現世の魔法使い
頭上で目覚ましのアラーム音がけたたましく鳴り響く。
横着をして布団の中から手を伸ばすと、何度かまさぐるようにして棚の上に置かれた時計を手に取った。
いつもは暫く探さなければならないというのに、今日に限っては1度で触れる。
頭についているボタンを軽く押すと途端に朝の静寂が戻ってきた。
かといってもう一度寝入るわけには行かない。手足を布団の中で思い切り伸ばしてから覚悟を決めて布団を跳ね除けた。
着ていた寝巻きを脱ぐと畳んでから吊るしてある制服に着替える。
長い黒髪を梳かしておかしなところがないか確認すると、教科書の詰め込まれた鞄を持って階下に走る。
「おはよう、お兄ちゃん。もうちょっと待ってね」
台所に向かうと制服の上からエプロンをつけた雫がぱたぱたと忙しそうに動き回っていた。
テーブルの上に出来立ての白米や味噌汁、焼き魚が並び純和風の朝食が瞬く間に用意される。
ふんわりと漂う美味しそうな香りに、優衣のお腹が小さくなった。
「朝ごはん当番ご苦労様」
雫の隣に行って頭を撫でるとくすぐったそうに、見上げてくる。
ゆっくりと朝ごはんを味わうと、優衣は自転車を引っ張り出して学校に向かった。
平坦な道則をずっと真っ直ぐ進んで学校にたどり着くと、教室には既に4人が揃っている。
「優衣ちゃんおはよー!」
香奈が真っ先に飛び出してきて優衣の細い肩を抱くと熱烈な抱擁を始めた。それを見ていた香澄が慌てて引き剥がしにかかる。
「首輪とリードでもつけておいた方がいいんじゃないか?」
姦しい光景に鳴が呆れたように言うが、その表情はどこか楽しそうでもあった。
途端に香奈が怪しげな含み笑いを零すと優衣を離し瞬く間に鳴の懐に飛び込むと、人差し指で胸の辺りを突きながら嘯く。
「なるくんはか弱い乙女に縄をつけてナニがしたいのかなー」
「太陽神の前で不埒な妄想ばかりを膨らますな」
「あれれー? あたしは具体的なことは何もいってないですよー?」
「ふん。何も言わずともその身から常に溢れ出る瘴気を見れば分かる」
「といいつつ、思春期の少年はあたしのたわわな胸に視線を送らずにはいられず……って、そんな蔑むような目で見られると流石に傷つきますよー?」
隣で光輝が可笑しげに噴出すのも、鳴が呆れて蔑むような視線を送るのも、香澄が未だとばかりにちゃっかり優衣の腕を取るのも変わらない朝の風景だ。
「それで、今日はどうしてこんな早くに?」
鳴や香奈はいつも早くから居るが、光輝は割りと遅くに来る事が多い。
優衣は食事当番の日は遅いが、そうでない日は結構早くから来ている。
5人がこの時間に揃うのは意外と珍しい事だった。
「珍しく早起きしたから来たんだけどさ、そしたら皆次々来るし、優衣も来るんじゃないかって噂してたとこ」
光輝の言葉に優衣は昨日は見たかった深夜アニメがなかったのかと一人ごちに納得する。
ほぼ毎日何かしら見ているが不作の年とやらには穴が空く日もあるらしい。
「んでさ、何か新しい部活でも作んないかって話になったんだよ」
新しい部活を創設するのに必要な人数は5人。確かに全員が署名すれば作れてしまう。
「いつまでも帰宅部だと先生の目線も痛いしさー」
確かに内申書的な事を言えばどこかの部活に入ったほうがいいのかもしれないが、優衣は家事があるし、光輝は趣味的な問題で入っていなかった。
自分達だけなら他人に気兼ねする必要もないわけだし、予算をつけてもらった上で何かをするのも悪くはない。
「それっていいかも」
「だろー? まぁこの間のアニメを見てふっと思いついたんだがな」
優衣が素直にそう言うと、光輝は得意げに語る。実に光輝らしい発案の仕方だ。
「でも何する部活にするんですかー?」
問題はそこだ。部員を5人集めたからと言って何でもかんでも認められるわけではない。
まず、既存の部活と同じ内容では認可が下りない。次に高校生の活動として不適切な物も作れない。
この学校は生徒数が多いだけあって部活は豊富だ。思いつきそうなものは既に作られている事が多い。
いかにして穴を掻い潜り、先生に意義のある部活だと説得できるかが重要なポイントになるだろう。
「野球をしよう。チーム名は……」
「却下。もうあるし人数が足りない」
台詞の途中でにべもなくダメだしされた光輝が一人机に突っ伏して沈み込む。
「分かってねぇ。足りねぇから良いんだよ。人数を集めた先にハーレムが……」
ぶつぶつと何事かを囁き続ける光輝を香澄は心底嫌そうに睨んでいた。
「じゃあ可愛い子に可愛い格好をさせて、それを即売会で売り捌く活動なんて良いんじゃないでしょうかー?」
「本当に煩悩にまみれまくってるな! いい訳があるか!」
鳴の怒鳴り声の後ろですすっと、優衣が香奈から距離を取ると、香奈は心底残念そうに溜息をついていた。
「じゃあなるくんは何がしたいんですかー?」
突然話題を振られると唸り声を一つ漏らしてから暫く考え込む。
「そう、だな。日々の勉強の中でお互いの苦手を克服しあう、とか」
「……なるくん、それはボケだよね? 枯れた老人じゃないんだから、もっとこう、高校生らしいものとかないんですか? それはそれで心配になってくるよ……」
香奈の憐憫の眼差しを受けて鳴が周囲を見渡すが、他の4人に浮かんでいる表情はどれも似たようなものだった。
部活動でまで勉強するのは、何というか枯れている気がする。
「なるくんは放っといて、かすみんは何かしたいこととかあるー?」
香澄は暫く宙を見上げて考えていたようだったが、最終的には頬を染めてつっかえつっかえこう言った。
「優衣と活動できるなら、なんでも……」
「おおう、何てストレートなんだ、眩しすぎる……。でも、そうかもね。あたしもみんなと活動できればそれでいいかな」
この先、学年が上がれば5人は別々のクラスになるかもしれない。
離れ離れになっても一緒に集まれる場所さえあれば何をしようがそれで良かったのだ。
「優衣はさ、何かしたいものとかあるか?」
「そうだねー……」
優衣が4人の顔を順繰りに眺めた後、朗らかな笑みを浮かべた。
「やっぱり、部活はなしにしようか」
4人は変わらず優しい笑顔のままだった。ここは本当に優しい世界で何もない。
「ボクは部活を作るならみんなと作りたい。一人で作っても、意味ないから」
ぱりん、と何処からかガラスが割れるような音が響く。
「雫はボクよりずっと身長が高くて、ボクがいつも見上げる立場で、撫でられる立場だった」
だから、朝の挨拶を交わした優衣より一回り小さな彼女は、本物じゃない。
「光輝が自分から早起きして学校に来たことなんて今まで一度もないし」
ひでーと苦笑しつつも、彼は否定しない。本当にどうしようもない理由だけど、彼は本物じゃない。
「香奈は香澄の気持ちを知ってから、ボクに抱きつくのを遠慮してた」
ちょっとお調子者だけど他人の気持ちを推し量れない人じゃない。だから、彼女も本物じゃない。
「鳴は影人を止めた。だからもう、みんなの前ではそんな言い方しないんじゃないかな」
彼が影人を装っていたのは弱い自分を補強する為で、今の彼にはもう必要のない物だ。だから、彼も本物じゃない。
「香澄は一番分かりにくかったけど、でもやっぱりどこか違う」
根拠もなく感覚だけだけれど、やっぱり4人からは違和感を感じずにはいられなかった。
「何より、ボクの髪は黒じゃない。悩んだりもしたけど、やっぱりボクはボクで良いんだと思う」
寝惚けていた頭が忘れていた事実を思い出す。
ここはきっと、エイワスが目指した世界なのだろう。望めば全てが叶う理想郷。
「ボクは死んだわけじゃない。世界は違うけど、ここにいる。まだ諦めたわけじゃないから、だから、戻るよ」
陶器に亀裂が走るような、細かなガラスを砕くような音が世界から溢れ、文字通り世界そのものをばらばらにしていく。
砕けていく景色の中で4人の姿が薄らいだ。割れた世界の先に広がるのは完全な闇に景色が次々と吸い込まれてはなくなっていく。
世界が完全に埋没する刹那、優衣はどこか遠くから、光輝の声を聞いた。気がした
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「ふざ、けんな」
静寂を取り戻した一室で、光輝が小さく、掠れる様な声で漏らした。
天井は一部が崩落してしまい、薄い陽の光がきらきらと舞い降りて来ている。
先ほどまで確かにあったはずの無数の星々が織り成す幻想的な光景は薄汚れ、穴が空き、ぼろぼろになった部屋の壁に変わって影も形もない。
ざり、とそこかしこに散らばった破片を砕きながら光輝が憤然と立ち上がる。
「簡単に行かせてたまるかってんだ」
血が滲んだ手を握りなおす。サラマンダから受け取った魔力の殆どは尽きてしまったが、まだ自分の魔力は残っている。
隣に伏していた香澄も同じように立ち上がって、虚空のただ一点を睨むように見ている。
「何をしてでも連れ戻す。後のことはその後考える。依存はあるか?」
鳴が虚空から大剣を引き抜くのと光輝の両手に炎が灯るのはほぼ同時だった。倣う様に香澄と香奈もそれぞれの武器を取り出す。
「もう一度境界をぶち抜く」
この場に居る誰もが同じ想いだった。それが世界にとって危険な一手だったとしても、このまま終わりになんてしたくない。
合図もせず、4人は先ほどまで開いていた穴を中心に四角形を作るように移動した。
「この場所に歪みが蓄積してるなら今のあたし達でもなんとかなるんじゃないかなー」
「出力の調整を間違えるなよ。全員全力で同じだけの力を出すんだ」
「それを四方向からぶつけて局所的な力場を発生させる」
「優衣を見つけて連れ帰れば完了だな」
それぞれの思いを胸に武器を構える。
魔法が信じる願いを叶える力だというのであれば、胸に渦巻くこの願いを叶えて見せろと。
紅の炎が、漆黒の揺らぎが、紫電の瞬きが、溢れる水面がそれぞれの中心、穴のあった場所に向かって一斉に放たれる。
4つの光は1つに溶け合い、真白な柱となって天に伸びた。
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暖かくも寒くもなく、不快とも快適ともいえない。
何もかもがあって、けれど何もかもが足りていない世界の原初。或いは、願いの叶う場所。
上も下も右も左も、どこかしこにも満天の星が煌き柔らかな光を灯しているけれど、それらは全て物質ではない概念だ。
ここには形ある物の存在が許されていない。
エレベーターが下がるような軽い浮遊感の中で優衣もまた世界に飲まれ形を失い始める。
瞳は閉じられたまま、存在が消えてしまうその時まで開く事もない。
しかし、不意に数度長い睫毛が震え、小さく身動ぎをするなり、ぱっちりと両目が開かれた。
存在を失いかけていた優衣の身体が急速に色を生み出し、世界にあるはずのない形を持前の強大な魔力が勝手に作り出す。
「おはよう。優衣」
突然聞こえた声に優衣が驚いて上を見上げると、いつの間にかまだ年若い女性が優衣を抱えるようにして立っていた。
浮遊感は既になく背中と足に廻された手からは人の温もりさえ感じられる。
「それから、ごめんなさい」
謝る女性の顔には沢山の喜びと、沢山の悲しみが混在していた。
優衣の目が見開かれて微かに震える。覚えているはずがないのに懐かしい感情がとめどなく溢れてくる。
「お母さんっ」
「ずっと会いたかったわ」
これも夢なのだろうかと、優衣は一瞬思う。けれど、その考えはすぐに否定された。
夢は見たことしか見れない。願いは知っている物しか叶えられない。
会った事もない母親に会うという夢も願いも、優衣のものではなかった。
抱きすくめられる暖かさに暫し身を任せて目を瞑る。どのくらいそうしていたのか、時間は一瞬にも永遠にも感じられた。
「本当にお疲れ様。アウローラが優衣と契約するように仕組んだのは私なの。エイワスの願いは誰かが止めないといけない。それができるのは、聖霊として生まれた優衣だけだったから」
精神世界に飲まれた母親の肉体は泡沫のように世界に飲まれたけれど、その意識だけは消えることがなかった。
この世界は願いを叶えるから。
娘への、そして娘が生きる世界への愛情は意思を持たないはずの精神世界に世界を守るという一つの概念を生み出す。
やがてエイワスが本格的に活動を初め、再び精神世界の穴を開けるに至った時、母親は穴を通じて現実世界に干渉した。
エイワスに対抗できるのは魔力をもった存在、あの場に居た8人の子どもだけ。
でも子ども達だけでは対抗手段が分からない。だからこそ、彼女は眠っていた精霊達に世界を守れという意志を与えた。
「アウローラには契約者を優衣にするっていう意思も持たせたの。エイワスはきっと優衣の力を目覚めさせようとする。その時に対抗できる力がなければ全てが終わってしまうから」
そうしてもう一度、小さく謝罪の言葉を口にした。
「辛い道を歩ませてしまってごめんなさい。でも、もうそれも……」
母親が何かを言いかけたとき、不意に轟音と共に世界が揺れた。2人が音のした方向を見上げれば、世界に1つの亀裂が生まれ、ゆっくりと広がりを見せている。
「最後の役割まで取られちゃったみたいね。優衣の世界はこっちじゃない。向こうでお友達が呼んでるわ」
どこか残念そうに、ひび割れた天井を指差して春風のような暖かい笑みを向けた。
「でも、今のまま世界に出たら……」
何もかもを壊してしまうかもしれないと言おうとした口が人差し指によって閉じられる。
「大丈夫。聖霊の力にも対処法はあるの。この世界と違って、現実世界では新しい物を生み出せるから」
優衣の耳元で母親が囁くと、どこか呆けた様子で見上げた。
母親はくすり、と今度は悪戯っぽく笑うと空に出来た亀裂を指でなぞる。
小さかった亀裂が瞬く間に広がり、綻び、やがて人が通れそうな穴に変わるとぼろぼろになった廃墟の天井が映し出された。
「優衣はちゃんと、誰かから頼られるように、誰かに頼れるようになったのね」
その穴の向こうに居た4人の顔を眩しいものでも見るかのように目を細め、しっかりと記憶に刻んでいるようだった。
優衣の名前は、元々"優依"だった。
「優」にも「依」にも人が入っているけれど、優衣は半分「人」ではない。
だから、「依」から「人」を抜いて優衣。
例え人でなくとも、誰かに優しくあり、誰かから頼られるようにと願いをこめて。
「さ、もう行きなさい。お友達を待たせるものじゃないわ」
母親が抱いていた優衣を掲げると身体が空に浮かび穴へと昇っていく。穴からは8本の腕が伸び、優衣の身体を掴むなり穴の外側へと引っ張り始める。
「待って! お母さんは、ずっとこのままなの!?」
「ええ。私はここから貴女達を見守るのが仕事だから。でもね、触れられなくともずっと傍にいるの。だから優衣は安心して現実の世界で生きなさい」
優衣が何事かを叫んで母親に手を伸ばす。けれど、母親はもうとっくに身体をなくしていた。
だからもう現実の世界で生きる事はできない。それに、彼女にはこの世界でしなければならない事がまだ残っていた。
やがて優衣の身体が境界線を越えて外へと引っ張り出される。瞬間、真っ白な光が優衣の視界を塗り潰した。
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「優衣!」
穴から引きずり出された優衣は目を瞑ったまま動くこともなく、たまらず光輝が名前を叫ぶ。
その声に呼応するかのように、つぶらな瞳がゆっくりと開かれた。
「ここ……。そっか、戻ってきたんだ」
光輝は何も答えず優衣の額を中指で思い切り弾いた。小さな悲鳴が室内に木霊する。
「何もかも一人で勝手に決めるな」
抗議の声をあげようとした優衣は光輝の顔を見るなり、困ったように笑った。
「ごめん。……あのね、あっちの世界でお母さんに会ってきた。それから、聖霊の力もどうにかできるって教えてもらった」
優衣の言葉に、4人は揃って笑顔を作る。これでもう、優衣がこの世界にいれない理由はなくなった。
「じゃあ後はこの穴を消せばいいんだよね。今度こそあたしが」
そう言って穴に近づこうとした香奈だったが鳴によって無言で襟首を掴まれる。
しかしこのまま放置もしておけない。どうした物かと穴を眺めていると、不意に人影が映った。
「初めまして、優衣がお世話になってます」
突然の登場に誰もが呆気に取られて動きを止めていた。香奈ですら鳴の高速を振り払う事を忘れている。
「ど、どうも……」
辛うじて光輝だけがおずおずと頭を下げると、境界の向こうでくすりと笑顔を漏らす。
「本当はもっと話していたのだけれど、時間がないから単刀直入に言いますね。そこにエイワスが持っていた本はありませんか?」
慌てて周囲を見渡すとエイワスが穴から落ちた場所にぽつん、と古めかしい本が落ちているのを香澄が見つけた。
「それはそちらの世界にあってはいけない。こちらに渡してもらってもいいかしら」
香澄は逡巡していたようだが一度優衣を振り返ると意を決し、本を拾い上げて穴に向かって投げる。
一瞬境界が強く歪むものの、本は跳ね返る事もなく向こう側へと届いた。
「ありがとう。エイワスに干渉されていない今なら私の方から穴は塞げるの。だから誰かが犠牲になる必要なんてないわ。それから、これは個人的なお願いなんだけど、うちの優衣はよく無茶をするから、もしもの時は止めてあげて欲しいの」
「当然止めるさ」
光輝の即答に、頷いた3人に満足げな笑みを浮かべると法の書を開く。
精神世界への干渉方法が纏められているのならばその逆、閉じ方もまた、本には書かれていた。
境界の向こうで何事かを口にすると法の書が淡い桜色の燐光を灯し始めた。同時に、開いていた精神世界の穴が少しずつ小さく変わっていく。
「待って!」
閉じていく穴を前に、優衣が飛び出そうとしたのを光輝が咄嗟に捕まえた。
ほら御覧なさいとばかりに、穴の向こうで嬉しそうに、でも少しだけ寂しそうにしていた。
「きっとそこから出られる方法を探すから!」
思いがけない優衣の言葉に、今度は何の憂いも感じていない満面の笑顔を見せた。
「楽しみにしてるわ。でも、無茶はしないように」
そうして、開いていた穴は完全に姿を消してしまった。
優衣の身体から力がぬけて、抑えていた光輝が慌てて持ち上げる。
「とにかくここから出ようぜ」
「でもさ、ここからどうやって出るのー?」
光輝と香澄、鳴は優衣が昔にあけた大穴から飛び込んだし、香奈はエイワスが作り出した不思議空間を歩いてきた。
つまり誰もここに降りてくる方法を知らない。いや、そもそも地下自体随分と前に封鎖されたのだから通じている通路があるかすら怪しい。
「この真上から出られたら一番早いんだけどねー」
見上げた空にはぽっかりと穴が空いていて、確かに地上に戻る最短ルートだろうが、如何に魔法使いとはいえ空を飛ぶことはできない。
何より優衣を除く4名はとっくに魔力が尽きていた。
「そうだね。帰ろうか」
だから茫然自失としていた優衣が突然そんな事を言ったとき、誰もが情緒に不安を抱いた。
けれど、上げられた顔はどこかすっきりとしている。
「大丈夫、きっとあそこから出すって決めたから。だから今は帰ろう」
「でもどうするよ。携帯で助けを呼ぶか? うわぁ、絶対何あったか聴かれるぞこれ。最悪逮捕フラグまで見えてきた」
ぼろぼろの地下、恐らく天井に穿たれた穴は駐車場に繋がっているのだろう。
誰も居ない時間帯でなければ被害者が出ていたかもしれない。
「結界で階段を作れば昇れるんじゃないかな。……多分」
ひとまず試してみようと段差を作るように結界を並べて踏んでみると落ちる事も踏み抜く事もなく5人分の体重を支えて見せた。
螺旋状に次々組み上げるて歩いてみると問題なく上に上がれる。……のだが。
「やべぇぇぇ! 床が見えないとか怖すぎる!」
「段差が分からないと引っかかって転んじゃいそうだよねー」
透明度100%な事が災いしてちょっとした度胸試しの様相を呈していた。
周囲も結界で囲んでいるから早々落ちる事はないとは言え、足元を見るとどうしても竦んでしまう。
「これ、落ちたら死ぬよな」
「不吉な事いわないで」
しかし強度的には十分なものがあるのか、最後まで足を踏み外したり床を踏み抜いたりする事はなかった。
「やっぱ地上万歳! 足場があるって素晴らしい!」
一番乗りで地上に駆け上がった光輝が長い階段の道程に疲れたのか、アスファルトの上でごろごろと転がる。
「でもその下って崩落しかかってる地下が広がってるんだよね」
優衣が神妙にそう告げると光輝は奇声を発して駐車場から飛び出す。
香澄は頼りにならない光輝を無視して鳴を呼び、食料品店の隅に安置していた優衣の父親を揺り起こす。
幸い怪我や後遺症らしきものはなく、大体の事情を聞くと偶々通りがかったことにして、地下の惨状を通報してくれることになった。
さすがの警察も、これが人の手によるものだとは思うまい。
ぼろぼろの服は元の服に戻ればどうにかなったが全身の泥や砂はどうにもならない。
一度それぞれの家に戻って着替えてから合流しようという鳴の意見に反対するものは誰も居なかった。
それではまた後で、そう言って分かれる間際、ふと思い出したように光輝が優衣へと尋ねる。
「そういえば、聖霊の力をどうにかするって、具体的には何をするんだ?」
「えーと、それは追々……。あ、ボクこっちだから!」
その瞬間、優衣が冷や汗を流しながら反転、逃げ出そうとするのを、光輝は咄嗟に、香奈は面白そうだからという理由で、香澄と鳴は心配して包囲する。
話したくない内容だとすれば、場合によっては重い制約があったりするのかもしれない。
だとすれば聞いておかないわけには行かなかった。
「ほらほらー、ちゃっちゃと吐いちゃった方が楽ですよー」
「また何か危ないことなのか?」
四方を囲まれた優衣に逃げ場などなく、迫る四人を前にあー、とかうー、という言葉にならない声を漏らす。
遂に逃げられないのも誤魔化すのも無理だと悟ってか、俯きながら小さく何事かを囁いた。不思議と顔はゆでだこの様に真っ赤に染まっている。
「……を作ればいいって」
「何を作るんだって?」
掠れて聞こえなかった言葉を光輝が訝しげに問いただした。
聞こえなかっただけで他意はなかったのだが、優衣はますます身を縮めたが、思いつめた様子で顔を上げるとやけくそ気味に叫んだ。
「だから、子どもを作れば遺伝して境界を壊さない程度に薄まるって!」
その内容を理解した4人が一様に固まる。
現実世界は精神世界と違って何かを生み出す事が出来る。その最たるは新しい命だろう。
生まれてくる子は親の要素である魔力をも受け継ぎ、優衣自身の魔力も薄まる。
「さ、先に帰るから!」
居た堪れなくなった優衣が家に向かって走り去るのを、今回ばかりは誰も止める事が出来なかった。
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1週間後
あれから魔物は出現しなくなり、魔法使いはその任を終えた。
サラマンダやエクリプスが居なくなった事に、光輝と鳴は一抹の寂しさを覚えていたが出会いがあれば別れもあるのだろう。
そして今日、一人の仲間との別れが行われようとしている。
まだ日が昇ってから然程時間は経っていない朝早い時間帯の国鉄の前で、優衣たち5人は揃って集まっていた。
ただ香奈だけは一人だけ重装備で、大きなキャリーケースを引いている。
「色々とごめんねー。それから、ありがとう」
香奈は元々エイワスの都合と援助でこの学校に通っていた。
今となっては援助が受けられなくなったが、彼女の両親はここに残そうと思っていたようだ。
けれど、香奈はその申し出を断って家族の元へ帰ることにした。
実家には解決しなければならない問題が色々と残っていて、今度は自分の力でどうにかする事に決めたのだ。
「優衣ちゃんの制服姿を見られなかったのは残念だけどさー」
冗談めかして笑うと、優衣はげんなり肩を落とす。
父親がどんなコネクションを使ったのか、優衣の戸籍情報の書き換えがすんなりと認められ、来週からは女子として学校に通う事が決まっている。
不安は溢れるほどあったが学校には光輝や鳴、香澄がいるからそれ程心配しているわけではなかった。
「かすみんはこれからが勝負かなー」
突然名前を呼ばれた香澄が小さく唸る。
優衣が女子として登校することを一番心配しているのは他ならぬ香澄だ。主に自分の都合で。
本当はもっといろいろな事を話していたかったが、電車の時間は待ってくれない。
「あたしもまたここに帰ってくるつもりだから、これがお別れじゃない。だからしんみりするのはなしにしよう」
そう言って、あの脱力するような笑みを浮かべる。
時間はもう出発の5分前だった。それぞれが一時の別れの挨拶を交わして、改札に消えようとする香奈を見送る。
けれど、改札にパスカードをかざす刹那、香奈は思い悩んだ様に動きを止めて、すぐ後ろに控えていた鳴に飛びついた。
「全部終わって、ここに帰ってこれてから言おうかって思ってた。でも、やっぱり今にする」
目を丸くする鳴の首に腕を廻し、そっと目を瞑ってから唇を押し当てる。
時間にして1秒程度の短い時間が、まるで何倍にも引き伸ばされたようだった。
「なるくんの初めては貰った!」
わざと明るい声を出してくるり、と綺麗に反転するとキャリーケースを引っつかみ改札の奥へ走る。
その先で振り返らずに足を止めて、香奈が言った。
「あたしはなるくんが好きでした」
後はもう、返事も聞かずに駅の中に消えていく。
「びっくりした」
香奈の背中が遠くなった事で呪縛から解放されたのか、香澄がポツリと漏らした。
優衣も光輝も鳴もきっと同意見だ。一番呆然としているのは鳴だろうか。
その背中が優衣によっていつぞやのお返しだ、とばかりに押される。
「行かなくていいの?」
鳴は暫く考えていたけれど、改札の上にぶら下がっている案内用の電光板を見るなり、何もいわずに改札を越えていく。
「ちょ、お客さん!?」
素通りしていった鳴を駅員が目を丸くして追いかけようとするが、すぐに優衣が止めに走る。
時間はもう3分くらいしかない。今邪魔をするのは余りにも無粋、というものだろう。
幸いにして駅員は事情をすんなりと飲み込んでくれたようだ。
困りますと怒ってはいたが鳴が帰ってくるまで何もせずに待っていてくれた。
平謝りの後、"多分"もうしないと告げると呆れた様子で4人を眺めていたが、どこか羨ましそうでもあった。
香奈は自分で自分の道を選んで切り開こうとしている。
そして翌日、優衣もまた自分の道を切り開かねばならない立場にあった。
朝のHRが始まっているというのに、優衣の姿は廊下にある。
普段身に着けているブレザーはそのままだったが、下に着ているのは黒のズボンではなくチェックのプリーツスカート。
頼りない感覚とこれから巻き起こるであろう一幕を考えると落ち着くことなど到底できず、廊下をぐるぐる歩き回る。
しかし時間は無常だ。そうこうしている内に、審判の瞬間とも言える優衣の名を呼ぶ声が遂に教室から聞こえてきた。
何を言えばいいのか、そもそもどういう顔をして入ればいいのか、悩みに悩んでいると中々入ってこない優衣に痺れを切らしたのか、先生がドアを開けて手招きする。
「いいから入って来い。この後授業あるんだから」
そんな無責任なと思いつつも反論する術は見つからず、こうなれば自棄だとばかりに勢いよく一歩を踏み出すのだった。
新しい世界に向かって。




