回想 全ての始まり -5-
大きな息を肺の底深くから吐き出すと近くのベンチに生気のない足取りで進み、倒れこむように腰掛ける。
成り行き上仕方ないとはいえ、命の対価に支払ったものが性別というのは高いのか安いのか……どちらにしろ優衣の心に憂鬱の影を落とすことに変わりはない。
性別が戻るかどうか思案したところで、そもそも変わった仕組みが何も分からないのでは手の打ち様がない。
かといって科学的に戻せるかと言えば否だということくらい優衣にも分かっていた。
「当面の問題は、どう誤魔化すか……」
抱きつかれでもすればレッドカード並みの一発判明の可能性があるが、男に抱きついてくる稀有な輩は優衣の身近にいない。
そもそも仲のいい知り合い自体がさして多いわけではないのだからと自嘲気味に笑った。
「あんた、どうかしたのか?」
だから突然よく知った友達の声が聞こえたとき、優衣は動揺せずにはいられなかった。
何せその声は今さっきバレる可能性が高い要注意人物と考えていた数少ない友人の内でも親友である光輝の物だったのだから。
どうしてこんな所にいるんだと八つ当たり気味の思考と、できれば他人の声似でありますという期待を篭めて顔を上げてみるのだが、やはりそこに立っていたのは春原光輝その人だった。
「いや、その、なんでもないよ?」
だが光輝は上向いた優衣の顔を見るなり、まるで幽霊でも見たかのように驚きの声を上げる。
「おま、優衣……か? 何でこんなところにって言うか、それはどうでもいいけど、その格好は一体どうした!」
優衣は自分を指さしてぷるぷると震えている、明らかに挙動不審な光輝を訝しげに思うが、先ほど転げまわったうえに石礫までしこたま当てられたのを今更のように思い出した。
それは確かに酷い格好になっているだろうと誤魔化すように乾いた笑いを漏らしつつ自身の姿をしっかりと見て……現実を見失った。
「な、なにこれぇぇぇぇ!」
優衣の甲高い絶叫が夜の帳に響いていく。
家を出たときに着ていた服はどこへやら、見知らぬ真っ白なノースリーブのワンピースに同じく純白のカーディガンを羽織っていたのだ。
膝より大分下まで伸びたワンピースの裾は二重構造になっているようで、外側には大分頑丈な素材が、内側にはやたらめったらキメ細かく繊細な素材が使われているようでこそばゆい。
胸上には襟と胸元の調整用に、腰の少し上にもだぶつかないよう絞って調整するための、どちらも服と同じ純白のリボンが備え付けられ、女の子らしさを控えめに醸しだしている。
カーディガンの飾り袖は途中から広がる造りになっているようで、こちらも紐で調節するようになっているようだ。
純白という色合いは優衣自身の髪の色にもピタリと当てはまっていて、フリルやレースといった修飾要素のないシンプルな作りであっても清楚な深窓の令嬢といった雰囲気に仕上がっていた。
「いや、なにこれって言われても……着てるのはお前だぞ?」
あまりにも最もな光輝の意見を優衣はただ口をぱくぱくと開閉しながら聞き流す。
これまでの記憶を辿れば思い当たる節は1つ、杖を取った時しかない。
まるで光輝が好んでみるサブカルチャーの"お決まり"のように、あの瞬間に服装は変わっていたのだ。
必死の攻防に加え性別が変わった混乱も加わり、思考がショート寸前になっていた優衣は今の今まで、第三者に指摘されるまでまるで気がつかなかった。
「ていうか、やっぱり優衣なのか。いや、髪の色と雰囲気からしてそうだろうとは思ったんだけどさ、なんか小さく見えちまって……明かりのせいかね?」
そう言って羽虫が囲んでいる薄暗い電灯を見上げた。
一方優衣の表情は言葉と共に陰りを見せ、俯いたと思えば目を開き、頭を抱えイヤイヤと頭を振る異常っぷりを披露する。
「ちょっと、こっちを背にして立って……そう、絶対に動かないで、こっちも見ないように、背筋伸ばせ!」
普段の優衣からは考えられないような声色に光輝は驚きつつも大人しく従った。
その彼の背に、優衣は自分の身体を並べる。当たって欲しくない想像は的中していた。
中学時代3年間の間に優衣と光輝が肩を並べ歩いた回数は数知れない。
彼の身長を羨んだこともあってか、優衣は彼と並んだ際にどの位置に視界がぶつかるのかを正確に記憶していた。
何度も味わってきた絶望的なまでの差だが、今この瞬間において明らかに"広がって"いるのだ。凡そ三センチも。
1週間ちょっとの春休みで唐突に三センチも身長が伸びるなど考えられない。となれば当然、縮んだのは優衣の方ということになる。
性別の変更に伴う身長の変化。
それはつまり、150の大台を遂に超えることができた優衣の苦労の日々は、無に返ったということに他ならない。
いや、実際にはもっと酷い。優衣の成長が滞り始めたのは12歳の時だ。
それまでは大体平均であったはずの身長が俺はもうだめだとばかりに失速を始め13歳になっても身長は149止まり。
14歳になるとようやく150の大台に乗り、15歳で151という、150の突破を成し遂げることができたのである。
それが、三センチのマイナスにより今の優衣の身長は148。凡そ12歳の頃まで巻き戻ったことになってしまう。
「どうして、どうしてこんな事に……」
絶望感に打ちひしがれる優衣に、光輝はどう声をかけるべきか悩んでいる。
そもそも、何に打ちひしがれているのかを彼はおぼろげにしか理解していなかった。
ぽつぽつと呪詛のように縮んだ、身長、3年などと漏らしていることから、身長に関する事だと言うのだけは何となく分かる。
だから彼は友人を慰めるつもりで先日あったエピソードを話すのだった。
「俺さ、この間田舎の婆ちゃん家にいったんだけど、そこの柱に毎年身長を刻んでるんだよ。そしたら去年よりも縮んでたんだな、これが。なに、身長なんて対して気にせずとも……」
彼にしてみれば慰めのためのエピソードだったのだが、今の優衣にとってそれはトドメの一撃にしかならない。
身長が縮んでいた=今さっき比べた時の差はより広がっている=148の大台すら怪しい。
頭の中でチーンと音がなって瞬く間に真実をはじき出す。
獣と相対するよりもっと深刻な絶望によって、優衣は叫びながら公園を後にするしかなかった。
残された光輝は呆然と小さくなっていく優衣の後姿を見送る。
「騒がしい娘だな、お前の友か?」
不意に、彼に向けて暗がりから声がかけられた。
「あぁ、そうなんだけど……なんか今日はいつも以上におかしかったな。それに、あれは娘じゃなくて男だぞ?」
光輝はその声に応えると心配そうに優衣が立ち去った方向を眺めながらも、それとは別の入り口から公園を後にした。
絶望に打ちひしがれて夜の街を暴走族よろしく駆け抜けていた優衣を正気に戻したのは一本の電話だった。
いつのまにか他にも何本か電話が来ていたようで、発信者は全て妹からになっている。
買物を頼んだ兄がいつまでも帰ってこないとなれば当たり前だ。
結局買い物もできていない事にため息を付いて、どう言い訳するべきかと思案しつつ、優衣は電話を取る。
「もしもしお兄ちゃん!? 無事なの!?」
電話口から聞こえてきたのは憔悴しきった雫の声だった。
聞けば例の食料品店で大規模な爆破テロがあったらしく、住民が普段利用する入り口は無残にも破壊されたと言われている。
中には化け物が出たと喚きショックで錯乱する人も多く、負傷者と共に病院に搬送されたという報道があったそうだ。
あそこで起こった真実はそれらしき現実に改変されたようだ。
一瞬、化け物から女の子を助ける途中で精霊とか名乗っちゃう存在に出くわして退治したものの女の子になりました、てへぺろとでも返してしまおうかという衝動が襲ってくるが間違いなく救急車を、それも白ではなく黄色のを呼ばれるだけだと考え直し思いとどまる。
事故が目の前で起こって今帰るところ、という無難な返答をすると雫は安心したようにすぐに帰ってくるように再三促した。
家に帰るのはやぶさかではないのだが、一つだけ問題がある。この服をどうするか、だ。
一つ、堂々とこのまま正面突破する。
台所は入り口のすぐ脇にあるから、十中八九雫によって発見される。それだけはなんとしても避けたかった。
二つ、裏口からこそこそと進入する。
しかし裏口は台所と直結している。内部の様子を伺うにはいいかもしれないが、ここから入るのは見つけてくださいというようなものだ。
三つ、自分の部屋に直接乗り込む。
二階の角にある優衣の部屋にはジャンプしたくらいでは届かない。まして梯子などあろう筈もなかった。
余りぐずぐずしていたらまた雫から電話がかかってきてしまう。
結局ノープランで家まで戻るしか選択肢は残されていなかった。
「どうしたものか……」
戻ってくるのに然程の距離があるわけではない。走り回っているときも帰巣本能があるのか、家に向かっていたのが恨めしい。
玄関の前に立ってああでもないこうでもないとばかりに頭を悩ましていると、家を出る直前にお風呂に入っていたことを思い出した。
風呂場の窓の鍵は湿気を逃がすために開けたままだ。父親は仕事で部屋に篭っているし、料理中の妹がお風呂に入るのも考えられない。
名案とばかりに玄関を迂回しお風呂場に向かうと電気は付いておらず、窓も鍵は開けられ虫除け用の網戸がかかっているだけだ。
そろりそろりと音を立てないように網戸を開けると窓枠に手をかけてするりと中へ進入する。
再び後ろ手で網戸を閉めると脱衣所の扉をゆっくりと開け、誰も居ないことを確認してからこれ幸いと帰りに着ていた学生服に着替えはじめた。
カーディガンを外してワンピースの胸についている紐と腰の紐をしゅるりと外せば、後は肩紐で吊っているだけだ。
分からない構造がなかった事に感謝しつつワンピースをストンと落としてから学生服に手をかけたところで優衣の手がピタリと止まる。
床にある学生服を取ろうと下を見たことが良くなかった。
女性となった事で現れた2つの"現実"が目に飛び込んできたことで、思わず喉からか細い悲鳴が漏れる。
次の瞬間にはどたどたと雫が近づいてくる音がはっきりと伝わってきた。
瞬時に気を取り直した優衣はまず着ていたワンピースとカーディガンをくるりとまとめて洗濯籠の中に放り込んで隠すが、シャツを着ている時間はない。
仕方なく胸元を隠すようにシャツを強く握った。
バタン、と勢い良く扉が開けられ雫の瞳が驚いたように見開かれた。
「あれ、お兄ちゃん……? 何してるの? というかいつの間に帰ってきてたの?」
着替えている兄の姿をまじまじと見つめながらたどたどしく尋ねる。
「ついさっき、爆風で汚れたから着替えてたの」
それに対し優衣は出来る限りいつも通り平静に、淡々と疑問に答えて見せるが、ともすれば暴れまわっている心臓の音が聞こえてしまうのではないかというくらい緊張している。
「そ、そう……あのねお兄ちゃん、1つだけいい?」
まさかもうバレてしまったのかという不安に押し潰されそうになりながらもどうにか先を促す。
「なんか、凄く女の子っぽい仕草」
「さっさと閉めなさい!」
出てきた雫の言葉が普段となんら変わらない物であったことに優衣はようやく大きな溜息を吐き出すと、いつまでも着替えを覗いている妹を叱りつけるのだった。




