーネは王家に連なる者としての一歩を踏み出す。
王家の使者が馬車の扉を開き、ユージンが手を貸してフィーネを促す。
乗り込むその間際、娘はティアナを振り返った。
「お母様」
侯爵家から帰ったあの日。
泣きながら初対面でのやりとりを謝り、母と呼びたいと請うた娘。
呼び方など、こだわりはなかった。
フィーネへの愛情は、そんな言葉一つで変わるものではないから。
「私、お母様の娘として恥ずかしくはない?」
そんな風に聞いてくる娘に、ティアナは微笑んで。
「もちろん。貴女はどこに出しても恥ずかしくない最高の娘……私の宝物だわ」
ティアナの持てる全てを。
イネスからは愛らしさと美しさを。
そして、父からは強さを。
与えられたものに慢心するでなく、自ら咲き誇ってみせたのはフィーネの努力あってこそだ。
だから、胸を張りなさい、と。
分かっているだろうから、ティアナはそれを口にしなかった。
ベールに隠された面は、きっと微笑んでいるだろう。
フィーネが馬車の中に姿を消す。
「いってらっしゃいませ」
「ああ、行ってくる」
ユージンはティアナの頬に軽く口づけを落として馬車に乗り込んだ。
フィーネにお母様と呼ばれることには、もはや違和感を覚えないほどに時は経っているのに。
未だ、少し慣れない出立の挨拶を、周りの者達が優しく見守るから、ティアナは困ったように微笑むことしかできない。
馬車を見送り、ティアナは屋敷へと戻る。
部屋に戻ると、イネスは床に足をついて立ち、窓から外を見つめていた。
浮いていないイネスを見るのは初めてだ、と思いながらティアナはその傍らに立つ。
ティアナよりも低い、そしてフィーネにも背丈を追い越されてしまった愛らしい幽霊は、馬車を見送っていたのであろう視線を空へと向けた。
その視線の先にあるものを、ティアナは知らない。
だが、過去に見送った者達は一様に、光の門がある、とティアナに教えた。
きっと、イネスにもそれが見えているのだろう。
「行かれるのですか」
どこへ、とは言わない。
イネスはコクリと頷き、そして、視線をティアナに向けて。
「もう、心残りはないみたい」
イネスの心残り。
一つはイネス自身の心。素直になれず、ユージンに想いを告げられなかったこと。
二つ目はフィーネの事。大事な大事な娘。行く末を思うと離れることなんてできなかった。
そして三つ目はユージン。
イネスと心を通わせることはなかった夫。
幼い妻は、夫の不器用さと優しさに気が付けなかった。
それに気が付いた時には、もはや自分はこの世の者ではなくて。
でも、受け入れてくれる人が現れることを願い……ティアナが現れた。
だから、もう心残りはない。
フワリ、とイネスが浮かぶ。
華奢な指先が光差すのであろう方角へと伸ばされるのを見て、ティアナは窓を開けた。
必要のない行為にイネスは一瞬目を見開き、そして、微笑む。
鮮やかな美しい笑みに、ティアナも笑みを返す。
「……ティアナ、ありがとう」
そう言って、窓から光に向かってトンと飛び立つ。
もちろん落下するはずもなくイネスは光に導かれてフワフワと空へと上がっていく。
「私の大好きな人たちをお願いね」
そんな言葉を残して。
ティアナは頷いた。
言葉はない。
それでもイネスは満足げに微笑み、ティアナに背を向ける。
光は徐々に強さを増し、イネスを包み、やがて粒子となってパラパラと消えた。
ティアナはそれを見守り、零さずに済んだ涙をそっと拭った。
どれほどの時間、空を見上げていたのか。
気が付けば、日が暮れかけていて、吹き込む風が冷たさを含んでいる。
ティアナが窓を閉めたのに合わせるかのように、トントン、とノックがして、返事をする前に開いた扉からユージンが入ってきた。
帰ってきたことに気が付かなかった己の失態に驚いて、ティアナは慌てて夫へと歩みより声をかけようとして、しばし、言葉失う。
出かけたままの正装は、この国の宰相としての威厳を放ちながらも、花嫁を送り届けた父としての憔悴を明らかに漂わせていたから。
今日は神殿での儀式のために娘を送っただけのはずなのに。
これから、まだ、式典はいろいろと続くのに。
この方は大丈夫だろうかと、一抹の不安と共に声をかける。
「お帰りなさいませ……お出迎えせず、申し訳……」
言葉が止まったのはユージンの手のひらがティアナの頬を包んだからだ。
そして、いつかのように指先が目元を拭う。
心配したのは、ティアナの方だった筈なのに、見上げた先には、眉を寄せる夫。
「泣いていたのか?」
いいえ。
涙を零すことは耐えた。
だから、泣いてはいない。
答えようとしたのだが、それより先にたくましい腕に抱きしめられてしまうから。
「……閣下」
戸惑って声をかけると、さらに腕が強まる。
まだ、すんなりと広い背に手を回せるほど慣れてはいない。
夫は早々にティアナと距離を縮めてきたが、まだ、ティアナは迷うときがある。
行先を悩んで悩んで、ようやく、温かな胸元に添えた。
そして、報告。
「泣いておりません。閣下」
それに対するユージンの答えはため息だった。
「お前は俺の部下か」
少し緩んだ腕から顔を上げて、ティアナは宰相閣下を見つめた。
部下、というそれ。
確かに、以前、ティアナは自分自身とユージンの立ち位置を主従に近いと思っていた。
ユージンは困ったように笑みを浮かべ、今度は額に口づけ。
「呼び方」
ティアナが口を開く前に、今度は軽く唇を合わせられる。
「名を」
少し離れた唇が吐息のように囁いた。
「名を呼んでくれ」
もう何度も請われているそれ。
そのたびにティアナは、なんともいえない恥ずかしさと、そして、そこはかとない暖かさに満たされながら、答える。
「……ユージン様」
ティアナが呼ぶとその地位を盤石のものとした夫が微笑んだ。
フィーネを皇太子妃として送り出し。
イネスは天に召された。
己の役目は終わった。
それはここを出ていく日となるはずだった。
想像もしていなかった現在に、ティアナは未来を想像する。
口づけには、まだ、戸惑うし。
名前を呼ぶのにも慣れないけれど。
抱きしめられながら、思い描くティアナの未来には、間違いなくユージンと共にある自身の姿があるのだった。




