回想 全ての始まり -1-
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回想
4/24日(1週間前) 午後六時
月島家台所
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散り始めた桜が道路を彩る4月の半ば、中学から高校に上がるという一大イベントにも慣れて来た頃。
月島家の夕飯は当番制を取っている。
母親は妹の雫を生むと同時にこの世を去り、残された父親が男手一つで優衣と雫の二人を育て上げた。
フリーの記者という珍しい仕事をしていて突然飛び出したっきり1週間近くも帰ってこないことだってあるが、普段は家で記事を書くのが仕事だ。
忙しい父親の変わりに家事を分担しようと言い出したのは当時まだ幼かった子どもたちの方からだった。
その頃から当番制は何ら変わらずに維持され続けている。
今日は妹の雫の方が食事当番の日。優衣が風呂上りの乾いた喉を潤すために飲み物を探しに寄った台所から良い香りが漂ってくる。
「あ、お兄ちゃん、丁度いいところに」
台所に踏み込むなり、妹の雫が満面の笑みで優衣を迎えのだが、同時に優衣は自分がここに来たことを少し後悔する。
雫は中学三年生になったばかりの14歳で、優衣とは1つ違いの妹だ。
とはいえどういう訳か雫の方が優衣よりも圧倒的に発育が良く、身長に関しては既に160の大台に届いている。
対する優衣の身長が未だ151となれば、その差は歴然。会話する時も見上げる必要が出てくるほどだ。
傍にいるだけで男としての優衣の矜持は毒にかかったような連続的ダメージを受け続けるが、兄妹の仲が悪いわけではない。
あくまで一方的に絶望感を感じているだけだし、それも160の大台を超えられてからは諦めの方が大きくなった。
妹だけあって顔立ちは良く似ている。二人とも父方の、美人だったと評判の祖母の血を色濃く受け継いだらしい。
ただ雫の髪の色は祖母と同じ、日本人らしい濡れ羽色で優衣のそれとは大きく違っている。
優衣は隔世遺伝かなにかによって色が変わるという珍しいケースだっただけで、月島家が揃いも揃って優衣と同じ色をしているわけではない。
いや、寧ろ特殊な色をしているのは優衣ただ一人だけで、他の月島家は染めている者を除けば一般的な黒だ。
幼い頃の雫は酷く病弱で、兄の優衣はよく雫の傍で過保護を二乗した様な接し方をしていた。
雫にしても優しい、加えて自分よりも余程可愛らしい兄が嫌いではなかった。
「お兄ちゃん、どうしても足りない食材があって……お父さんが楽しみにしてたんだけど」
そんな妹がいつの間にか習得していた甘えスキル。
元より過保護な兄の優衣が妹の申し出を断れるはずもない。
4月といえど夜になれば風はまだ冷たさを含んでいた。
薄手のカーディガンでは少し肌寒さを感じ、髪くらい乾かして来れば良かったと優衣は後悔するものの、嘆く暇があるなら急いで買物を終わらせようと足を早めることにした。
親しみなれた通学路のフラワーロードも夜になるとまた趣が変わる。
月明かりが茂る葉によって覆い隠され、少し薄暗さを感じる道路を等間隔に設置された街灯がほのかに照らし出す。
すると、空を覆う葉が光を受けて微かに燐光を灯し優しい光が頭上から間接的に降り注ぐのだ。
あたかもそれが星々の煌きであるかのように、スターライトロードと呼ぶ人もいる。
そんな幻想的な通路を駅への大通りに出るより少し手前で曲がり、何の変哲もない住宅街を前に前に進んでいく。
優衣が向かっているのはこの町で一番大きく値段も手ごろな食品を販売している大型店だ。
世界中の食材がここにあるという謳い文句で営業している4階建ての百貨店並みの大きさを持つ店舗の中には、様々な国の様々な食材や調理器具が所狭しと並んでいる。
1階は普通の食料品店にコーヒー豆や紅茶、お茶等が並ぶ一般人向けで、2~4階は国ごとに分けた珍しい食材とそれを使った料理を提供するレストランが数多く軒を連ねていた。
様々な国の食事を食べられるということもあってか、上層階も割りと繁盛している。
夜の七時ともなればレストラン街は掻き入れ時なのだろう、外に広がる田舎特有の、果たしてこれが埋まる日は来るのだろうか、いや、ないと言い切れるほど広大な駐車場には6割ほど車が止まっていた。
ちなみに駐車場に入れる最大台数は四桁を越える。
何のためにここまで広くしたのか、地下に秘密基地があるなんていう噂さえまことしやかに囁かれるほどだ。
いやいや、他人の土地をこっそり使って土地の所有権を得るためだという噂もある。
ライトアップされた建物はこの辺りではこの食料品店しかなく、遠くからでも空が明るく見えた。
出入り口も複数個所あり、優衣が目指しているのはその中でも地元民しか使わない、大きな道路に面してない小さな1階用の入り口。
そこに設けられている駐車場は地元の人しか利用しないこともあって幾分面積が小さい。
といっても十数台ほど纏まって止まっているというのに随分と空きスペースが見て取れるガラガラ具合だが。
この半分にしたって駐車場が埋まることはないだろう。
入り口脇には喫煙スペースが設けられていて買物をしている家族を待っているのか、数人の男性が煙をくゆらせている。
優衣も早く買物をして帰ろうと眼前に迫る入り口に向かって歩を進めた、瞬間だった。
何か大きな音がして、次いで衝撃によって思わずその場にへたり込んでしまう。
何事かと音のした方向を見れば、夜の町並みに火柱が上がっていた。
細かく千切れた火の華が空から雪の様に舞い降りては僅かばかりの熱でもって地表を焦がしていく。
白い5人乗りの、よくみかける形状の乗用車が空に向かって吼えるように吐き出す火の手に、優衣は場違いにも綺麗だなとさえ思った。
それは一種の現実逃避に他ならない。自動車はまるで事故を起したかのように形を歪めていた。
だが人を跳ねたでも、道端のガードレールに突っ込んだわけでも、まして回転して電信柱に突き刺さったわけでもない。
酷く不可解なことに自動車の天井がひしゃげ、曲がり、全ての窓という窓が砕け四散していた。
車は横転しているわけでもない。ましてや、事故で転がり傷ついたわけでもない。
ここは駐車場だ。そもそも、車はつい数瞬ほど前まで静かに所有者の帰りを待つだけの置物だったのだから。
破壊者は探さずとも初めからすぐ傍にいた。車の頭上、ひしゃげた天井の上に佇んだ一匹の黒い犬。
優衣はそこから10メートルほどの距離を離し、時間が止まったかのようにただ唖然と見上げることしかできなかった。
これがただの黒い毛並みの大型犬であれば可愛げもあろう。
しかし荒い息を吐く傍らで顎から滴る白濁色の涎が糸を引きながら地面に垂れて水溜りを作っているのでは、とても微笑ましい光景の対象にはなりそうもない。
何よりその身体は壊された自動車に匹敵するほど大きく、立派な馬ほどもある。
にも拘らず足はすらりとした馬のそれではなく、太く逞しく、加えて過剰なまでに延びた足先の黒光りする爪が、いとも簡単に自動車の天井へ穴を穿っていた。
それでも、まだこの時点であればこれを犬と評することもできよう。
が、胴を経て首の先に繋がる頭が2つあるとなれば、もはやそれは犬などとは明確に違う何かだ。
オマケとばかりに首には刺々しい首輪まで付けられていて、語り継がれる地獄の番犬の風体にそっくりだった。
百歩譲ってここが富士の樹海や人の踏み入らない冬山ならまだいい。
あぁ、伝説上の生物って本当にいたんだなぁと感動さえ覚えるかもしれない。
だがここはただの閑静な、それこそどこにでもある住宅街だ。この様な異質な存在が紛れる要素なんてどこにもなかった。
倒れた優衣は身の危険を感じてか、本能的に後方に退却すべく這いずる。
同時に、靴が地面を擦るジャリ、という音がほんのかすかに響いた。
刹那、獣の耳が明らかにぴくりと大きく揺れ、穴が開いているかの様な色のない瞳が優衣を捕らえる。
束の間を置いて、獣の身体が不自然に沈みこむとそのまま車から大きく跳躍した。
鉄が軋み歪む嫌な音が響くと車はダンプカーに潰されたかのように平たくひしゃげ、獣の姿が掻き消えたかと思うと周囲の光量が僅絞られ薄暗くなる。
ふと優衣がつられるように空を見上げれば、まるで月を背負うかのように空高く跳躍した獣の姿があった。
その影が見る見るうちに近づき、倒れている優衣と重なり合う。
慌てて転がるようにして避けた瞬間、近くに爆弾が落ちるような暴力的な衝撃が襲い掛かり、優衣の小さな体躯は軽々と吹き飛ばされ電柱に打ち付けられた。
肺から空気が搾り取られ、息さえできず苦痛に歪める顔を、獣は色のない瞳でただ見つめている。
あたかも、獲物をもてあそんで楽しんでいるかのように。




