――185(●)――
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倉庫街の労働者たち専用の宿泊施設の一つ。壁に染み込んでいるだけではない酒の臭気が漂ってくる部屋の中で、男が報告を聞いて頷いた。
「ヴェルナーの奴だけで満足するところか。平民の方は後でまた別の機会に始末できるだろう」
「へい」
奥でそう呟いた男は、貴族の服を身につけてはいるものの、顔の造作よりも残忍さや暴力性の方が滲み出ているような風貌をしている。
その風貌に勝ち誇ったような笑みを浮かべると、陶器の中にある酒を呷った。乱暴に口を拭いながら傍にいた別の男に問いかける。
「そう言えばクララとか言うあの女は生きてるな?」
「お頭の指示通りにとっ捕まえてあるはずですぜ」
「そうか、どうするかねぇ。殺しちまう方が後腐れはねぇが」
使い終わった道具を捨てるかのような口調でお頭と呼ばれた男がそう口にするが、周囲の人間も何とも思ってないような態度である。事実どうとも思っていないのかもしれない。
「年増よりはあっちの娘の方が高く売れるんじゃねぇですかい? 貴族殺しの犯人なんて本人も口に出せないでしょうし」
「それもそうだな」
「それより男のガキとか売れるんすか」
「ああいうのが好きなのもいるんだよ」
この世界では男娼も商売である。ただし娼婦と違って需要は極端に低い。稀に見栄えのいい男性を貴族の女性が囲い込んだりすることはあるが、武力と勇敢さが評価される世界であるため、そういった武勇の評価が低い男性は価値も低いのだ。
また奴隷売買も禁止はされていないが、売買に税金がかかる。そのため、税を逃れようとする闇商人が出てくるのは避けられない。
「なぁに、市場で売れ残ったら貧民窟に捨てて行けばいい」
「ですな」
「そんな事より、手配の方だ。こうなったら王都に長居はできねえんだからな」
男たちがヴェルナーの首を晒したのちクララ達を回収し、王都を脱出する手順やその際に持ち出す物品等を打ち合わせていると、急に別の男がその部屋に駆け込んで来た。
「お、お頭!」
「なんだ、騒々しい」
「よ、鎧の音が。囲まれ始めてます!」
一瞬顔を見合わせた後、音を立てて男たちが立ち上がった。そのまま木の窓枠に駆け寄ると、微かにだが金属の鎧を着た者が動き回る音と多数の気配を感じる事ができる。一人が窓の板にある隙間に目を近づけた。
夜闇の中で鎧が月明りを反射し、複数の人影が建物の周囲を徐々に取り囲み始めているのを確認できる。その背後にも多くの人が動く様子があり、それが増えそうな気配さえあるのだ。人数は現時点でも二十人を超えているだろう。
全員が絶句していたが、お頭と呼ばれていた男がクララが戻ってきたことを報告した男を睨みつけた。
「おい、お前、後をつけられていなかっただろうな」
「え? い、いえ、確認はしていませんでしたが……」
「この役立たずが!」
怒鳴りつけたがそれで状況が好転するわけでもない。それどころかむしろ状況は悪化した。大声を上げたことが建物の外に漏れたのだろう。一斉に足音が建物に向かってきたのである。
「ど、どうしやすかお頭!」
「裏はどうなっている!」
「まだ人がいやせんぜ、早くあっちに」
「あの女とガキは」
「足手まといだ、それよりさっさと行くぞ!」
剣だけを手に男たちが急ぎ足でその場を離れる。裏口にまではまだ手が回っていなかったらしく、男たちの一団はかろうじて建物を抜け出した。途中何度か角を曲がり、市街地に近い所まで逃れて男たちはようやく足を止める。
「あ、危ない所でした」
「どうしやすかお頭」
「くそっ、ひとまず……」
「ひとまず降伏してくれると楽なんだけどな」
ぎょっとして男たちが声の方に視線を向ける。と同時に周囲が昼間のように明るくなった。周囲から多数の騎士と従卒たちが姿を現す。従卒たちが魔道ランプを道路に向けた。
声をかけてきた青年に向かってお頭と呼ばれていた男が声を上げる。
「てめぇ、ヴェルナー!」
「誰だっけ、お前」
槍を手にしたヴェルナーがけろりとした表情で問いかける。対照的に男が憤怒の表情を浮かべた。
「てめぇ、本気で言ってるのか……」
「半分ぐらい?」
肩に槍を乗せたまま、ヴェルナーは肩を竦めるようにしてそう応じた。実際、ヴェルナーにとってもやや意外な再会ではあったのだ。むしろあまりにも小物過ぎて監視の目を置くのを忘れていたという方が正確かもしれない。
会いたくない顔を目にしたという気分のまま、皮肉っぽい表情で言葉を継ぐ。
「あの後、図書館で足止めもできない役立たずと飼い主に説教されていただろうなあ、という程度の認識ぐらいはあるけどな、ボーゲル子爵殿?」
歯ぎしりの音が周囲に響いた。ヴォータン・スベン・ボーゲルは視線だけで睨み殺せるのではないかと思えるような表情だが、ヴェルナーは涼しい顔だ。その表情のまま口を開く。
「ま、勢子に追われて逃げ出して来るのにふさわしい顔をしているのは確かだな」
「勢子だと」
「あの倉庫を囲んでいたのはほとんど演出だし」
ヴェルナーがにやりという笑みを浮かべ、驚いた顔の賊の集団を眺めまわす。ボーゲルが口を開いた。
「どういうことだ」
「俺から見れば、一番困るのは立てこもられた場合だったんでね」
ヴェルナーの立てたいくつかのパターン予測の中では、クララが人質になる可能性を考慮していたのではあるが、そこまで口にする必要もない。
それにこの世界では平民以下の命は軽い。人質を殺したとしても罪状が増えたという程度の扱いになるだけであろう。人質に気をつけるヴェルナーの方が異端に近いのである。
「夜の闇の中で鎧の音を聞き、その後で人がたくさん動いているのを見るとやっぱり最悪の方に想像が向くだろうからな。慌てて包囲されていない裏から逃げ出してくれると思ったわけだ」
「するとあの鎧は」
「多分一人か二人はお前も顔に覚えがあると思うぜ。ちなみに謝礼は各自にワイン一本」
決闘裁判の際に顔を見せた学友たちに今何をしているのかと近況を聞いておいたのが、ここで生きたのである。彼らの中には貴族階級の生徒もいるため、時間に余裕がある学生に鎧を着て包囲にだけ参加してくれと頼んで回り、それに何人かが応じたのだ。
貧民窟から一度貴族街に足を運び、その後で孤児院に向かったのだからあの日のヴェルナーはずいぶんと長距離を歩き回っている。皮肉なことにアンハイムで戦場を走り回った事が生かされている一面はあるだろう。
それ以外にも冒険者たちに襲ってきたら撃退してほしいが、計画では囲むだけでいいと依頼を出して集まってもらってもいる。ヴェルナーの予想以上に人数が集まったのは、これまでの評判の賜物であっただろう。
「ちなみに今夜クララを追跡していた人数は六人。クララの入っていった建物と、そこから出てきた奴を追跡する必要もあったんでちょっと奮発した」
クララが振り返らないタイミングでも尾行者の入れ替えが起きていたのである。無論、夜闇の中で見失わないように十分に手配した人数であることも事実だ。裏門からしか出ていけないようにわざわざ馬車で表門を塞いでの対応である。
このために追跡と尾行の専門家をヴェルナーはセイファート将爵から借り受けていた。つまりこの件は既に王国の最上部にまで伝わっていることになるのだが、ヴェルナーはそのようなことはおくびにも出さず話を続ける。
また、あの倉庫にはこの時間になって衛兵隊が中に調査のために入り、クララの母親と弟を救出していたのだが、そのことはこの時点のヴェルナーも知らない。
「……どうやってここで待ち伏せができた」
「あの毒を入れてあった薬包が高級だったからな。毒殺犯の黒幕がこっちに住んでいるだろうと推察しただけだ」
倉庫街から貴族街と王都の中央教会に向かうにしても、途中でどうしても通らないといけない道をいくつか選んだ結果である。夜闇の中で移動となれば入り組んだ道は通らずに、最短距離を通るだろうとヴェルナーは判断してここで待ち伏せていた。
ただ、それ以外の道にも念のため数人ずつ配置し、万一怪しい人間が通るようならヴェルナーが到着するまでの時間稼ぎをするようにと指示をしてある。
「だとしても、なぜ倉庫街からの道なんぞ詳しい」
「詳しい人から聞いただけさ。お前と違って助けてくれる人が多くてな」
セイファート将爵がリリーに王都の地図を描かせていたことをヴェルナーが知ったのはアンハイムから戻ってきてからの事だ。その際、セイファートはリリーに地図の下書きをツェアフェルト邸に持って帰るように勧めていた。
勧められたリリー本人は困惑していたが、セイファートに「その図はヴェルナー卿の役に立つじゃろうから持ち帰るとよい。じゃがあまり広めんでくれよ」と悪童のような表情で言われて断りきれなかったのである。
実物を前にして機密クラスの物をどうやって保管しようかとヴェルナーは真剣に悩む事になったが、事実役に立ったのだから文句も言えない。
「短時間に手配するのは大変だったが相手が単純で助かったよ」
「……」
「見事に引っかかってくれたんでありがたいぐらいだね。一言助言するとしたらいい毒薬を手に入れるより実行犯に金を使う事だな」
そろそろとボーゲルの手が柄に伸びているのを見てとり、ヴェルナーが素早く声を上げた。
「生かしておくと追剥強盗にでもなるだろう。かまわん、雑魚は斬れ!」
「はっ!」
ヴェルナーの声に応じた騎士団が一斉に襲い掛かる。明らかにボーゲルたちは先手を取られた。一度ぐらいは降伏勧告があるだろう、実力行使はその後に違いないとどこかで油断していたのだ。
男たちも慌てて剣を抜いたが、その途端に一人がマックスに切り倒される。
たちまちのうちに夜の王都の一角で乱戦が始まった。




