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現世の魔法使い  作者: yuki
第二章
37/56

始動

 今日も遅くまで話し込んでしまった優衣、光輝、影人の3人はすっかり陽が落ちた斜面をゆっくりとした足取りで下っていた。

 電灯が等間隔につけられてはいるものの、光量は少なく足元は薄暗い。

 もう生徒はとっくに下校しているのか姿は見えなかったが、カーブを曲がった先にふと道を昇ってくる人影が見えた。

 物珍しさに声を上げた光輝につられて見てみれば、白髪交じりの髪をオールバックにした、老人と言っても差し支えない年齢の男性が急な坂道をゆったりとしたペースで登っている。

「あれ……あの人ってこの間の旅行先の」

 街灯に薄く照らされた姿を見てこの間の旅行先で見かけた老紳士ではないか、と優衣が口にする。

 暗くてよく見えなかったが、電灯の真下まで移動した時に照らし出された顔は紛れもなく本人だ。

「こんばんは」

 3人が近づいて声をかけると彼はいつか見たものと同じ柔和な笑みを浮かべてみせる。

「これはどうも。こんばんは。……おや、君は確かあの時の」

 老紳士もまた優衣達3人の事をしっかりと覚えていたらしい。驚いた顔をして偶然の出会いを喜んでいるようだ。

「こんな所でどうしたんですか?」

 この近辺は学生以外殆ど誰も通らない。

 この道にしたって学園までしか続いておらず、山を登るならもっと別の道を行かなければならない。

 その上、こんな陽も落ちた夕方、もしくは夜とも言える時間から登るのは幾ら小さな山といえど危険が伴うだろう。

「この間の山登りの時に君達の学校の忘れ物を拾いましてな。暇をもてあますあまり、こうして届けに馳せ参じるのも一興かと」

 そんな心配を見て取ったのか、背負っている鞄を指差して見せる。

「その為にここまで? 人が良いというか何と言うか」

「なに、旅行も兼ねてますから、老人の道楽ですよ。では君達も気をつけて」

 そう言って手を振るとえっちらおっちら坂を上がって行った。

「しかし今時珍しく奔放なお爺さんだよな」

 光輝の言葉に優衣も頷くが、その隣を歩く影人だけは老人の後姿が見えなくなったのを確認してから低い声を出す。

「奇怪だな。あの場はこの学校以外も居た筈だ。ロスト・アイテムの特定などできるのか?」

「この学校の生徒が落とすのを見たとかじゃねーの?」

 ロストアイテムに笑いつつ、光輝が浮かんだ考えを口にする。

「ならばその時に渡せばいい」

 だが影人の言うとおり、見たのならばその時に返せばいい。

「学校の名前があったのかもしれないよ。生徒の落とし物って言うより、先生の忘れ物かも」

「そういわれると返す言葉はないが、な」

 優衣の言葉に頷きはしつつもまだ何かが引っかかっているらしく考え込むような仕草をしてみせる。

「何をそんなに疑っているんだ?」

「優衣を見る目がどことなく怪しい、気がした」

 突然な言葉に優衣が呆気に取られている傍ら、光輝は腹を抱えて笑い出すと影人はふんっと鼻を鳴らして視線をそらした。

「まぁあれじゃね? 孫を見る爺さんの目とかだよ」



「それじゃ、また明日ね」

「よき眠りを」

 坂を降りきって暫く進むと影人とは方向が違うので分かれることになる。

 短い挨拶を交わした後、影人を見送ってから残った2人は自転車に乗ってすいすいと家路に向かう。

「んじゃまたなー」

 光輝との分かれ道はすぐ近くだ。器用に後ろを向きながら手を振る光輝に声を返しながら優衣は自宅へと向かった。

 当番の夕飯の準備を終えてから雫がお風呂に浸かっている間、気づかれないように父親の書斎に入るとまた資料を探り始める。

 ひとまず片っ端からぱらぱらと捲ってそれらしい単語がないかを調べるのだが、オカルトの棚を過ぎたあたりから関係ない記事が増え始めてしまった。

 何もこの棚全てが例の誘拐事件の資料というわけではないのだから仕方がないのだが、これでは埒が明かない。

「やっぱり、お父さんが持って行ったファイルが一番怪しいんだけど……」

 家にいない今、というより家にいたとしても見せてくれるかは怪しい。

 そろそろ雫もお風呂から上がる頃だ。これで最後にしようと手に取った大学ノートを開くと、これも余り関係のなさそうなものだった。

 一応最後までぱらぱらと捲ったのだが、途中の一ページから1枚の紙が零れ落ちる。

 挟まっていたのか、千切れかかっていたのか、くるくると舞ってからふわりと床に落ちた紙切れを拾うと、小さく名前らしきものが書いてあった。

 殆ど興味なんてなかったのだが、春原光輝という文字が優衣の視界に止まり、思わずまじまじと眺める。

「なんだろう、これ」

 書いてある名前は7つ。春原光輝、一之瀬香澄。これはまだいい。二人ともお父さんと面識のある相手だからだ。

 神無月鳴、菅原香奈。これについても、まだいいのかもしれない。クラスメートではあるのだし。

 問題はその後に続く3つの知らない名前だ。

 誰だろうかと記憶を漁っても該当する名前はない。けれどそんな事もあるかもしれない。だからこれもまだいい。

 一番の問題はノートの端に書かれている日付だった。

 既に馴染み深いものとなってしまった13年前の物。それも、あの誘拐事件からそう遠くない日付だった。

 7人の名前と聞いて真っ先に思い浮かぶのは誘拐された赤ん坊の人数だ。

「まさか、ね」

 紙切れをノートに戻すのとほぼ同時に、遠くでドアの開く音が聞こえた。慌てて本棚にノートをしまい部屋から出てリビングに向かうと雫がお風呂上りに牛乳を飲んでいた。

「なんかまた身長に差がつく気がする……」

 現実的には牛乳を幾ら飲んだところで身長は伸びたりしない。

 小学生から毎日牛乳を飲み続けた結果が今の優衣の身長だ。対して余り飲まない雫が今の身長なのだ。

 恨みがまし気な優衣の独白は雫に聞こえていなかったのか、不思議そうな顔をするだけだった。

 

 

 

 □□□□□□□□□□□□□□□

 

 

 

 男はじっと、暗がりに浮かぶ月を一人眺めていた。

 傍から見れば寂しげな情景だというのに男の目に浮かんでいるのは例えようのない歓喜と自愛に満ちた笑み。

 山の中にあるこの場所は人がいなくなると夜の帳に包まれる。遥か高みから陽の光を反射して煌く月光だけが唯一の光源だった。

 耳を澄まさずとも虫の音がせわしなく聞こえ、静寂の中に木霊する事でうるさい位に響いている。

 もしかしたらこの場所が昼、本来の目的で使われているときよりも騒々しいのかもしれない。

「時は満ちつつある」

 男の口から誰かに聞かせるものではなく、感極まることで勝手に言葉が漏れた。

「ようやくここまで育ったのだ」

 胸に掻き抱いていた本を月光の光を浴びさせるように持ち上げ掲げる。

「あれから13年。まさかこのような形で置き土産が役に立つとは」

 はらり、と本のページが独りでに捲くられた。風があるわけでも、男が動かしているわけでもない。

「最後の準備を始めるとしようか」

 まるで本そのものが意識を持っているかのように不気味に鳴動を始めると徐々に空間の一部が歪みを見せる。

「もう少しだ。あともう少しで理想が手に入る」

 星空が手に届きそうなほど近くに開く。歪みを見せた空間はまるで宇宙とこの場所を繋げたかのような穴に変わり、男の前で20センチほどの穴を開ける。

 満足げにできた物を見ると掲げていた本を下げ、冒頭の部分から声に出し朗々と語り始める。

 男の声に気づくものは誰も居ない。

 朝焼けが見える頃まで続けられた独りきりの朗読の後、空いていたはずの穴は影も形もなくなっていた。

 

 

 □□□□□□□□□□□□□□□

 

 

 朝、通いなれた通学路に自転車を走らせる優衣は昨日見た紙の内容を話すべきかずっと悩んでいた。

 もしあれが本当に誘拐された人間の名前を調べたものだとすれば光輝も影人も香奈も香澄も被害者という事になる。

 本人が知っているのか分からないし、ねぇ、昔の誘拐事件の被害者なの? と聞くことは躊躇われる。

(やっぱりやめておこう)

 今調べるべきは手がかりになりそうな犯人の現状を知ることで、被害者のことを詮索することじゃない。

 救出された時に2歳だった被害者が何かを覚えているとも思えない。

 

「おはよう」

 教室に入るとまだ早い時間だというのに萌以外の4人が勢揃いしていた。

 だからといって他に生徒がいるわけではなく、教室の中はいやにガランとしている。

「おはよ」

 真っ先に優衣に気づいた香澄が笑顔で声をかけると、他の3人も次々に声をかける。

 香奈が後ろに回って飛びつくのもお約束。香澄がそれを防ごうとするのもお約束。

 でもそんなお約束の景色が、今日はずれた。

「甘いよかすみん! あたしだって日々進化してるんだからっ」

 香奈はブロックを決めに掛かった香澄にフェイントをかけてから身体をかがめて逆方向にステップを決める……のだが、上履きは急激な制動に耐えられず足が滑った。

 体勢を崩した香奈に香澄が目を丸くして助けようと手を伸ばすが体格差もあって支えきれず香澄も体勢を崩す。

 近くに居た優衣は慌てて助け起そうと手を伸ばしたのだが、既に傾いてしまった勢いを留めることができず、巻き込まれる形で一緒に倒れる。

 せめて香澄が地面に付かないよう、背中に回りこんでクッションになろうとしたのだが、香澄もこのままでは優衣を押し潰してしまいそうになるのに気付いて咄嗟に地面へ手を伸ばした。

 その手が、バランスを崩し地面ではなく優衣の胸に向かう。

 まずい、と思う間もなかった。どさりと音を立てて倒れこんだ香澄の手は優衣の胸をしっかりと触れて、あってはならない感覚を伝えてしまっている。

「どう、いうこと……?」

 信じられないといった様子の彼女に、優衣は何も答えられず視線を逸らした。

 香澄が目を見開いて、何度か手を動かすと優衣の顔に朱が走る。

 香澄の顔からあらゆる色が消え失せたと思った瞬間、おもむろにシャツのボタンを外しにかかった。

「ちょっ、香澄、待て!」

 光輝が止めにかかるがそこへすっと香奈が割り込む。

「いや、なんかちょっと面白い展開になってきたなー、と」

 場違いなほど柔らかく笑う彼女に光輝は思わず舌打ちする。今はそんな事態ではないが、香奈に説明する術は思い浮かばない。

「影人、止めろ!」

 光輝が言うよりも僅かに早く、硬直していた影人が香澄に向かう。だが生まれた僅かな時間は致命的だった。

「なんで……どうして……?」

 シャツと肌着を無理矢理に捲くり"見て"しまった香澄が呆然とした様子で掠れた声を出す。

 香澄の変わり様に驚いた香奈も押し倒されている優衣を見て小さく声を上げた。

「あの、これは」

 優衣が何かを言い出すよりも早く、香澄は躊躇うこともなく優衣の下半身に手を伸ばし、奇妙な悲鳴が漏れるのも構わずに探り始める。

 でも香澄にとってあるはずのものがない。

「あー、あのな、優衣は別に……」

「光輝は黙っててよッ!」

 とりなそうとした光輝に向けて香澄が叫んだ。

 どこか淡々としているいつもの彼女からは想像もできない、色濃い悲痛に彩られた声にさしもの光輝もかける言葉を失った。

「初めから、女の子だったの……?」

「違う。信じられないかもしれないけど、こうなったのはつい最近」

 捲れた肌着とはだけられたシャツを掻き合せながら身を捩ると香澄が僅かに身を引く。

「どういうことなのか、ちゃんと話して」

 真っ直ぐ目を見て問い詰める香澄とは裏腹に、優衣は視線をそらすことしかできなかった。

 話していいものかどうか、判断がつかない。隠し通すことはもうできないけれど、決心がつかなかった。

「エクリプス、でてこい」

 何も言えない優衣の代わりに影人は躊躇することもなく精霊を呼びつけると、現実にあるはずのない青い兎が姿を現し、香澄の前で跳ねた。

『いいのか。ただの人の前で呼び出すなど、お前が一番嫌う行為だろう』

 香奈も香澄も突然現れた上に人の言葉を話し始めたエクリプスを見て声を失っていた。

「これ以上隠し続けるのは不誠実だろう。光輝もそれでいいか」

 真面目に話す影人に驚きつつも光輝が一度頷く。

「人が来るとまずい。現状近くに誰も居ないが、優衣は服を治せ、香澄も一度離れたほうがいい」

 ゆっくりとした動作で離れた香澄が未だ信じられないと言った様子で兎と優衣を見比べている。

「何から話すべきか……そうだな、まずは」

「ボクが話すよ」

 事のあらましを語り始めようとした影人を優衣はやんわりと止めた。

 こうなった原因が自分になるのならば語るのは自分の役目だと思ったからだ。そして香澄もそれを望んでいる。

 優衣は覚悟を決めて、涙で潤んでいる香澄の目をじっと見つめた。


 魔法使いという存在になったこと。その過程で性別が変わってしまったこと。光輝や影人も同じ魔法使いだということ。

 数分ほどに短く纏められては居たが今まであったことを包み隠さず話す。

 香澄は終始驚いていたけれど、エクリプスを見れば納得せざるを得ない。

「ごめんね、今まで黙ってて。ばれてから言うなんて卑怯だとは思ってる」

 香澄は俯きながら呆然と立ち尽くしていた。

 光輝や影人は同じ魔術師だったから受け入れられただけで、関係のない一般人から見ればこうなってしまうのは無理もない。

「……なんで」

 彼女がポツリと小さく漏らした。

 一瞬だけ、目の前に立つ優衣の顔が見ていて痛々しいほど悲しそうに歪むが、優衣はそれをすぐに引っ込めた。

 悲しむ権利なんてありはしない。

「っ!」

 香澄が3人から逃げ出すように走り去ろうとするのが分かって優衣の口元が微かに動くが言葉にはならなかった。

 反転する時にちらりと見えてしまった彼女の顔は受け入れられない現実を憎んで涙に濡れていた。廊下を駆ける上履きの音が遠退いていく。

 我慢していた何かが限界を迎えたのか、優衣がその場にへたり込む。

「あはっ……普通そうなるよね。何から何まで異常だしさ」

 光輝に向けられた優衣の顔は酷いものだった。後悔と悲しみと自嘲の笑みが織り交ざって光輝でさえ視線を逸らす。

「ややこしいな」

 だが影人だけは優衣と去って行った香澄を見て気難しい声を一つ漏らしただけだった。

「優衣、追いかけなくていいのか」

 影人が今にも泣きそうな優衣に向かっていつになく真剣な口調で告げる。

 常に潜んでいたはずの厨二病は微塵も見受けられない。でも、その言葉は残酷に過ぎる。

「行けるわけ、ないよ……」

「どうしてだ」

 だが優衣の当然というべき台詞に影人は苛立っていた。口調には微かに険が増す。

「だって香澄は……」

 受け入れてくれなかった、という言葉は喉にかかって声にならない。

 それをみた影人はますます面倒そうに溜息をつく。

「香澄にも問題はあるけどな、だからといって優衣の行動も目に余る」

「お前……っ!」

 優衣を攻める言葉に光輝が詰め寄ったが影人は苛立ちを含んだ冷めた口調で言い切る。

「別に香澄はお前を否定したわけじゃない」

 俯いていた優衣の顔が僅かに上向いて影人をじっと見据える。

「メイド喫茶のお遊びで負けた香澄は何を頼んだ。それがどういう意味だったのか、本気で分からないのか?……俺は先に行ってる」

 呆気にとられる3人を残して影人は一人教室を出る。続く人影はなかった。

 

 

 

 □□□□□□□□□□□□

 

 

 

 目を閉じて簡単な探知魔法を使い、人の居場所を検知する。どれが香澄なのかはがむしゃらに走っているかはすぐに分かった。

 屋上に向かっているのを確認してから影人も走って後を追う。

 階段を駆け上がれば屋上に続くドアは閉まっておらず、微かに開いたままになっていた。

 場違いなほど底抜けに明るい天気が燦燦と陽光を降り注ぎ目を開けているのが辛いほど眩しい。

「よう」

 入り口からすぐ近く、迫り出したコンクリートの上で香澄は座っていた。

 隣に腰を下ろしても逃げる気配はない。元より香澄は魔法使いを忌避したわけではないのだから当然と言えば当然だろう。

 影人はどう話しかけるべきか逡巡したが、下手に回りくどくしない方がいいだろうと率直に言う。

「男の優衣しか好きになれないのか?」

 香澄は辛そうに拳を握った後小さく声を漏らす。

「だって……」

 それきりまた言葉を噤んでしまった。それならそれでいいかと、影人も追求することはなくのんびりと空を眺める。

 朝の予鈴がなっても香澄は動かない。影人も同じように隣で座ったまま動かなかった。

「優衣の隣にはいつだって光輝がいた」

 優衣と香澄が出会うのは光輝よりもう少し後だ。その頃にはもう生まれながらの友の様に2人は気心知れた仲だった。

 あの2人付き合ってるんじゃないか、そんな噂さえ流れるほどに。

 勿論、そんな事実はどこにもなかったが、元より友人と呼べる相手が居なかった2人にとって初めてできた親友は本当に大切なものだった。

「初めて優衣に会った時、自分から話しかけられなかった。誰にでも優しくて滅多に居ないくらいのいい子なのに、外見でどこか線を引いた私が居た。それがなくなったのは優衣に助けてもらってから。それで都合よく好きになった」

「そうか」

 訥々と語り始めた香澄に影人はそっけない返事を返す。

「光輝と優衣は本当に仲が良かったけど、光輝は男の子で、優衣も男の子で、私は女の子だったから、まだ可能性はあるんだって、光輝に勝てるってずっと思ってきた」

 初めは遠くから。光輝とのやり取りで間接的に、そして今は光輝を介さずとも話しかけるようになって、香澄は少しずつ優衣に近づいて言った。

 他人から見ればスローペースだったかもしれないけれど、香澄にとってはこれでも精一杯だった。

 そしてやっと、口実を作って名前で呼び合える関係にまで発展した。

 これがどれ程嬉しかったことか、知る人は少ない。

「……でも、優衣が女の子になったら全部変わっちゃう。隣に光輝がいてもおかしくなくなっちゃう! そしたら私なんかにもう勝ち目なんてない!」

 叫び声と一緒に香澄の瞳から大粒の涙が幾つも零れた。

 likeとloveは違うけれど良く似ている。この二つが変わるには殆どの場合性別の違いが必要になる。

 今まで親友だった相手が突然女の子になって、好き合うままならどうなるんだろうか。

「光輝はね、優衣を見ても私と違って線なんて引かなかった。馬鹿でむかつくけど真っ直ぐなところとか、私じゃ追いつけない。光輝はまだ気付いてないだけで、もし優衣を女の子として見始めたら絶対に好きになる。そしたらあいつは躊躇とかしない。くだらない常識なんて馬鹿だから考えない。そしたら、優衣はきっと光輝を受け入れる。拒絶する理由なんて性別しかない」

 優衣はまだ自分の事を男と認識しているし、光輝も性別が変わった苦労してる男友達としか見ていない。

 でも変わってしまったものはどうしようもないくらい大きい。光輝だっていつか優衣を男として見れなくなる。

「今回だってやっぱり光輝と優衣は一緒で、繋がってて、私だけは蚊帳の外。自分の事ばかりで悩んでたことにも気づけなかった。そんな私が勝てるわけないよ。選んでくれるはず、ないよ」

 尻すぼみに消えた言葉を聞き届けて影人は香澄を真っ直ぐに見た。

「なら諦めるのか?」

「諦められるわけない!」

 返ってきたのは力強い叫び声だ。もしかしたらグラウンドにまで聞こえたかもしれない。

「だったら初めから答えなんて決まってるだろう。お前はどうしたいんだ? あいつの心を抉ってそこにずっと残っていたいのか?」

「そんなわけない!」

「なら、後は当事者同士で決めるがいい。……遅かったな」

 影人が立ち上がった瞬間、屋上の入り口から優衣と光輝と香奈が雪崩れ込んできた。

「今の……全部聞いてた?」

 顔を蒼白にして香澄が3人を見るが、何のことだとばかりに不思議そうな顔をする。

「大丈夫だ。俺が保障する、何も聞いちゃいない。偶然が重なっただけだ」

「何が偶然だよ。屋上前に結界仕込んだのは影人だろ? 全然解除されねぇし、ぶち破るかマジで悩んだぞ」

「先生の見回りが来そうで大変だったんだから」

 とっくに授業が始まってる時間に見つかればお小言は避けられないし、香澄に会うこともできなくなる。

「気付いたな?」

 影人の言葉に優衣は一度浅く頷いた。そのまま香澄の前まで近づく。

「俺達は向こうに行ってる」

 影人はそういうとあからさまに残念そうな顔をする香奈と光輝を伴って屋上のドアの向こうに消えた。

 

 

 2人の間に微妙な空気が流れるが、立ち上がった香澄が先に口を開く。

「さっきはごめんなさい。優衣を怖いと思ったとか、そういうのじゃないの。私が怖かったのは自分の事だから」

 優衣はそれを黙って聞いていた。それからぐっと覚悟を決めたように、香澄は先を続ける。

「私は優衣の事が好き。性別なんてどっちだっていい。確かにきっかけは男の子だったからかもしれないけど、今は違う。私は優衣の事が好きなの」

 優衣は驚くこともなく、嬉しそうに、けれどどこか寂しそうに笑う。

「あの、ボクは……」

 返す言葉はとっくに決まっていた。

「分かってる。でも決めたの、諦めないって。優衣から好きだって言ってくれるようになるくらい頑張るから。だから聞きたくない」

 優衣が用意していた言葉はごめんなさいだ。

 香澄が嫌いなわけじゃない。どちらかと問われれば好きと答えられる。誰かと付き合うことにも人並み程度の興味はある。

 人と付き合うのに資格が必要なのかはわからないけれど、優衣は自分にそれがないと思っていた。

 考えてみれば思い当たる節はあった筈なのに気付くこともなくただ受け流していた。

 色々と大変な事が重なったとしても言い訳にはならない。

 この先大変なことが沢山あるかもしれないのに、その時に相手のことを考えられないのなら幸せにはなれない。

「授業に戻ろう」

 涙を拭いて笑う香澄はそう言って階段へ歩いて言った。

 けれど、その香澄の姿が、突然黒い影に覆われた。

「なにこれっ!?」

 優衣の絶叫に屋上踊り場で待っていた光輝と影人が飛び出してきた。

 目の前に黒い球体が瞬く間に形成されゆっくりと中心に向かって収縮していくのを見て誰もが驚愕に固まる。

『馬鹿な……! 光輝、上だ!』

 いつのまにか顕現していたサラマンダが小さな足で必死に上を指差す。

 何事かと見上げれば、そこには形容できない異質な穴が空いていた。

 空に浮かんでぽっかりと開いた穴の向こうは宇宙の様な無数の星らしき煌きさえ見える。

「なんだよ、これは」

 光輝も影人も、無関係の香奈さえも少しも動くことができない中、優衣だけは単身香澄を覆う黒い球体に突貫した。

 闇、或いは影を圧縮したような球体に手が触れた瞬間、身体を突き抜ける圧倒的な衝撃とともに小さな体躯がいとも簡単に壁まで吹き飛ばされ鈍い音を立てた後に崩れ落ちる。

「優衣っ」

 光輝が叫び声と共に駆け寄るが助けを貸すよりも早くよろよろと立ち上がった。

 普段は穏やかな目線が黒い球体をしっかりと睨みつけて怒りや憎悪といった感情を溢れさせている。

『光輝、影人でもいい、優衣を気絶させろ、急げ!』

 先に動いたのはより近くに居た光輝ではなく、駆けつけた影人だった。何かの魔法を発動させた瞬間、優衣の肢体から力が抜けてくたりと蹲る。

『あれが精神世界の穴だ。だがあまりにも大きすぎる……。強い感情、特に負の感情は絶対に抱くな、何が起こるかわからん』

「穴は後回しだ。香澄がまだあの球体の中に居る。闇より這いいずる絶望よ、世界を食らえ」

 契約文言の発動と共に、影人の服装が瞬時に切り替わる。

 何もない空間に真っ黒な穴が空き、手を突っ込んでから引き抜くと身長近い大剣がずるりと這い出てきた。

「想いを炎に 願いを糧に」

 それを見た光輝もまた契約文言によって姿を変える。

「どうする、下手に攻撃できねぇぞ。それから香奈、ちょっと下がってろ!」

 光輝が後ろにいる一般人の香奈へ警告するが、香奈は目を閉じて動く気配がなかった。

 一度踊り場まで押し込むかと光輝が一歩近づいた瞬間、香奈の目が開く。

「渇望を潤す たゆたう水面」

 刹那、香奈が身に纏っていた制服もまた姿を変えた。こればかりは2人も絶句するしかない。

「前を見て、かすみんを助けるのが一番先」

 普段のどこか間延びした口調は欠片もない。光輝と影人もその言葉に頷き前に向き直った。

 球体は刻一刻と範囲を狭め、やがて中にいた香澄のシルエットそのものに変わる。

 刹那、出来上がった人影が跳ねた。

 

 目で視認するのすら難しい速度のなりふり構わない突進を、影人はどうにか大剣の腹で受け止める。

 本来ならば相手の攻撃が止まったこの瞬間に連携して倒すのが定石だが、中に香澄を取り込まれたままでは一切の攻撃ができない。

 光輝も香奈も動きの止まった隙だらけの魔物を見ながら苦い表情を隠せなかった。

「せめて優衣の結界で閉じ込められりゃまた違うんだろうけどな……」

 床で気を失っている優衣はエクリプスとサラマンダが共同で結界を展開し守りを固めている。

『取り込まれたその娘の感情に取り付いているのだ。何故だ、ここまで近くにどうして穴が開いている!』

 香澄の吐き出した嘆き、悲しみ、諦観は膨大な量だった。それが突然近くに開いた穴によって魔物を生み出した。

 魔物は感情の発露である香澄を取り込んでより強大な存在に変わろうとしている。

「どうしろってんだよ……!」

 今度は光輝に向けて振りぬかれた強靭な一撃をどうにか防ぐものの、衝撃は殺しきれずに幾らか抜けてくる。

「今はこいつを外に逃がさないことを優先して動くぞ」

 戦闘するには狭い屋上で円形になって魔物を囲む。ぐるり、と身体を回して3人を眺めた魔物は香奈に向かって再び突っ込んだ。

 硬いものを殴ったような衝撃音の後に水飛沫が飛び散る。

 圧縮された水で作られた盾を作り出した香奈だったが、顔をしかめているのを見る限り光輝と同じように防ぎきれているわけではない。

「あんまり長い間は耐えられないかも」

 その言葉に光輝と影人は奥歯をかみ締める。彼等もまた、長時間持ちこたえるは出来そうになかった。

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