翌朝の一幕
翌朝、優衣を夢の中から引き上げたのはいつものけたたましいアラームではなく、手の平に握られた携帯の僅かな振動だった。
寝ぼけ眼でディスプレイに表示されている名前を読み取った瞬間、まどろみの中に埋もれていた意識が一瞬で覚醒する。
慌てて通話ボタンを押すとノイズの向こうから聞きなれた声が伝わってきた。
「もしもし、優衣かな?」
紛れもない父親の肉声に安堵の息が零れる。やはり昨日は何か理由があって電話に出れなかったのだ。
「どうかしたのかい?」
何十件もメールや電話をしたせいか、父親の声色には優衣を案じる様子が色濃く浮かんでいる。
途端に昨日の狼狽振りが気恥ずかしくなって、電話の向こうに気取られないように一呼吸おいてから答えた。
「ちょっと聞きたいことがあっただけで変わりはないよ。昨日は遅かったの? ちょっと心配した」
「ちょっと人と会っててね、携帯を確認できなかったんだ。それで、聞きたいことって何かな」
すまなそうな口調にはじっとりと疲れが浮かんでいる。
昨日は寝てないのかもしれないと思った優衣は早めに本題を切り出して寝かせてあげる事にした。
「もしかして、お父さんが調べてるのって15年前の誘拐事件について?」
「……資料を見たのかい?」
「ちらっと表紙が見えただけだけど」
思わずどきりとしてしまうほど、真剣で重たい父親の声に慌てて否定する。
「そうか。ならいいんだ。」
すると電話口からはあからさまな安堵の声が漏れてきた。
一体何が書いてあるのか気になりはしたが、今はそれよりももっと大事なことがある。
「お父さん、その誘拐事件の計画者って言われてて、3年前に釈放された磯野宝治っていう人の事、何か知らない?」
優衣にしてみれば逸る気持ちで軽く尋ねたつもりだったのだが、答えは帰ってこない。
思い出しているという雰囲気ではなく、明らかにその言葉に反応し硬直しているようだった。
「お父さん……?」
「それは調べるな。絶対に関わるんじゃない、いいね?」
焦れた優衣が父親を呼ぶと、先ほど資料を見たか聞かれた時よりもさらに真剣さの増した声が静かに響いて、あたかも冷たい刃物を押し当てられたような感覚が身を包む。
元から朗らかな性格をしている父親は滅多な事ではこんな言い方をしない。
そこに一体何があるのかと気になって理由を尋ねる。
「どうして?」
「興味本位で首を突っ込むような話題じゃないからね。優衣こそ7人も新生児を攫った犯人のことなんて聞いてどうするつもりなんだい?」
すらすらと答える父親に、今度は優衣が言葉を詰まらせる番だった。
興味本位で調べると言って教えてくれるわけがないし、理由を説明して信じてもらえるはずもない。
結局押し黙ることしか出来ず、少し寝るからと告げた父親によって電話は切られてしまった。
(お父さんは何かを掴んでる)
父親の口から情報を引き出す事は出来なかったが、父親の態度から何かを隠していることは感じ取れる。
確かに子どもが深く関わるべき事件ではないのかもしれないが、この町では有名な事件なだけあって話の種になることは多い。
絶対に関わるんじゃないと強く言い切れるだけの何かを掴んでいるのではないかという疑念が膨れ上がった。
もし本当に15年前の事件の首謀者が今回の犯人だとすれば、とてつもなく危険な領域に踏み込もうとしているのかもしれない。
絶対に関わるなといいたいのは、寧ろ優衣の方だった。
だけどそれを主張したところで聞き届けてはくれないだろう。
時計を見るとまた朝の5時を少し過ぎたくらいで、隣で手を握ってぐっすりと寝入っている雫が起きる気配はない。
暖かな温もりが伝わってくる、自分よりも少し大きな手を起こさないよう細心の注意を払ってほどくと静かにベッドから這い出る。
音を立てないように足音を殺してドアを開けると、一度だけ雫を振り返ってから部屋を後にした。
優衣が向かったのは父親の仕事部屋だ。
先日の資料は持ち出している可能性が高いが、それ以外に手がかりになるような物が残っているかもしれない。
本来ならこんな事をすべきではないと思ってはいるのだが、被害が出てからでは遅いのだ。
心の中で謝ってから部屋をぐるっと見て本棚に入っている資料を端から軽く眺めて関係がありそうなものを探していく。
しかし切り取った新聞のバインダーや集めたと思われる資料はあまりにも膨大で、数時間で全てを調べきれる量ではない。
1時間ほど中身を調べ続けたが本棚一つ分も終わらなかった。
「あ、れこ、調べてくれてるんだ……」
特に興味を引いたのは一角に纏められていた性転換に関する資料の一覧だった。
中には今から30年近い昔の資料まであって、思わず苦笑が零れる。
「あれ……、でもこれって……」
何十という資料を片っ端から調べていてふと気付いたのだが、どの資料も今から10年以上前の物しかない。
こういうのは普通現在から調べるんじゃないだろうかと疑問に思いながらも最後まで調べたが、やはり10年以上前の物しか残っていなかった。
年代順にまとめていて、新しいものはどこか別の本棚にあるのだろうか。
次の段に移ると先ほどまでの記事とは明らかに毛色の違う、オカルトや心霊現象、超自然現象といった事件や組織に関する資料がぎっしりと詰まっていた。
日付を見るとまとめたのは12年ほど前らしい。例の魔術結社誘拐事件に関連して同じような事件を調べていたのだろう。
中には色々な魔術書の解説が行われている資料なんて物もある。
ネクロノミコン・法の書・ソロモンの鍵・赤い竜など、聞いた事もない本の名前が大量に羅列されていた。
だがこれらも15年前の事件を直接的に調べた資料ではない。
嘆息と共に棚に本を戻して時計を見れば針はとっくに6時を廻っている。今日の探索はここまでにして、優衣はひとまず自分の部屋に戻った。
寝ている雫を起こさないと何を言われるか分かったものではないからだ。
「おかえり」
ところが自室に戻った優衣が見たのは酷く冷たい目をした雫の姿だった。
「ただ、いま」
冷や汗を流す優衣を凝視する目は半眼で、寝ぼけてそうなっている訳ではなく怒りから来るもののようだ。珍しくかなり本気で怒っている。
「朝起きたら私一人だった」
優衣から気まずい呻き声が漏れた。
だからこそ起き出す前に部屋に戻ろうとしたのだが雫の方が少しだけ早かったらしい。
「ちょっとトイレに……」
必死に誤魔化そうと言葉を濁したのだが、
「30分も?」
微塵も表情を変えることなく間髪いれずに聞き返した一言で、再び押し黙るしかなくなった。
それっきり雫は何も言わず、けれど視線を外すこともせずじっと優衣を見つめていた。
無数の針で刺されるようなしくしくとした痛みが全身を苛むが、文句を言える立場にあるわけもなく捨てられた子犬のような目を向けるしかなかった。
数分か、或いはもっとか、やがて根負けした雫が大きく溜息をつく。
「1個貸し」
何を頼まれるか分かったものではないが優衣が取れる選択は頷くのみだ。
布団から起き上がった雫は一度大きく伸びをしてから着替えるために自室へ向かう中、優衣の隣をすり抜ける時にぽつりと零す。
「勝手に居なくなったりしないでね」
優衣が驚いて振り返るが、その頃にはもう部屋から外に出ていて、扉の閉まる軽い音が残るだけだった。
閉まった扉に向けて、残された優衣はくすりと笑みを零す。
「心配性だなぁ……」




