――173――
翌日は朝から予定が狂う話が持ち込まれた。
家族で食事中、普段と変わらない顔でノルベルトが早朝に届いた書状を父に差し出し、父が顔をしかめながら読み終えるのを俺も母も黙って見ている。
ちなみに今はまだリリーはメイドの立場。客間女中の実践練習の時間は主人の食事時だから、同じ部屋にいるが同席しているわけではない。
それはともかく、普通の書状なら執事が食事中に持ち込むことはない。食事中に持ち込まれたという事は大きな事件か、上位の地位にいる人物からの書状だ。どっちにしてもすぐに対応なり返答なりをしなければならない場合。
ただ何というか、雰囲気が妙だ。怒っているわけでもなきゃ困惑しているというのともちょっと違う。強いて表現すると諦めだろうか。
「リリー」
「はい」
父がリリーを呼んだ。茶のおかわりだろうかと思ったがどうやら違うようだ。手紙から近づいたリリーに視線を向けて口を開いた。
「シュラム侯爵家からのお招きだ。リリーを明日、午後の茶会に招待したいと」
「え……」
あ、リリーが硬直してる。無理もないか。というか内容があまりにも想定外で理解に苦しんでいるという所だろう。
「招待者はシュラム侯爵のご息女であるローゼマリー・エル・シュラム嬢だ。軽い茶会という事らしい」
いろいろな意味で異例だが堅苦しくはしないという事になるのか。事実ローゼマリー嬢が招待したのか、侯爵が娘の名前で呼び出したのかは別にして、どちらにしてもお近づきになりましょう的な茶会で深い意図はないという事だな。
この世界では貴族令嬢が平民を招待する事自体はあまり珍しくはない。学園には同じように貴族と平民が通っているので、社交の場としての茶会に平民を招くことはよくある事だからだ。
さすがに学園生ではない侯爵令嬢が平民を招くって言うのは例外に属するとは思うけど。
この世界には個人として午後のおやつを食う人はいるが、風習としての午前の軽食はない。普通、茶会と言えば昼を過ぎた後に開くものを指す。
実は前世でこういう英国型茶会が習慣化したのは一八四〇年ごろと結構新しい。日本で言えば徳川慶喜はまだ水戸の少年だがもう生まれているころ。そういう意味ではこの辺りは近世風だ。
これはこの世界では女性の社会進出が前世の中世より進んでいるせいだと思う。社会進出は進んでいるが情報面が質量ともに中世のレベルなので、女性同士の情報交換と交流の場として発展したのだろう。
ただ、この世界での茶会というのも色々複雑だ。もちろん、家族でのんびりすることが目的の茶会というのも存在するが、それは別。複雑なのは女性が開催する貴族のお付き合いとしての茶会の方。
「あの、軽い茶会と言いましても」
「セイファート将爵閣下の許可もいただいているそうだ」
俺が質問をする前に父が応じた。もう手は回ってございましたか。さすがは貴族というべきだろうか。
「手順は解っているのでしょう? 立場が変わるだけです」
リリーに母がそう声をかけている。客間女中としてリリーも茶会の場にいたはずだし、茶会でのマナーは目の前で見ていたはずだ。
例えばだが、茶会でテーブルに置かれている二段とか三段重ねで食べ物が置いてあるティースタンドから食べるのにも順番があり、使う皿や食器にも決まりがある。そのあたりは参加していなくても見ているだけで分かるはずだ。
というか、ひょっとして見取り稽古をさせてたのか。うちの両親はどのあたりからその辺を企んでいたんですかねえ。
茶会のルールという意味でいうと、例えばうちで茶会を開くとする。俺に姉妹はいないが、伯爵家の令嬢が開催する茶会の場合、その家で茶を淹れるのが上手い人間が準備しても構わない。主催は家で接待責任者が令嬢、という形になる。
うちの場合だと一番茶を淹れるのが上手いのはメイドのティルラさんだから、彼女が茶を淹れてもよく、令嬢は席で来客を迎え、様々な話題で客をもてなすのが仕事という事になるわけだ。
これも来客のランクによっては二番手以降、例えばリリーが茶を淹れることもありうる。それに加えて茶葉が最もいい物か、二番以降の物かにもよってさらにランク分けがされたりもする。相手が重要な客の場合とただの学友の場合とではおのずと異なるわけだな。
令嬢であっても、ごく親しい友人の場合や、親族を相手にした時には自ら淹れることもある。これは大人になった時の練習のためだといっていい。だから失敗を笑って済ませられる相手の時だ。
そのほか、婚約者相手には令嬢が自分で淹れる事もある。家が招いたのか、令嬢本人が招いたのかで誰が淹れるのかが変わるわけだ。令嬢本人が淹れる場合は親愛とかの意味になる。
つまり茶も淹れられない女性は貴族としてものすごく軽んじられる。子ども扱いされるという方が近いかもしれない。確か学園の女生徒には茶会に関係する授業があったような記憶もある。
一方、夫人同士の茶会となると、主催も接待責任者も女主人である母になる。だから貴族の夫人というのは爵位に関わらず茶を淹れる技術を持っているのが普通。テーブルマナーやダンスと並んで貴族の女性なら最低限必要な技術だ。
ま、実際は最初の一杯だけは夫人が淹れて、その後は一番茶を淹れるのが上手な人がおかわりを準備するというのが普通だが。夫人が自ら茶を淹れるというのは、夫人が自ら接待することが礼儀になるから。
多数の客を呼んだ場合、夫人が茶を淹れる席かどうかで客のランク付けがされる。参加を許されたという程度だと、夫人と別の席で、最初から使用人が淹れた茶を飲む事もあるな。
これは前世の話だが、イギリスのとある公爵夫人なんか茶を淹れる技術も玄人はだしの腕前だったらしい。残されている愛用茶器の質と数からいって、あの人は明らかに紅茶オタクだったんじゃないかと思うけど。
面白い点として、歴史考証のうるさいドラマなんかだと貴族夫人の宝石箱には鍵が入っている。これは一番良い茶葉を入れた箱の鍵で、この鍵だけは使用人にも触れさせることはなかった。家を背負って客を迎える女主人としての象徴という訳だ。
ちなみにお妾さんの場合は仮に本人が茶を淹れる名人だとしても、客の為に茶を淹れるという名誉な役目が与えられる事はない。そこにははっきりとした線が引かれている。
だからお妾さんが客を前に茶を淹れているような場面に遭遇すると、表面に出さなくても茶会の客に動揺が走る。主人の愛が正夫人からお妾さんに移ったという宣言だからだ。お家騒動待ったなし。
この世界でも似た所があり、新婚貴族が最初に買うのは鍵のかかる茶箱だ。結婚前までの贈り物は男が選び購入するが、茶箱は妻が選んで良人が買うという形になるわけで、ほとんど儀式化しているとさえ言えるだろう。
なお女性騎士の場合、自ら茶を淹れることはできなくても恥ずかしくはないが、結婚後に困るという理由でこっそり練習していることが多いらしい。
同様に料理の技術はいらないが料理の知識も貴族の女性には重要なんだが、その辺詳しくはパス。要するに来客を招いた際とか招待された時にいろいろ話題を振る知識が必要だって話だ。年代物ワインの話をするのに近いかな。
ついでの余談になるが男が女性を招いての茶会の場合、自分で淹れる必要はない。男の場合、騎士と貴族で求められるものが違うからだ。男に求められる事は大雑把に言うと勇敢で武技に優れ、服装の趣味がよいことが共通。
そこに貴族の場合は礼儀作法と哲学と人文学の要素が必要になる。貴族同士で行う政治上のやり取りは直接的ではなく、微妙な言い回しをしたり発言の裏を読む必要があるほか、女性に接するのにさらっと詩の一つでも口にできる必要があるからだ。
つまり大人の男性貴族には領地経営のための経営学的知識と様々な文学的表現のできる機知、王宮における礼儀作法、そこに個人的な武芸が最低限必要になる。さらに音楽などの何か趣味があることが望ましい。改めて考えてみると真面目に貴族をやろうとすると結構大変だ。
しかしなんだな、侯爵という家柄だから現時点では平民のリリーを呼び出すことには抵抗を感じていない。もっと言えば、事情によっては子爵である俺を当日呼びつけることさえ躊躇はしないだろう。そのあたりはさすが侯爵級貴族家。
一方で直接呼ぶのではなく、父経由での招待状という事で他意はない旨をアピールしてもいる。招待状そのものが証拠になるから、万が一にでもリリーに傷をつけたりしたら侯爵家が責任を取るという意味合いだ。
つまりは、というと。
「ヴェルナーはどう思う」
「シュラム侯爵の派閥問題ですか」
「うむ」
正解だったか。とりあえずまだ困惑しているらしいリリーに説明しておこう。
「この国だと大きく文官系の派閥と武官系の派閥があるんだけど、シュラム侯爵はどっちにも属していない中立派だ。そこまではいいかな」
「はい」
「ただ、中立派って人数で見ると多くはないから、文官系と武官系、両方の派閥の有力者と等距離で仲良くする事が多い。で、ローゼマリー嬢の母君は武官系貴族の家だったはずなんだよね」
「文官系の方とはそういう血縁関係がないので、ご友人を増やしたい意向があるのですね」
正解。リリーは情報と経験が少ないだけで理解力は高いんだよな。
俺個人の評価はともかく、ツェアフェルト伯爵家は文官系の家柄だ。そして飾り紋の伯爵家となった今、多数ある伯爵家の筆頭という事はないにしても、上位と下位で分ければ上位として見られることは間違いない。
だからと言って令嬢が俺を呼んだりするといらん誤解を招くことになるし、夫人同士の関係構築って面でも理由もなしに呼ぶのは実は結構難しい。自動的に派閥色が付くのは避けられないからだ。
だから直接ではなくツェアフェルトの客人を招待するという形で今後の交流を持つ足掛かりにしたいという思惑があるはず。恐らく、当家の客人がお世話になりましたというお返しの名目で、後日には母がシュラム侯爵令嬢か夫人を招いたりすることになるだろう。
本当に貴族家同士のやり取りは面倒くさいなと思いつつ、言いにくいがこのことにも触れておかないといけないのか。
「それに、マゼルとの関係もある。ローゼマリー嬢は王太子殿下のご子息と婚約しているから」
「……王都にいない兄の代わりに私との関係をよくしておきたい、という事ですね」
「そういうことになる」
いずれマゼルが王都に戻ってきたときにルーウェン殿下とマゼルの関係構築の足掛かりにもなる。そのあたりも狙っているのだろう。リリーにとっては不本意だろうなとは思う。ここでも勇者の代理という扱いになってしまっているんだし。
ただ、国が公然とマゼルを庇うようになった以上、こういうことは今後もありえるんだよなあ。
俺がそう思っているとリリーは頷いて口を開いた。
「解りました。そのご招待、お受けいたします」
「よいのだな」
「はい。いつかはしなければいけない事だと思っております」
緊張しながらだが、はっきりと父にそう応じている。将爵の許可まで取っているのに断りを入れることがうちの負担になるという考えもあるようだが、そのあたりの心情を隠せるほどポーカーフェイスはまだ得意ではないらしい。
「それに、その方がヴェルナー様のお役にも立てるかと思いますので」
「それは間違いない」
父の返答を聞きながら咽せそうになるのを耐えた。何も口に入ってなくてよかった。本当ならそんなことは気にしなくてもいいと言いたいんだが、それは今の俺の立場だといえないセリフでもある。いやほんと、そういうことはまだ考えなくていいんだけど。
それにしても思い切りの良さは兄妹よく似ているな。
「クラウディア、服を見繕っておいてくれ」
「解りましたわ」
父が母にそんなことを言っている。いくら軽い目的の茶会でもそれなりの服は必要だし、母のドレスはちょっとリリーには合わないと思う。身長の問題だぞ。
この世界にも貴族御用達の貸服屋があるんですぐに呼びつけることになるな、これは。
「今日はリリーは出仕しなくてもいいよ」
「解りました」
ここ数日、決闘にかかりきりになっていたから調査も進展していないのだが、それはそれとして表の業務もやることが多い。それこそ表向き、俺は仕事を溜めていることになるからな。今日は一日そっちの業務になるだろう。
残念そうな顔を浮かべられたが今日はどうせ書類仕事になるだろうからちょうどいいのか。
「当日は私も王城に午後から出仕することにします。許可を貰っておきます」
招かれているのはリリーだが、侯爵家までのエスコートをする人間は必要だ。俺がそう言うと父は軽くうなずいただけだが、判断は間違っていなかったようなので良しとする。




