15年前の真実
暗い室内の中で香澄が懸命に戦っている姿が映し出されるのを見て、優衣はきつく唇を噛んだ。
どうにか抜け出せないかと何度も鎖を揺らす。勿論そんな行為で千切れる筈もなかったが黙っている訳には行かない。「無駄だと思うがね」
エイワスの歪んだ声が響いた。
どうしてこんなに酷い事をしてそんな笑顔を浮かべられるのかが優衣には理解できない。
近くの扉が開くと香奈も姿を現し、過ごした時間は短くとも確かに心を通わせたはずの香奈がエイワスに仕えるかのように立ち並ぶ。
「香奈、どうしてこんな…・・・」
優衣の疑問に香奈は何も答えず、変わりとばかりにエイワスが告げる。
「元から彼女は私の手駒なのだよ。学園に通っていたのも、君達と過ごしていたのも情報を集めるためだ」
「ボクは彼女に聞いているんだ!」
優衣の声に香奈が一瞬だけ俯くが、すぐにいつもの気の抜けた笑顔を見せた。
「悪いねー。全部この人の言うとおり。あたしは始めから情報を流してた。だからこれまでのあたしは全部演技」
「そんなはずない!」
すらすらと告げる言葉が優衣にはとても信じられなかった。
短い時間だったけれど、買物に行ったり学校の旅行に行ったり、勉強をしたり遊んだり。そのどれもで、彼女は心の底から笑っていた。
あれは絶対に演技などではないと、優衣は確信を持っている。
「ふむ、侵入者が別に入ったようだね。そっちを潰してきなさい。この儀式は誰にも邪魔させはしない」
香奈は優衣が何度呼び止めても躊躇う様子なく部屋から出ていった。
「どうして……」
身体中から力が抜けてだらりと垂れ下がる。知らず知らずの内に涙が零れるのを見て、エイワスは意外にも憐憫の視線を送る。
「それが人というものだ。利益のためであれば他人などどうでもいい」
「違う!」
ぎゅっと目を瞑って溢れてきた涙をせき止めると優衣はしっかりと顔を上げて叫ぶ。
「香奈は望んでそんな事をする人じゃないっ」
「分かるよ。だがそれは都合の良すぎる妄想だ。君が彼女と過ごした時間は半年にも満たないではないか。だが私は彼女ともう3年近く過ごしている。彼女はね、ああいう人間なんだよ」
エイワスの大仰な仕草も、何もかもを知っているような言い草も、全てが気に食わなかった。
過ごした時間が短かったとしても彼女は何度も笑っていた。あの笑顔が本当でなかったとは思えない。
「彼女に何をした……さもなくば脅したのか」
「私はあの娘の願いを叶えただけにすぎない」
じゃあ今までの彼女はなんだったんだと感情が吼える。
「虚像だ。君の心が作り出したありもしない偶像だよ。その証拠に、ほら、彼女は今ここに紛れ込んだ黒い虫を叩き落としに言っている。仮に私が彼女を脅しているとして、それで君は他人を殺せるかい?」
エイワスは机の上に転がっていたリモコンを取るとボタンを押す。
プロジェクターが表の香澄から別の視点に変わったのか、一人の黒い影が映された。
「鳴……!」
漆黒の大剣を片手に威風堂々と進む彼がつい最近まで震え蹲っていたなど、一体誰が想像できようか。
時折現れる魔物をただの一振りでなぎ倒していく姿は以前と何も変わらない。
やがて彼の前に大きな扉が立ち塞がる。
躊躇う事無く押し開け中に入ると、パーティー用と思われる広いフロアが広がっており、真正面の壇上に香奈が弓を携えて立っていた。
引き絞られた弦に水流が発生し矢の様に形を整えると放たれる。紛れもない香奈の全力だった。
鳴はその一撃を正面からもって迎え撃つ。黒と青の魔力がせめぎ合い会場に仕掛けられていたカメラが耐え切れずに破損し、画面は白と黒のノイズに変わった。
「香奈……」
じゃらりと鎖が音を鳴らし優衣の身体が沈みこむ。
「悲しむ必要などないのだよ」
かつん、と靴音鳴り、俯いている優衣に向かって微笑みかける。
拘束されている優衣が逃げられるはずもなく、エイワスはすぐ目の前まで近づくと顎を掴み顔を持ち上げた。
「やっとこの時がきたのだ。長かった……実に長かった。お前の母親が邪魔さえしなければ10年以上も前に計画は成就していたというのにな」
「お母さんをどうした」
優衣はとっくに、自分が雫の本当の兄でない事も、本当の両親が別に居ることも気づいていた。
だからこそ、エイワスが語った母親が本当の自分の親である事を悟る。
「君は知らないのだったな。君を作り出しこんな状況に追い込んだのは他ならぬ母親だというのに」
「出鱈目を……!」
優衣の瞳にはっきりとした憎悪と敵意が浮かび上がる。再び鎖がかき鳴らされ手首に血の跡が付いた。
「出鱈目なものか。君は何もおかしいと思わなかったのか? どうして母親は君に優衣という女性名をつけた? 何故家系に誰も居ない稀有な髪色をしている? どうして男性の時から男性らしさの欠片もない容姿をしていた? 君という存在はありえないのだよ、この世界の法則ではね」
普通、母親は息子に女性の名前をつけない。成長した姿に当てはまるとしても、赤ん坊の頃では未来の姿など分かりはしないのだから。
普通、家系にない髪色が発現することはない。
普通、男性であれば幾ら何でも第二次性徴を迎えれば女性とは別の変化が現れる。
でも優衣はそういった普通から余りにもかけ離れた成長を遂げていた。
「いいだろう、君が望むなら全ての真実を教えようじゃないか」
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回想
38年前
魔術結社の生誕
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世界には一定数の不幸なものが存在している。
まるで神の采配が如く、不幸の星の下に生まれた人間には何も与えられず、何もかもを奪われ、世界から泡沫の如く消えていく。
真面目に生活していたのに放火に合い家族を一夜にして失ったもの。
友人が借金で困っていて泣きついていたのを助けたら全てを擦り付けられたもの。
誰も信じられず絶望の淵に立たされたものであっても、同じ境遇の人間となら心を開くことが出来た。
……
「こんな事があったんだ」
「どうしていいのか……」
……
「大丈夫、まだ頑張れる」
「ありがとう、ここにきてよかったわ」
……
一定数の不幸な者はやがて定期的に集まり、日々の愚痴を話したり、飲み明かしたり、将棋や囲碁で遊ぶサークルを作り上げた。
日々の生活に擦り切れていた人に笑顔が満ちた。
そんなある日、古参の一人がこんな事を言い出した。
「なぁ、名前をつけないか? 我々の集まりに」
なんでもよかったんだ。
ただみんなで一緒に悩んで一つの名前を作り、一つの組織に属しているという一体感さえあれば。
「じゃあさ、魔術結社とかどう?(仮)とかつけてさ!」
「なんだそれ! 馬鹿馬鹿しいが、なるほど、ぴったりじゃないか!」
「魔術結社か……そういえば昔自治会の催しで手品をやったことがあってな、今度見せてやろう!」
プレハブの小屋の中で不幸な、けれど笑顔の人々が集う集会場、魔術結社(仮)はこうして生まれた。
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回想
30年前
魔道書との邂逅
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魔術結社(仮)は8年を経ても健在だった。ぼろかった建物は少しずつ大きくなり、今はビルの一室を借り切っている。
会員は増えるばかりで、名前はちょっと変わっているけれど集う人々がもたらしてくれる温もりはとても大きかった。
その日もある人はお茶を飲み、ある人は雑談し、ある人は将棋を指す、極普通の一日だった。
アルミ製の扉が激しく開いた音で、中にいた全員の視線が入り口に集まる。
そこにいたのは古参の会員の一人で、荒い息で顔を真っ赤にしていた。
どうしたの、と心配そうに声がかけられると、差し出されたお茶を一気飲みした彼は胸に抱えていた1冊の本を掲げていった。
「いやな、魔術結社ならちょっと魔術っぽいこともやってみようじゃないかと思って」
そういって差し出した、1冊の本。
法の書と呼ばれる、世界最後の魔術師、アレイスター・クロウリーが記した書籍の原典。
魔導書など見たことも聞いた事もない人たちにとって、それはいい遊び道具になった。
翻訳に勤めていたという人が和訳をした一文を前に全員で頭を合わせて意味を解釈するのだ。
いい年した大人たちがするには少し滑稽な遊びだったがまるで吸い寄せられるように夢中になる。
「Had! Nuitの霊の顕現とは何なんだろうね」
「Had!は単語にないなら、何かの名前よね」
「Nuitという単語も名前だろうか……これは結構沢山出てくるんだな」
「Had!も6番目に Be thou Haditってあるじゃない、これ、もしかしたらHad itじゃないのかしら」
解読は猛烈な勢いで進んでいった。元は暇を弄んでいたのだから当然かもしれない。
様々な解釈が生まれ、その中から整合性の取れるように話を結んでいく。
やがて現れたそれは、法の書の中で最も有名な一文、「汝の意志するところを行え。それが法の全てとならん。」を体現する物に変わる。
法の書に書かれていたのは天界の組織と呼ばれる精神世界と現実世界の間にある境界に関する知識だった。
精神世界に物理法則はない。そこにあるのは、意志であり、それが法則の全て。
願うことが現実に起こってしまう危険な空間。
Had! Nuitの霊の顕現とは即ち、この危険な空間と現実の空間を顕現させる、つまり両者を隔てている境界を破壊する為の方法だったのだ。
読めば誰もが笑い飛ばす、荒唐無稽な内容にも拘らず、彼等はどんどんのめりこんでいく。
彼等が一つの過ちを犯してしまったから。
著者であるアレイスター・クロウリーが警告した3つの不文律。
1つ。この書を学ぶことは禁じられている。最初に読んだ後に破棄する事が賢明である。
2つ。これを無視する者は自らを冒険と危険に晒すものだ。これらは最も恐ろしいものである。
3つ。本書の内容について議論する者は疫病の中心にあるが如く人々に避けられる者となるであろう。
魔導書に引きこまれた彼等は常識の概念をいとも容易く踏み越えていた。
魔導書がもたらした狂気という名の魔力は魔術結社に属する会員に次々と伝播し、やがて独自に解析した魔術の実績を始めるのにそう時間はかからない。
初めに必要なのは第三節、テーベの戦士に願いを篭め、天界の組織の片鱗がこの世に具現化することを手伝ってもらうこと。
けれどその為には純粋な疑念のない祈りが必要だった。
この世界に科学がありオカルトが否定されている以上、どうしたって人は心の底から魔法を信じられない。
だから魔術結社は世界から切り離されるように生活を始め、来る日も来る日も祈りを捧げる生活を始めたのだ。
それも全て、魔導書のもたらす魔力が故に。
魔術結社(仮)は、この時から仮ではなくなってしまったのだ。
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回想
16年前
魔術結社連続誘拐事件のおよそ1年前
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15年という長い時間を経ても、彼等は魔導書に取り込まれたままだった。
元から疎まれ、追放された人々であったが故に、愚考を止めるような人もいなかった。
気が遠くなるような時間をかけて祈りは一つの形を生み出す。
精神世界の片鱗がついに世界に出現したのだ。
それは小さな、とてつもなく小さな穴だった。けれど確かにこの世のものではない何かが世界に漏れ出してきたのだ。
こうして儀式は次の段階に移る。
法の書に書かれている内容の全てが手順というわけではない。
1節のHad! Nuitの霊の顕現は聖霊の召還方法という意味だし、
2節の天界の組織がヴェールを幕を開ける。というのは精神世界がその姿を見せるという意味だ。手順と関係があるわけではない。
彼等は法の書の15節に最も重要な意味を見出していた。
15. 人は今こそ知るのだ。選ばれし司祭にして無限の宇宙の使徒こそ、王子であり司祭たる獣であるという事を。
そして、緋色の女と呼ばれし者の内へと力は与えられた。
彼らはわが子供達を一同に集め、彼らの群れに入れるであろう。彼らは人々の心の内に星々の栄光を運び込むであろう。
彼らとは精神世界の精霊。我が子ども達というのは人間の子ども。星々の栄光は精神世界が持つ膨大な魔力。
緋色の女の体内に力が与えられた後に子ども達を集める事で精神世界への道が完全に開かれる。
そして精神世界は現実世界に運び込まれる。
与えられるべき力は"選ばれし司祭にして無限の宇宙の使徒こそ、王子であり司祭たる獣"。
ひいては精神世界が持つ願いを叶える力そのもの。それを彼等は"聖霊"と名づけた。そのために必要だったのは緋色の女。
緋色の女が比喩している物は聖母マリアだ。
ボッティチェッリの受胎告知にしろ、ラファエロの大公聖母にしろグァダルーペの聖母にしろ、赤色の衣を纏っていることが多い。
聖母マリアが意味するものは男性を必要としない処女懐胎。
その役に選ばれた女性から摘出された卵子が小さな試験管の中に入れられた。
信者はその試験管を握りしめ、精神世界の穴の中へと手を入れる。
内側の世界に身を削られる激痛や喪失感も物ともせず、何人もの手を消耗品のように使い続け聖霊よ宿れと願い続けた。
三日三晩にも及ぶ儀式の末、試験管の中の卵子は女性の身体に戻される。
こうしてかつて聖母が聖霊の子を宿したように、選ばれた女性もまた聖霊を処女懐胎したのだ。
やがて生まれる子は絶対的な魔力を持つ聖霊であり、世界の領域さえ破壊して2つの世界を融和させる。
けれど、彼等は全ての滅びを願ったわけではない。
精神世界の融和を調整する事で現実世界の物質のみを崩壊させ、人の意識という概念だけを残すことで、永遠に覚めない理想の夢に浸り続けることができると考えたのだ。
この世界には限られたりソースしかない。
人は物があるから奪う。
人は誰かがいるから争う。
虐げられるものが居ない世界を作るにはどうすればいいか。
……全ての人間の願いが叶う世界を作り上げればいい。
精神世界にはそれが出来るだけの力があった。
概念と概念は干渉することがない。
魂は肉体を持たねば他の魂と接触する事ができない。
世界は一人の夢の中という狭い範囲で個別に完結する。
夢の中では自分にとって理想の誰かを作り上げることもできる。
傷つくことも、傷つけられることもない。
虐げられることも、騙されることもない。
憎悪も絶望も苦悩も悲しみもなにもない。
寿命も病気もないし努力や運も必要ない。
それを、彼らは理想郷と呼んだのだ。
生まれた"女の子"は母親により優衣という名前が付けられ、精神世界の壁を丁度いい具合に壊せる魔力を持つまで育てられることになる。
そこでは法の書に書かれていた"わが子供達を一同に集め"の文字通り、攫われてきた7人の赤ん坊も一緒に育てられることになった。
計算の末、必要な期間は凡そ2年とされた。必然的に母親が生んだ子どもと暮らす時間はそれまでだ。
生まれた子どもが2歳を過ぎればこの世界は愛に満ち満ちた優しい世界へ生まれ変わる。
虐げられたものはもう虐げられることもなくなる。
こうして計画は誰にも知られる事なく、密かに進行して行った。
優衣の母親もまた、世界に少なくない憎しみを抱いていた。
だからこそこの魔術結社に入信し、世界を滅ぼす子を生む決意をしたのだ。
でも……母親は生まれてきた我が子を見て遍く愛を知った。
自分がどれ程狭い視野で世界を見ていたか。どれほど取り返しの付かないことをしてしまったか。
逃げるわけにもいかなかった。
魔術結社の規模は魔導書の力でかなり大掛かりになっているうえ、我が子には時限爆弾が仕掛けられたようなものだ。
既に魔法の力の片鱗を見せ始めた赤ん坊は成長するにつれ聖霊の力が定着し、膨大な魔力をその身に宿す。
そうなったら最後、力の奔流が制御できずに漏れ出し精神世界の境界を破壊してしまう。
母親は決心する。娘だけは絶対に守って見せると。
その為にはどうしても聖霊の力を封印する必要があった。
優衣が2歳になり、いよいよ融和の儀式が始まったその時。
漏れ出した魔力の奔流が兼ねてより作り出された精神世界の壁を大きく広げるなり、母親は自らの身を精神世界に投じた。
何の力も持たない母親が現実世界で出来ることなんて何もない。
でも、そんな母親でも唯一何かを出来る場所があった。
願いの叶う、精神世界の内側。
入ればどうなるか分からない。少なくとも形を失うことは間違いないだろう。
だが自分の命などどうでもよかった。娘さえ守れれば何を捨てても構わない。
母親は文字通り身を削られる様な激痛の中であっても、優衣の聖霊の力を封じることだけを強く強く念じる。
精神世界はその願いを叶え、姿形はそのままで優衣の性別だけが"男性"に書き換わった。
同時に宿っていた聖霊の力は体の奥底に封印されることになる。
驚愕に彩られる祈祷者たちの前で姿を変えた優衣に届かなくとも温かい眼差しを送り、母親は最後の力を振り絞って開いてしまった精神世界の壁を内側から干渉できないように閉じた。
直後、予め連絡を入れておいた警察が魔術結社のビルに突入し、誘拐された7人の子どもと生まれた1人の、合計8人の子どもを保護したのだ。




