不安の夜
大急ぎで家に戻った優衣は着替えもせず父親の仕事部屋に向かった。
だがノックをしても中から返事は全くない。
寝ているのかと思いドアノブを捻って少しだけ中を覗くとガランとしていて人がいる気配はなかった。
留守かと思って部屋に戻り着替えを済ますと隣の雫の部屋に向かう。
2度ほどノックをすると聞きなれた明るい声がして扉が開いた。
「お兄ちゃんおかえり。どうかしたの?」
「お父さん知らない?」
優衣がそう尋ねると雫は少しだけ困ったような顔をした。
「また取材に行っちゃった。いつ帰ってくるかは分からないって」
いつもは家の中で記事やレビューを書いているのに、気になった事件があるとすぐに飛んで行ってしまうのが父親の悪い癖だった。
どうやら最悪のタイミングで被ってしまったらしい。
「そっか……今回はどんな取材なんだろう」
「詳しく聞けなかったんだけど昔に解決した事件みたい。関係者に話を聞いて回るんだって。特集でも組むんじゃない?」
あまり興味がなさそうに言う雫だったが、昔に解決した、関係者に話を聞いて回るという単語に優衣の心はざわついた。
先ほどまで話をしていたからか、或いは先日父親が調べていることを偶々知ったからか、事件というのが15年前の誘拐事件のような気がしてならない。
どうしてこんなタイミングで、とほんの少し心の中で悪態をつく。
「……どうかしたの?」
心に仕舞いこんだはずの不安や憔悴は長年傍に居た雫からしてみればはっきり見て取れてしまったようだ。
「ううん。なんでもない。ちょっとお父さんに電話してみるよ」
こういう時に話を長引かせると雫のペースに乗せられてしまうのを良く知っていた優衣は適当に理由をつけてさっさと自分の部屋に引きこもった。
慣れた手つきで電話帳を呼び出し父親の名前を数度叩くと呼び出し音が鳴り始めた。
――はい、月島です――
父親の声が受話器の向こうから漏れるとほっと息をついて話しかけようとしたのだが、声はすぐに先を続ける。
――ただいま電話に出ることが出来ません。着信音の後にお名前とご用件を……――
普段家に居る父親の携帯に電話を掛ける事がなかったせいで留守番メッセージを本人と思ってしまった。
時間を見ればまだ7時。仕事中という事もあるだろうし、電車の中かもしれないと思って折り返し連絡が欲しいとメッセージを残しておく。
けれど、どうしてか心の中のざわつきは消えなかった。
電話に1度でなかったくらいで何をそんなに怖がっているのか、優衣は自分でもわからない。
1時間後、不安はほんの少しだけ大きくなり幾度となく部屋を歩き回った。
3時間後、不安は焦りに色を変え、携帯を開く回数が多くなった。
6時間後、不安は憔悴に変わって張り裂けそうな不安が押し寄せてきた。
時計の針はとっくに日付を跨いで真夜中の1時を指し示している。
投げたメールは2桁の大台に乗り、留守電の回数は5回にのぼっている。
記者という仕事柄、父親は連絡を大切にしているし、これほど長い時間返事を返さなかったことなど今まで一度もない。
普段ならもうとっくに寝ている時間にも関わらず、優衣は部屋のベッドに腰掛けて何も言わない携帯電話を泣き出す直前の沈痛な面持ちで眺めていた。
そこへ突然廊下からノックの音が聞こえて思わず体が仰け反る。
「お兄ちゃん?」
扉越しのせいでややくぐもっている物の、聞こえてきたのは雫の声だった。
「まだ起きてるの? ……何かあったの?」
明かりが漏れていることに気付いたのか、心配そうに、けれど探りを入れることも忘れていない。
全てを話してしまおうかと一瞬だけ迷ったが連絡が取れていないと言ってもたった6時間だ。
充電が切れて充電できない可能性もあるし、宿に携帯を置き忘れて出かけた可能性だってある。
うっかり落としてしまった可能性だって、壊してしまった可能性だってある。
「なんでもない。ちょっと怖い小説を読んで暗くしていないだけ」
それだけ言うと雫は割とあっさり納得しておやすみ、という言葉を残して隣の自室に入っていく音がした。
「まだ6時間、だよね……」
今すぐに駆けつけられればと思うが、父親はどこに泊まるかも決めずにふらりと出て行ってしまうから探すに探せない。
今日はもう寝て、明日になっても連絡がないようなら何か手を打とうと考えると重い身体を起こして電気を消すべく扉の横へつけられているスイッチへと近づいた。
ところが、スイッチを消すより少しだけ早く、扉が音もなく開くと可愛らしい少女趣味の白いフリルが所々にあしらわれた薄桃色のネグリジェを着た雫が枕を抱きながら入ってくる。
突然の出来事に目を丸くしていると立っている優衣を見もせずにベッドの中に滑り込んでいった。
「何してるの……?」
「怖いなら一緒に寝てあげようと思って」
ベッドの中から腕を出しておいでおいでをする姿は、さながら獲物を捕食せんとおびき寄せる食虫植物のようで不気味だ。
「いいからお帰りなさい。ほらハウス」
頭に手を当てて投げやりに言うと、雫はむっとした顔をしてベッドの中に頭まで潜りこんでしまう。どうやら徹底抗戦するらしい。
「じゃあボクが雫の部屋で寝るよ……」
仕方なくそう言って枕だけでも持っていこうとすると、布団から顔を出した雫が愕然としていた。
「女の子の部屋のベッドを使うとか、兄としては最低だと思うの」
じっと、据わった目線でそう言われると優衣は強行することが出来ない。
「一利あるかもしれないけど……じゃあ雫がボクのベッドを占拠しているのはどうなの?」
ならば自分はどうなのかと聞けば、全く問題ありませんとばかりに笑顔でいう。
「妹なので許されます」
「そんな理論聞いたこともないよ!」
「この世界の掟です。春原さんに聞いてみれば当然って答えてくれるよ?」
「光輝の変な知識を当てにしないでよ! ……分かった、それならボクはお父さんの部屋で寝るから」
そう言って部屋を出る為にドアノブへ手をかけると雫は慌てた様子でベッドから這い出だしてきた。
まさか強硬手段かと思わず身構えた優衣の前で小さく笑う。
「冗談よ。冗談。元気なさそうだったから、おやすみ、お兄ちゃん」
そう言って電気のスイッチを押してから扉を開け優衣が警戒の構えを解いた瞬間……外に出ることもなく再び閉じた。
騙された、と思った時にはもう遅い。
油断した優衣の身体を抱きしめながらベッドに引きずって一緒に倒れ込むとがっちりとホールドする。
「冗談が冗談でした! ほら、2回言ったし?」
「意味わかんないよ! ちょっと離してって! 15にもなって妹と一緒に寝るなんてありえないから!」
必死に逃げ出そうと暴れるが密着状態で完全に捕まってしまっているとなると難しい。
体格差もあってあれよあれよという間に軽々とベッドの奥側に押し込まれてしまった。
立ち上がろうにも足は完全に挟み込まれていてびくともしない。
「いいじゃない、女の子同士なんだし。そりゃ、お兄ちゃんがお兄ちゃんのままだったら妹の可愛さに負けて襲われちゃうかもしれないから自重したけど」
「襲わないし、それに今ボクがまさに襲われてるんだけど!?」
必死に抜け出そうと力を入れているのだが、雫からすれば無駄な努力を続けているのが微笑ましいだけだった。
「あ、襲われてる認識あったんだ? 偉い偉い」
「頭を撫でるなぁっ」
優衣は身を捩るが狭いベッドの中で逃れられるはずもなく、なすがままに撫でられ続けるしかない。
独特な色合いの長い髪は驚くほど細く滑らかでさらさらと零れ落ち、濡れてもいないのに月光を受けて艶を放っている。
枝毛どころか引っ掛かりすらどこにもなく、雫は一人嘆息を零した。
優衣が男の時から負けたと思っていた髪質だったが性別が変わったことで際限なく良くなっているのはどういうことなのか。
同じ美容室で同じケアをしているとはとても思えない。
撫でられる心地よさと屈辱に耐え忍ぶ複雑な表情を作っている優衣を見ていると、敗北感も重なって少しばかり虐めたくなった雫はふふんと得意げに言った。
「じゃあおねーちゃんが優衣ちゃんのお望みどおりに襲ってあげましょう」
頭の天辺から肩くらいまでの行き来を繰り返していた手が肩に伸び、二の腕まで下がると脇に潜り込む、だけに留まらずさらに下降を続けて優衣が訝しげに言う。
「ちょっと、雫……? 何か手つきが怪しんだけど……」
優衣が焦って逃れようとするが、そんな事はお構いなしとばかりに雫の手がさっと2つの膨らみを捉えた。
「あ、思ったより胸はある……。もう少し成長したら隠すのは難しいんじゃない?」
「待って、ホント待って、っていうかどこ触ってるんだよ!」
寝巻の上からではあるが確かに存在を主張するそれを軽く押しながら冷静にコメントさえしてみせる雫だったが、優衣の方は対照的に慌てふためく。
かといって逃げようとすると雫の手の感触がより鮮明になるせいで早く開放される事を願って縮こまるしかなかった。
だが予想に反して、その身体が突然びくんと跳ねる。
「は、離してっ!」
表面をなぞる様に緩く這う指の感触に優衣が本気で拒絶の声を上げた。
だが雫は悪びれる様子も聞き入れる様子もなく、指の力をほんの少し強めるとなぞるだけだった指の他に手の平まで使って、優しくありながらも、ねっとりと絡みつくような動きでもって優衣の反応を楽しみはじめた。
「何してるのっ」
背筋を駆け抜ける感覚に顔を赤く染め、時折小さく押し殺した声を漏らしながらもどうにか逃れようとする優衣を満足げに愛でている雫は、悪戯っぽい声色で事も無げに言った。
「妹の可愛さに負けて襲ってるの」
「開き直るな! それからボクは……」
妹じゃない、と叫ぼうと大きく息を吸った優衣の口から甘さを多分に含んだ甲高い悲鳴が抑えきれず盛大に漏れた。
自分が出した声色と声量に、羞恥から顔を真っ赤にして打ち震えている優衣を見て、雫は楽しそうに笑う。
「今の声可愛かった、リプレイ」
懲りずにもう一度指と手を動かそうとするが、優衣は自分で触れるのも厭わず隙間に滑りこませた手でしっかりガッチリとガードを固める。
「いい加減にしなさいっ」
普段あまり怒ることもない優衣だったが、今回ばかりは我慢ならなかったらしい。
本気で咎める声は少しだけ涙で濡れているようで、雫も潮時とばかりに手を胸から離すと腰に巻きつけ諦めように言う。
「ありがとうございました」
まるで漫才の〆のように、あとはもう何もしてこなかった。
腰に回されている腕が外れる気配はなかったが、念の為優衣は散々弄られた胸を守る様に腕で抱く。
それはそれで柔らかさが伝わってきて落ち着かなかったが雫に悪戯されるよりはずっとマシだった。
けれどそうして腕を使ってしまうと今度は逃げる手段がなくなってしまう。
雫も襲うのには懲りたようだが離すつもりは少しもなかった。
「ねぇ、お兄ちゃんは元に戻りたいの?」
「当たり前でしょ」
当然とばかりに優衣は即答する。
自分の外見が生まれつき女性に見える事で悩んだことは多い。でもそのおかげで知ることが出来たことも多い。
長年かけて自分が理解してきた全てを、今更無為にすることなんてできなかった。
「……戻れなかったらどうするの?」
雫の当然の問いに、優衣は何も答えない。
「もしずっと女の子のままでいるしかないとしても、ずっと男の子でいるの?」
「分かんないよ……」
いじけた子どものような弱々しい声が漏れる。
「そっか……」
「もし雫が朝目が覚めて男の子になってたらどうするのさ」
優衣の質問に、雫はうーんと考えてみせる。
「まずはお兄ちゃんを襲う」
空気があからさまに硬化し、優衣が身を捩る。
「ごめん貞操の危機を感じるから離して、それか出て行って」
「冗談よ、冗談。そんな蔑むような目で見ないでよ」
抑揚のない声で告げると、雫は慌てて否定する。
「2回だから本気?」
……が、2回目とあっては信じられるはずもなかった。
「……」
「そこは否定してよ!」
「違うよ?」
押し黙ってしまった雫に優衣が吼えると面倒臭そうな、適当さを繕いもしない棒読みな答えが返ってくる。
「形式的すぎる!」
「お兄ちゃんは細かいなぁ……」
そして呆れたような笑みを漏らすのだった。
「雫が適当すぎるんだよ」
「お兄ちゃんが細かすぎるの。髪を伸ばしてるくらいなんだから女の子らしくなっちゃえば?」
「ちょっと待ってよ! 伸ばせって言ったのは雫じゃないか! 面倒だからってボクが切ったら突然泣き出して、鋏を持ち出したと思ったらいきなり自分の髪を滅茶苦茶に切りだしたの、今でもトラウマなんだけど!?」
優衣が髪を伸ばし始めたのは親の意向だったが、切らせてもらえなかったのは妹の意向だ。
小学生に上がる前くらいの時に自分で髪を短くしようと一束切った瞬間、雫が訳も分からぬまま突然泣きじゃくり、大切にしていた自分の髪を切り始めた時の衝撃と恐怖は今でもしっかりと優衣の心に残っている。
鋏が切ったのは髪だったけれど、それが自分の喉に向かわないとも限らない状況だった。
狂ったような、という表現があれほど合う場面は今も昔もそれっきりで、もう2度と誰かが自分を傷つける光景など見たくない。
「そんなこともあったね」
だが当人にとっては既に過去の思い出の1ページなのか酷くあっさりとしたものだった。
その言いざまがあまりにさっぱりしすぎていて、優衣は恨みがましい声で聞く。
「……今からでも切って良い?」
「今度は立ち直れないくらいのトラウマにするけど、それでもいいなら」
声は全くと言っていいほど笑っていなかった。半狂乱になった過去の雫が一瞬だけ重なって、思わず聞き返す。
「……今度は何するつもりなの」
「教えない。とにかく短くしちゃダメだから」
雫はにこりと意味深な笑みを浮かべるともう一度だけ念を押した。
「はいはい」
と言っても、まだ自己の確立すらできていない昔ならともかく、今の優衣に髪を切るつもりはない。
何故と聞かれると困る質問だ。
雫の事も当然あるが、今まで長いことが普通だった優衣にとって、他者がどうであれ自分の髪は長いというのが常識として意識に刷り込まれている。
だってそれが当たり前だから。これ以上に明確な答えは見つからない。
学校で男女どちらの制服を着ろと指定されていないにも拘らず、誰も逆の物を着ようとすら"思わない"だろう。
どうしてと聞かれても、それが当たり前としか答えられない。
この世界では育ち方によって"当たり前"なのに差が出てくる。
多分これが、優衣が髪を長くしていた事で知る事のできた稀有でいて、とても大切な知識の内の一つだ。
自分の中の当たり前は別の誰かにとって当たり前ではないかもしれない。
そのことを本当の意味で理解している人はとても少ないのだから。
もし髪を伸ばしている理由があるとするなら、きっとそれを忘れない為だ。
「ねぇ、そろそろ十分ボクで遊んだでしょ。本当に離してよ」
いつもなら満足してくれるだろう頃合いだというのに、雫が腕を離してくれる気配はなかった。
時間は1時半を回っている。お弁当を作るとなるともう寝ないと辛い時間だ。
「お父さんの事心配なんでしょ?」
どうして、と優衣が驚く。
父親に電話したこともメールしたことも、雫には言っていない。
「帰ってきたときお父さんの居場所聞かれたし、電話するって言ってたし、食事の時もお風呂の時も心ここに非ずって感じだったし……お父さんと何かあったのかと思って私も電話したの。でも出てくれなかった。メールも出したけどそっちもまだ返事なし。珍しいよね」
雫もまた、父親と連絡が取れない事にとっくに気付いていた。隠し事なんて出来る物じゃない。
「お兄ちゃんは何を知ってるの?」
"何か"、ではなく"何を"という質問に、優衣がぎくりと固まった。
それは何か隠していることは既に知っている、という意味だ。
「良いよ。答えてくれないんでしょ? お父さんもお兄ちゃんも隠し事ばっかり」
「……お父さんも? ちょっと待って、お父さんは何を隠してるの?」
「知らない。何も話してくれないのに、みんな勝手」
突き放すように、それか、いじけた子どもの様にぼやいて優衣の背に顔を付けた。
大人びてしっかりしているから偶に忘れてしまいそうになるが雫は中三だ。不安になることはあるだろう。
だから優衣は気になるものの、それ以上の追及はしない事にした。
「もう何もしないから、今日は一緒に寝させて」
心細そうに言われてしまうと優衣も強く拒否できない。仕方ないかとため息を付くとこれだけは言った。
「腰に巻いてる手だけは離して」
「……逃げない?」
「逃げない」
「……離れない?」
「離れない」
「……朝起きたら私一人ってことはない?」
「雫はもう少し他人を信じようか」
再三の確認と念押しで満足したのか、雫は一度頷くと腰からは手を離したものの、今度は手を握ってすぐに寝入ってしまった。
「……心配かけてごめん」
安らかな寝顔を見ながらそう呟く。
今日の雫の不安は、父親と連絡が取れなかったことで焦った優衣の感情が伝播したものだ。
兄なら兄らしくもっとしっかり構えて妹を安心させなければいけなかった事を深く反省する。
これでは本当に妹ポジションじゃないかと自分のふがいなさに大きくため息を零した。
今日の過激な悪戯はそれに対するささやかな報復なのかもしれない。
でも連絡が取れないのは確かだ。
兄として、明日も連絡が取れないようであれば毅然とした態度で臨もうと決意するとひとまず今日は眠ることにする。
誰かの温もりはどうしてこれほど暖かいのだろうか。
不安に押し潰されそうな心も隣に雫がいることで不思議と軽くなっていた。




