試験の後に
時には教室で、時には図書館で、時にはまた影人の家で試験までの日々を勉強漬けで過ごした6人は遂にやってきた試験本番を全て終えると図書室に集まり自己採点にいそしんでいた。
1日目は国数英の3教科、2日目は理社の2教科とHRという時間割になっていて、どちらも平常授業よりも早く開放される。
試験期間中には部活も行われないため、試験終了と同時に校門には人が溢れていた。
すぐに帰っても混雑するのが目に見えているし、まだ時間も早い。ならば少し生徒の数が減るまで校内で時間を潰す意味もある。
「光輝も赤点からは逃げられたみたい」
確認した限りでは全教科平均6割強くらいだろうか。
例年の赤点ラインは4割前後ということから考えて安全圏に十分入っていると言っていいだろう。
光輝はその結果に、露骨な安堵を示していた。
「なるくんの採点結果は何なんですかねー……」
意気揚々と互いの答案を控えたものを交換して採点しあっていたのだが、香奈の表情は徐々に暗鬱が経ちこめ、今ではもう机に突っ伏している。
幾つかのミスはあったのだが、影人は全教科において9割に達していることは間違いない。
香奈も全教科の8割は超えている事を考えれば決して悪いものではないのだが、影人に勝てなかったのが余程悔しいらしい。
ちなみに光輝と香澄は勝負するまでもなかった。
「勉強くらいしか家ですることがないからな」
事も無げに言う影人だったのだが、その一言は香奈を刺激するのに十分だった。
むふふ、と何とも怪しげな含み笑いを浮かべると獲物を見つけた猫のように喜色の笑みで食いかかる。
「なるくんは寂しい子だったのかー。趣味とかないのー?」
「俺は孤独の闇に潜む狼というだけだ! 寂しい奴扱いするなっ」
「……はっ! マンションの前は確か小学生の通学路……! まさかなるくん、望遠鏡で影からこっそり盗撮とかしてるんじゃ!」
「誰がそんな変態みたいな真似するか! そもそも望遠鏡など持っていないっ!」
「うん、分かるよ……? 小学生の頃に戻ってやり直したいって気持ち。大丈夫、あたしは理解してあげられるから……」
「俺の話を聞けぇっ! お前こそそのひん曲がった性格を小学生から叩きなおして来い!」
いつもならうるさいと怒られるであろう図書室も今は誰も居ない。そのおかげか、2人(?)はいつになく楽しそうに騒いでいた。
「でもさー、もし小学生からやり直せるなら、やり直したくないですか?」
からかうのに一段落付いた香奈がどこか遠い目で突然そんな事を言った。
「小学生かぁ……ちょっとやり直したいかも」
真っ先に返事をしたのは優衣だ。
小学生まで戻れるのであれば、家の金庫に厳重に仕舞われている忌まわしき黒歴史となっている写真の大部分がなかったことになる。
遊園地でやたらめったらひらひらな服を着て笑っている写真も、避暑地で簡素な白いワンピースと麦藁帽子を被って安らかに眠っている写真も、冬にミニスカートのサンタの衣装を着させられている写真も、他にも数え切れないほどの醜態がなくなるのであれば悪魔の囁きに興じる覚悟さえあった。
「そうだなー……やり直したいって事はあるかもな」
「私は今のままが良い」
光輝と香澄はそれぞれ反対意見のようだ。気性からか少しむっとしたような目線をぶつけ合う。
「かすみんはどうして今のままがいいんですかー?」
なんとなしに訪ねる香奈に、香澄は思い出しただけでも疲れるとばかりに溜息をついて言う。
「小さい頃に戻ってまた光輝と張り合うなんて考えただけでも嫌になるから」
二人の小さな頃は今よりもよほど壮絶で無意味な争いを秒単位のハードスケジュールでこなしていたとなればその意見も頷けるだろう。
「張り合わなきゃ良いじゃねぇか。俺もそうなったら身を引くよ、あんなハードな小学生生活は流石に疲れる」
光輝も同感だと苦笑いを返すのだが、突如として含み笑いをした香奈が紛れ込んできた。
「ところがどっこい、かすみんは光輝君を巻き込まないとダメなんだよねー?」
その一言に思わず香澄が音を立てて立ち上がり香奈の襟を掴んで書架の奥へと引きずっていく。
少し離れた場所で香奈の怯えた「かすみん、待って、今のはただのジョーク、ジョークですからっ!」という嘆願が僅かに漏れ聞こえる。
「……ありゃ一体どういう意味だ?」
二人の消えて言った方向を見ながら光輝と優衣は不思議そうに二人を見ていた。
「色々、あるんですよ」
その正面で萌は何か微笑ましいものでも見るように二人の消えた場所を眺めていた。
なにせ優衣とこうして同じ時間を過ごすには光輝と距離をおくわけにはいかないのだから因果なものだ。
自己採点が終わる頃には校門にひしめいていた生徒は一人も見えなくなっていた。
試験は3時限目までしかないため、お昼を取りに帰るには手ごろな時間だろう。
「んじゃそろそろ帰ろうぜ。腹も減ったことだしな」
光輝の言葉に5人も頷いて立ち上がる。するとタイミングよく光輝のお腹が音を鳴らした。
「もういい時間ですしねー。そういえばこの間おいしそうなお店を見つけたんですよー。皆さん暇でしたらどうですかー?」
香奈の提案に香澄と萌は賛成と声を重ねる。優衣と光輝は家で用意しているという理由で辞退した。
「ごめんね、家で用意しちゃってて……」
「悪いな、俺もなんだ」
申し訳なさそうに謝る二人に、香奈はまたの機会にと笑った。
「仕方ないですよー。じゃ、なる君は行きますよねー? 一人暮らしだし」
香奈の矛先が影人に向くと、彼は一瞬戸惑ったような顔を見せるが強引な香奈によってずるずると引きずられてしまうのもいつも通りだ。
校門まで気ままに会話しながら手を振って別れた後、優衣と光輝は4人の姿が見えなくなったのを見計らってから校内に駆け戻る。
光輝が帰りを切り出したのはわざとだった。本当ならもう少しだけああして話しているのも悪くなかったのだ。
だが、状況はそれを許してくれない。
「これ、魔物の反応だよね……?」
「まだ具現化してはいないみたいだけどな……サラマンダ、出て来いっ」
気配の方向を特定してから身体強化を行って全速で走る傍ら、炎が爆ぜて見慣れたサラマンダが姿を現した。
『学校と言ったか。何か特別な出来事でもあったのか、複雑な感情が渦巻いてるな』
恐らく魔物の根源は試験によって今まで生じてきた生徒達の感情エネルギーが集合したものだろう。
それが、試験の終了に伴い開放感を感じ、言葉通り"開放"された。
「学校ほど沢山の生徒が同じ感情を抱く場所はないもんね」
同じ感情が同じ場所に集まれば集まるほど魔物の発生の原因になりえる。
大きな触れ幅を持つ思春期の子どもの感情というのはある種一番の餌なのかもしれない。
『気をつけろ、これだけの感情が集まったとなると強力かもしれん』
サラマンダの警告に元より油断などするつもりもないが2人は揃って大きく頷いた。
敵の反応は中等部が使っているグラウンドから感じられた。
最近まで使っていた懐かしささえ感じる場所へ駆けつけると空間が僅かに揺らぎを見せている。
『……大きいな。ここ最近出現の頻度も規模も加速する一方だ』
忌まわしそうにサラマンダが啼いた。
アウローラから聞いていた話では頻度も強さも、あの時の獣は相当なランクだと言っていたのだが実際には違う。
それが事実だったのは少し前までで、ここ最近、特に数週間前から魔物の発生頻度と規模が桁違いに上がり続けている。
先日の狐ですら、今までの経験で言えば1年に一度あるか無いかの大物だった。
『優衣、結界を展開するんだ』
サラマンダの指示によって優衣は目を瞑り神経を集中させると頭の中で結界のイメージを作り上げる。
歪みを中心にグラウンド全てを覆う大規模な結界が音もなく展開された。
これでもう中の様子を外から見ることはできなくなり、外から中へ入ることも出来なくなった。
数分の間をおいて空間の揺らぎが徐々に大きくなり、遂にその姿が現実世界に露出し始める。
優衣にとってはこれが始めての魔物が生れ落ちる瞬間で、何もない揺らぎに形が生まれ、色が生まれ、動物の形を取っていく、ともすれば幻想的とも表現できそうな光景に思わず息を飲んだ。
「優衣は後ろに下がってること! いいなっ!」
返事を待つこともせず光輝は能力を完全に開放して走りながら指示を飛ばす。彼の言葉に一度だけ大きく頷いた。
「想いを炎に 願いを糧に」
契約文言と呼ばれる、魔術師としての顕現、或いは変身を行うためのキーワードが口から漏れると手には手甲が装着され、朱色のズボンとパーカーが勝手に羽織られ上半身が露になる。
そのどれもが戦闘用に特化された軽量かつ頑強な鎧の役割も果たしているというのだが、薄着になっているのはどうしてなのか。
魔法という物理を超越した何かに常識を問うこと事態が間違いなのかもしれない。
具現化したの魔物の形は猫だった。尻尾は二つ、根元から分かれた長くしなやかな尾は風もないのにくねり、天に向かって突き立てられている。
大きさは人と同じくらいだろうか? 猫にしては余りに大きすぎる姿は今までの魔物共通、あまりにも異質だった。
出現したばかりの絶好のタイミングを見計らい光輝の最大加速の拳が振りぬかれた、のだが。
今まで見た魔物の中ではかなりの小型というだけあって動きは遥かに俊敏だった。
障害物のないグラウンドという条件も手伝って、上空へ飛びのいた猫に拳は掠りもせず、変わりとばかりに地面の土を幾分掘り返し空に巻き上げるだけに留まった。
勿論光輝もそれで終わる訳がない。
避けらることを殴る直前に察知した彼は動物染みた動きで軌道を修正、再び猫に向かって大地を蹴りつけて同じ空へ舞う。
上空へ逃げた猫にはもう逃げ道などどこにも無い。体勢を変えることすら不可能だ。
下方向から飛び上がった光輝の拳が猫のどてっ腹を打ち据えるかと思った瞬間、今度は猫が振りぬかれる拳に合わせて自身の腕を振るう。
燃え盛る炎に包まれた拳と長く伸ばされた鋭利な爪が交差し甲高い音が鳴り響く。
拳の強度は光輝の方に分があったようだ。かち合った猫の爪が半ばからぽきりと折れ、苦痛でもって顔を歪める。
確かな手ごたえに光輝に喜色が宿るのだが、空中で逃げ場が無いのは光輝も同じだった。
猫はその隙に攻撃の反動を利用してくるりと回転し、しなやかな尻尾が2方向から同時に光輝を打ち据える。
咄嗟に腕をクロスさせて上部から迫り来る尾を受け止めようとするが、空中では踏ん張る事も出来ずに地面に向かって叩きつけられた。
「光輝っ!」
派手な衝突音と土煙がグラウンドに舞い光輝の姿がかき消される。
猫は折れた爪を気にしつつもやや離れた、優衣寄りの地面に着地すると次の標的を優衣へ定める。
後ろ足に力を篭めて突進の体勢を取った次の瞬間、猫は驚いたように光輝の方向に振り返ると慌てて横方向へ飛び退った。
1秒と間をおかず、放たれた朱色の火球が猫の鼻先を掠めつつ高速で突き抜け、優衣の展開した結界に衝突すると派手な爆風を撒き散らす。
結界にが震える程の大きな振動が伝わって、優衣は思わずその身を硬くした。
(大丈夫、まだ壊れてない)
しかし安堵の溜息をつく暇すらなく、2つ目、3つ目の火球が次々と結界を揺らすと、思わず声を上げた。
それでも結界には罅すら入らず、未だ形を保ち続けていられるあたり常識外れの制御能力と魔力が窺い知れる。
猫は光輝が連続で放った火球を見事としか言えない身のこなしで交わしつつ迂回し、優衣の正面に立ち塞がった。
追い詰めるように放たれていた火球がしまったとばかりに止まる。この位置から放ったのでは優衣に当るのだ。
それを利用した猫は手ごわい光輝ではなく、ただ立っているだけの優衣に向かって突撃した。
完全に後方支援を意識していた優衣は目の前で起こった出来事に迅速に対応できず二の足を踏んでいる。
猫がそんな隙を見逃すはずもなく、猛烈な速度で接近すると折れていない方の手で以って小さな体躯を切り裂くべく、凶刃を振りあげた。
狂気に染まった笑みと共に腕が振りぬかれ、グラウンドを派手な色で塗り潰すよりも僅かに早く、後方から怒涛の勢いで突っ込んできた光輝が猫の尻を蹴り飛ばした。
サッカーボールよろしく、蹴り上げられた猫の身体はいとも簡単に宙を舞い、展開されていた結界の壁にぶち当たると唸り声を上げて地面にべしゃりと墜落する。
「大丈夫か!?」
心配そうに優衣の隣へ駆けつけた光輝だったが、それよりも先に猫へトドメを放つべきだった。
僅かな間にどうにか身を起こした猫が怒りに燃える瞳を二人に向けて全身の毛を毛羽立たせおぞましい唸り声を上げる。
篭められていた猛烈な悪意と殺意に、優衣は思わず後ろへと下がった。
本能的な恐怖心がせり上がってくるのを抑えきれず身を硬くする肩に、光輝が優しく手を乗せる。
「大丈夫だって。たかが猫だぜ?」
そこにあったのは普段と何一つ変わらない、気楽な笑顔だった。それを見た優衣は目を丸くするが、同時に身を包んでいた空気が弛緩する。
呑まれかけていた優衣の精神はそれだけで気を取り直して、今度は眼前の魔物をしっかりと見据えた。
刹那、猫が躊躇う様子もなく突撃を敢行する。
ただの愚直な、けれど相当な迫力を伴うであろう突進に、優衣は少しも怯えることなく前方に結界を展開した。
避ける暇も止まる暇もなかった。
一体何をぶつけたらそんな音が出るのか、聞いているだけでも頭を抱えたくなりそうな鈍い衝突音が結界から生まれ、猫が今度こそ大きく悶える。
あれほどの質量と速度を持った敵の攻撃でさえ、結界は少しも傷ついていない。
「うわ、あれは痛いぞ……」
普通に歩いている時に電信柱にぶつかっただけでも相当な痛みを伴うのだ。全力の突進となれば想像を絶するものになるだろう。
事実、猫は額を押さえてその場でごろごろと転がっていて、どことなく哀愁が漂い可哀想でもある。
「光輝、結界を解除するよっ」
とはいえ魔物を放置するわけにはいかない。前方に結界を展開していたのではこちらの攻撃も届かない為、優衣が合図と共に両者を分け隔てていた不可視の障壁を消し去るなり、光輝も大きく頷き全力で突進する。
どうにか猫がふらつきながらも身体を起こすがもう遅い。
振り上げられた灼熱の炎を纏った右腕はぶつけたばかりの額に向けて真っ直ぐに振り下ろされ、接触と共に業火となって猫を吹き飛ばした。
頭の砕けた猫がその場にごろりと横たわり、砕け散った断面からは黒い粒子が噴出して空に溶けて消えていく。
「討伐完了と。ったく、叩きつけられた肩がちょっと痛むな」
ぐるぐると手を回しながら優衣の元に歩いてくる彼の姿に、優衣からも安堵の息が漏れた瞬間、不意にその背後で分かれている尻尾が揺れ動いた。
『まだだ! 隙を見せるな!』
サラマンダの怒号に光輝が振り向く。
尻尾の一つが身体からひとりでに離れ、先ほどの猫よりも圧倒的に小さな形を作るとまだ諦めていないのか光輝に向かって飛び掛った。
大きさは普通の猫を2周り程大きくした程度で、時折振るわれる小さな腕から受けるダメージは小さいものの、圧倒的な速度とサイズの小ささに光輝が舌打ちする。
何度かしっかりと敵を見据えて拳を、蹴りを繰り出すのだが全くと言っていいほど当る気配がない。
「ちぃっ……小さすぎんだよ!」
嵐のように縦横無尽に跳ね、走り、飛び退る猫に向けて何度も拳を、蹴りを放ち続けるがそんなものが当るかとばかりに猫はひたすら回避を続け、光輝に隙を見つけては飛び掛る。
段々と焦れるように防御よりも攻めを重視した光輝が見せた僅かな隙に、猫は喉元目掛けて飛び上がり爪を振るう。
だがその爪が光輝の肌を捕らえることはなかった。爪が伸びるよりも僅かに早く、優衣が猫に向けて結界を展開する。
振りぬかれた爪は結界によって弾かれ、小さな甲高い音が僅かに漏れた。
猫はそれならば廻り込んで、と着地するなり飛び上がろうとするがそんな機会はもう二度と与えられない。
「全方位結界、みたいな?」
咄嗟に展開した6面を連結させた正方形の結界が暴れる猫をゲージに閉じ込めるように隙間なく完全に閉じ込めて空中に浮かせている。
いかに中で暴れたところで、先ほどの完全な状態の突進でも砕けなかった結界だ。この程度で壊せるはずもない。
『見事なコントロールだな。しかし、これは外から攻撃できんぞ』
結界は当然、外からの攻撃も全て遮断してしまう。場合によっては光輝の全力でさえ阻んでしまう圧倒的な強度だ。
でも優衣には一つだけ策があった。
「大丈夫……多分これなら、切れるから」
そういって何もない空間から引き抜いたのは、ほぼどんなものでも断ち切る威力を持つ、あの幻想的な薄い刀身の剣だった。
移動する相手に当てる技術がなくとも、こうして機動力を奪ってしまえばそんな事は関係なくなる。
アウローラと初めて契約して戦った時にも相手の動きを止める方法を考えろと言われたのを思い出した結果だった。
「……ごめんね」
中で暴れている小さな魔物を少し可愛そうだと思うのは欺瞞だろうか。
心の中でだけ謝ってから結界に向かって思い切り剣を振るった。
結界が頑強だからか抵抗を感じたものの、剣は止まる事もなく滑るように何もかもを切断する。
黒い粒子が空に溶けて、今度こそ本当に何もなくなった。
周囲に魔物の反応がないことを確認してから優衣は周囲を守るために展開していた結界も解除する。
「お疲れさん。やっぱ二人だと違うな」
「ごめん、こっち来た時に動けなくて」
ほぼ同時に、2人が全く逆の感想を言い合う。
光輝にしてみればターゲットが優衣に変わった事で蹴り飛ばす時間も稼げたわけだし、突進を防いで猫の動きを止めたのも優衣のおかげだ。
連打した火球もグラウンドに傷一つつけていない。……多少穴が空いたが、あれはまぁ、運動部の連中が治せる範囲だ。問題ない。
だが優衣にとっては最悪と言って良い戦闘だった。
基本的に後ろで立っていただけで大した援護も出来ず、挙句に威嚇に怯えて動くことさえ出来なかった。
『そう嘆くことはない。光輝が契約した頃は殆ど無害な、それこそ犬や猫の愛玩動物と同じ程度の魔物しか出てこなかったのだ。だからこそこうして長い間戦い、段階的な経験を得て恐怖を乗り越える術を知った。日の浅い優衣が命の危険すら隣り合わせの強力な魔物との戦闘で恐怖心を抱くのは当然の帰結だ』
「サラマンダの言うとおりだよ。大丈夫、ちゃんと守ってやるから」
「背中、大丈夫?」
「大丈夫だって。一応この服だって相当な防御力なんだぜ? それにちゃんと受身だって取れる」
グラウンドに叩きつけられた背中を心配そうに見上げる優衣に光輝は笑って答えると、ようやくその顔をほんの少しだけ明るくした。
「優衣は責任感じすぎだっての。もうちょっと緩くいかないとやってられないぞ?」
『その言い草には馬鹿者と罵りたい所だが、大体事実だ。少し気を抜け、気を張ってばかりいては潰れるだけだ』
「うん、ありがと」
それから光輝が服を元に戻すと校門に向かって歩き出す。
するとそこへ見慣れた人物が駆け込んできた。
「あれ、影人? どうしたの、菅原さんたちと一緒にご飯食べに行ったんじゃ?」
優衣が声をかけると驚いたように顔を上げた。そこには若干の戸惑いや驚きが含まれているようで、彼にしては物珍しい。
「いや、忘れ物だ。……それよりお前達こそ、どうしてこんな所に居るんだ?」
忘れ物にしては昇降口から離れた場所に来た事を若干不思議に思いはしたが、それを口にするよりも早く影人が訝しげに聞く。
まさか魔物を狩ってクエスト消化してましたというわけにも行かず、なんと誤魔化せばいいだろうかと優衣が迷っていると隣に立つ光輝がそんなことかとばかりに、極自然に言った。
「俺達は自転車組みだからな、一度自転車を取りに行かないといけないんだ」
「あの地獄坂を毎日登っているだと……!?。苦行の道に続くただ一つの孤独な栄光を求める者か。……む、それにしては自転車がないようだが?」
するすると出る嘘とは言い切れない嘘に感心しているが、肝心の自転車は傍にない。
「ついつい話しこんじまってな。これから取りに行くところだけど、影人も途中まで一緒に行くか?」
だがそれも、これから取りに行くということで誤魔化して見せる。
「……いや、今は急がねば何を言われるか分かったものじゃないからな……闇夜の後にまた会おう」
香奈たちを待たせているらしく、それだけ言うと影人はさっさと校門へと向かって行った。
「てか、あいつは何を忘れて言ったんだ?」
今更のように疑問に思うが、優衣も分からないとばかりに首を振る。
校舎に入るにしてはこちらは遠回りだし、別の場所に忘れ物があるとも思えない。
が、二人にとってそんな事は些細な問題でしかなく、自転車を取ると急な坂を徐行運転するという何とも爽快感に欠ける模範的な運転を始めるのだった。
「……エクリプス、居るな?」
『御』
「……あれは、どういうことだ?」
『危険である可能性は高いな。確認が必要と見ている』
「……」
『世界の為だ。……特に傍らを歩く少女』
「少女?」
『あれはまずい。早急に手を打たねばなるまい。……必要なことだ』
「……」
下り坂を降りながら一人の生徒がぶつぶつと、虚空に向けて独り言を呟いていた。
まるっきり危ない人その物なのだが、幸いなことに周囲に人気はなかった。
が、突如として目の前から見慣れた少女が駆けつけてきて首を絞めにかかる。
「なるくんおっそーい! 女の子を待たせるなんて最低ー」
愚痴を零す割に浮かんでいるのはほがらかな笑顔そのもので、影人はそれを見ているといつもほだされてしまう。
「この坂を10分で行って帰ってくるなど無理に決まってるだろう!」
「えー? 闇の化身なのに?」
「ぐ、ぬぬぬ……」
だからだろうか。何を言われても不思議と嫌な気分にはならなかった。
その先には大変そうね、という表情をした香澄と頑張ってくださいという表情をした萌が二人を見ている。
神無月鳴にとってまだ日の浅いはずのこの日常はとても大切な欠片になっている。
『だからこそ、守らねばならん』
声が彼に語りかけた。
確かに聞こえたはずのその声に、しかし反応を示したのは影人を除いて誰一人としていない。
久々の戦闘描写です!
動きを表現するのが難しい……
技の名前を叫ぶべきか叫ばないでおくべきか結構悩んでいるのですが、
叫ぶ役目が勤まるのはきっと一人しか居ない!




