現伯爵夫人は涙する
宣言したとおり、閣下は翌日も侯爵家を訪れた。
何やら微笑ましいものを見たように目元を和ませた侍女頭に案内されて、再び客間を訪れたティアナは、いきなり手渡された華やかな色彩に言葉を失った。
「…………これは?」
見た目の大きさの割には、重さを感じさせないそれが花束だと。
そして、閣下から送られたらしいと。
気が付いて、出てきた言葉はなんとも間の抜けた問いかけであった。
「機嫌を損ねた妻には、プレゼントだろう?」
花束の隙間から覗き見えた閣下は、昨日とは別人のように見える。
それは、迷いのなさであったり、焦りのなさであったり。
そして、何かを悟ったようにも、決めたようにも感じさせる。
まとう雰囲気の穏やかさであり、浮かぶ笑みの柔らかさだった。
「閣下」
戸惑いながらも、ティアナは真意を問うべく呼びかける。
分かっているとでもいうように頷く閣下は、やはり昨日とは別人のようで、気圧されるようにティアナは口を閉ざした。
「少しは落ち着いたか?」
この花束に動揺しました。
思いながら、花束に顔を埋めるようにして、返事を返す。
「昨日も落ち着いておりました」
答えてから、大人げない返事だと気がついて狼狽える。
閣下はティアナらしからぬ言葉にも鷹揚に頷いて
「そうか。俺は少なからず動揺していたようだ」
そんな風に告白する。
いつも冷静沈着な閣下の吐露に、花束の衝撃はいくらか緩和して、ティアナは腕を下ろして目の前の男を見上げることに成功した。
しかし。
「帰って、お前の言った言葉を考えた」
真剣な声と瞳に再び花束という壁を築きかけるも、閣下の手のひらが頬に触れたことで、成し遂げられずに硬直してしまう。
些細な接触だ。
そう、フィーネにならば、ティアナだって日常的に行っているような。
「いろいろと想像もした」
固まるティアナの頬を、無骨な親指が撫でる。
文官の閣下ではあるが、嗜み以上の剣技を身につけていると聞いたことがある。
それが真実であるようで、その指先は祖父と似て固い皮膚に覆われていた。
フィーネによくするこれが、こんな感触なのだ。
初めて知りながら、ティアナは閣下を見つめた。
「イネスのことを思い出して、フィーネのことを考えて」
ティアナの視線を捉えたままの閣下の瞳が、少し緊張の色を孕む。
「帰ってきてくれないか」
やがて、告げられる昨夜と同じく、ティアナの帰還を促す言葉。
「お前のいない日々など、考えられんよ」
閣下は、それが戯言ではないことがすぐにも知れる、真摯な眼差しでティアナを見つめていた。
だが、いや、だからこそティアナも、自らの思いを正直に口にする。
「私とは離縁すべきです」
閣下の表情に変わりはない。
「家のためでも、国のためでも……フィーネのためである必要さえもないのですから。今度は、どうか閣下のために」
ティアナは、頬を包む閣下の手にそっと触れる。
「閣下の人生の伴侶をお選びください」
それは私ではない、と。
触れる手のひらの温もりに願いを込めて、そして、僅かに顔を逸らすようにして離れようと動けば。
「お前がいい」
もう片方の頬までも、大きな手のひらに捕らわれた。
一切の逃げを封じるよう顔を覆われ、その温もりを吸収して、なお育てたように顔が火照ってくるのを、止めるすべはない。
トクトクと早まる鼓動を、留める術をティアナは誰からも教えられていない。
それでも。
「閣下……楽な道を選ぶと後悔なさいます」
なんとか、そう告げることができた。
少しばかり声が震えてしまったのは仕方ない。
閣下は唇の端を僅かに上げた。
苦笑い。
フィーネのわがままに零すそれをさせたのが己であることに、狼狽えるのに。
「今、さんざん苦労していると思うんだが」
苦笑いを消した口元が言葉を綴る。
「ついでに後悔もだな」
それは、あまりにも閣下には似合わない独白だ。
さらに狼狽するティアナの頬は、変わらず閣下の大きな手のひらに包まれている。
不意に閣下が身を屈めた。
「お前をそんなに頑なにさせるほど、俺はお前を蔑ろにしてきたんだな」
僅かに見上げる必要もなく、目前に現れた端麗な面に、ティアナは慌てて首を振る。
宰相閣下はティアナを大事にしてくれていた。
蔑ろにされていると思ったことなど一度としてない。
政略結婚を政略結婚として誠実に受け入れ、ティアナをティアナとして常に尊重してくれた。
だが、宰相閣下の手のひらは、首を振るティアナを柔らかく留めた。
そして。
「愛してる」
「はい」
呼吸と共に、反射としか言いようのない返事を返す。
今までにない近い場所で、閣下が目を瞬いた。
そして。
「空気で察しろと言ってもだめなら、苦手であっても言葉にするしかあるまい?」
そんな風に言いながら、微笑み。
「ティアナ、お前を愛してる」
再び、口にされた告白に、ティアナは頭が真っ白になる。
これは、いったい、何?
こんな言葉を、閣下がティアナに向ける筈がない。
夢だろうか。
夢以外に何があるのか。
「ティアナ」
完全に現実逃避を始めたティアナの意識を、閣下の指が再び頬を撫でることで引き戻す。
「……恐れ入ります」
これまた、教本にある『上司への返答に困ったとき』に示されている例のような返事である。
閣下は笑みを消して、眉間にしわを刻んだ。
「……本気にしてないな。楽するために、言い繕っていると思ってるな?」
そういう訳でもないのだが。
ただ。
「申し訳ありません。あまりに想定外なので……頭が追い付かなくて」
とりつくろう言葉もなく、正直に吐露する。
閣下は頷いた。
そして、背筋を伸ばして、手のひらをティアナの頬から下ろした。
解放されて知らず強張っていた体から力が抜けて、すっかり忘れていた花束の重さを思い出す。
それに顔を埋めようとするのに、その花束を閣下に攫われてしまう。
「想像してみてくれ」
閣下がテーブルに花束を置きながら願う。
ティアナは閣下の動きを目で追いながら、想像してみる。
「俺は想像したと言ったろう?」
フィーネは近く輿入れをする。
あの屋敷からいなくなる。
「……フィーネが屋敷からいなくなる。俺の中に大きな穴ができるだろうな」
フィーネを手放したこの方のことならば、幾度も想像した。
それは常に多大なる心配を伴うものだった。
この方の唯一といえるフィーネ。
あのお屋敷からあの姿が消えてしまったら、この方はどうなるのか。
重責を担う方にとって、フィーネという存在がどれほどの救いであったのかをティアナは知っているから。
だから、フィーネを手元から放つこの方に、その代わりとなるべき方が現れたら良いと。
そう願っていたのは事実。
だが、ティアナの想像では、一度だって閣下の傍らに立つのは己ではなかった。
それは、望んではいけないことだった筈だ。
なのに。
「だが、俺にはお前がいる。俺はあの屋敷でお前とこれからを過ごしたいと、そう願うよ」
はっきりと告げられて、想像の中では、常に靄のかかっていた閣下の傍らに立つ人に、己の姿を見出す。
「……まだ、言わねばならんか?……俺は仕事バカの朴念仁でな……こんな時にどうすれば良いのか……」
困ったように微笑む閣下に慌てながらも。
「……い、いえ」
なんとか、そう言ったのに。
声は震えて掠れていた。
情けない。
でも、仕方ない。
こんなこと、想像もしたことない事態なのだ。
「……すまない……困らせたか」
そう言って、この国の柱の一人である宰相閣下が、身を引きかける。
思わず、ティアナは閣下の袖口を掴んで留めた。
行かないで、と。
そして。
「……っ私、本当に閣下のお側にいても……」
いいのですか、と。
留めることもできずに、迸った言葉は、力強い腕に引き寄せられたことで途切れて消える。
トンと柔らかく鼻先に慣れぬ香り。
そして、力強い囲いに体が包まれる。
「……泣かれるとは思わなかったな」
そう閣下が呟いたことで、ティアナは声が震えて掠れていた理由を知る。
そして、宥めるように背中を撫でられながら
「俺にこうされるのはいやか?」
そう尋ねられて、ようやくティアナは抱きしめられているのだと分かった。
途端に、自分でも呆れるほどに、体が硬直する。
密着している閣下に、それが伝わらない筈もない。
「……ティアナ?」
戸惑うように、名を呼ばれたあとに小さな吐息。
「なるほど……お前にとってはこれも想定外か……俺は随分と枯れた男だと思われていたのだな」
低い声はひどく近くから聞こえてきた。
と、目元を温かいものが触れていく。
「……っ……」
声にならないが、悲鳴が出た。
それに構わず、閣下の……多分、唇、はティアナの涙を拭いながら、頬へと滑っていく。
ティアナは、もはや、涙も止まり、声も出ず、ただただ、閣下の腕に収まるしかない。
「俺は随分と前からお前を抱きしめたいと……名実ともに妻にと望んでいたよ」
柔らかな囁きに、止まった涙が再び溢れてくる。
自分が泣いていることに、今度は気が付きながら。
「お前も……俺の傍にと……そう望んでくれるなら……」
ティアナは恐る恐る閣下の背に手を回す。
ティアナの返事を求めず、ただ、腕の力を強めたのは、閣下の優しさだ。
いつだって、こうやって与えてくれていたことを知っている。
比類なきと称される宰相閣下とは思えないくらいの不器用さで、フィーネに対するものとは少し形の違う優しさを、ティアナに与えてくれていた。
それを愛情故と思い違いしないように、と。
何度と戒めてきたけれど。
良いのだろうか。
思い違いではない、と。
「……涙が止まったら……一緒に帰ろう」
喉が引き攣れて言葉にならない答えを頷くことで伝える。
ほっとしたように笑みを浮かべる閣下もまた、言葉はなく、その代わりというように触れるだけの口づけが初めて唇に与えられた。




