変わりつつある日常
それから暫くの間、優衣はひたすらハードな日常をこなすことになった。
学校には相変わらず男として登校している。
今は父親が戸籍上の問題を穏便に解決すべく、記者として得た様々なコネを当たって策がないか模索している最中なのだ。
果たして穏便に変えられるような手段があるのか甚だ疑問である上に、優衣としては男子として登校する方が好ましいのだが、好ましさと適正は必ずしも一致しない。
男子生徒と混ざって体育をする事は問題ないとしても、男子として一緒に着替えるのは問題があるからだ。
本人の意思、というより、倫理上の体裁として。
ただその事を学校側に説明するためにはどうしても戸籍上の性別を書き換える必要がある。
相応の納得できそうな理由を用意して、だ。
優衣の身に起きた現実を突きつければ変わってしまっている事実があるのだから少々強引とはいえ戸籍を書き換えることは難しくない。
だが話が大きくなる事は間違いないし、それによって周囲に好奇の目線を向けられることは父親にとって何よりも避けたい選択だ。
フリーの記者という仕事の中でプライバシー問題がスクープの為におざなりにされていることを何よりも知っているのだから。
一見無謀に思える行動だったが、父親は何か確信を持っているのか大丈夫だと大きく頷いて見せた。
そして放課後には光輝と精霊、サラマンダと魔法の訓練が行われる。
『敵の探知はもうできるな?』
優衣は一度頷いて目を閉じてから、世界に一滴の雫を落として波紋を広げていくようなイメージを作り出す。
魔物の放出している魔力と反応することで位置を割り出すことが出来るという、何とも親切な魔法だ。
時々無自覚に魔力を放出している人間も引っかかるが、魔物の規模と比べれば遥かに小さいので判別は付く。
『光輝はこの程度を習得するのに1週間はかかったというのに……。やっぱりお前が特別ダメなんじゃないのか?』
「またそれかよ! 誰か新しい魔法使い連れて来い! 俺が普通だって証明させてくれっ」
喚く彼の声にサラマンダと優衣が苦笑するのも、もう慣れてしまった。
実際、優衣の習熟速度は魔法の親和性の高さから圧倒的に速い。
綿が水を吸い込むように1から10を理解するほどの異常さだ。
だが幾ら魔法の習熟速度が速くても、高すぎる潜在魔力故に強力な魔法は暴走してしまうため一切使用出来ない。
ここまで覚えたのも極基本的かつ初歩的な魔法くらいだ。
自分の内側で発動させる類の魔法はどうにか制御できるようだが、外に打ち出す魔法となるとてんで制御できない。
一流のスナイパーにスリングショットを装備させたのが優衣、最高級のスナイパーライフルを持っている猿が光輝というのがサラマンダの弁だ。
サラマンダはその事実をひたすら残念そうに、同時に役目を放棄して消えたアウローラに怒りを振りまいていた。
優衣の攻撃手段は作り出した剣による物理攻撃に決まったのだが、ここでも問題が一つ出てきている。
光輝はもとより運動神経がいい上に、3年という短くない時間をかけて身体強化を極自然に扱えるよう訓練してきた。
だからこそ先の九尾との戦闘で披露した、高速かつ変則的な攻撃が出来るのだ。
一方優衣はお世辞にも運動神経が良いとは言えない。精々が並み程度だ。
身体強化にしろ、魔法の制御が出来るとしても、そこから生まれる爆発的なパワーを制御する為には魔力や親和性でなく、バランス感覚や生来の運動神経、使い続けた期間が大きく影響を受ける。
近接戦闘で光輝と模擬線をした場合、優衣は10秒ともたず手加減した光輝に負け判定を貰う日が続いていた。
剣を振るう姿もどこか滑稽で全くさまにはなっておらず、実戦を戦えるはずもなかった。
かといって本来得意なはずの射撃系の魔法も使うことは出来ない。
『剣の威力だけは高いのだがな……』
圧倒的な魔力が凝縮された刀身は触れるものをほぼ際限なく切断する。
試しに廃ビルの階段の一角に向けて剣を走らせたところ、見事というしかない切断面を残して階段は真っ二つに断ち切られた。
「でも、当らないと意味ないもんね……」
光輝の圧倒的な速度とフットワークを前に、優衣の攻撃は今までで一度たりとも当ったことはなかった。
まさに猿と形容していいほどの異常なすばしっこさは天性の才能なのだろう。
『二人の能力を分け合えば凡そ完璧といえる術者になりそうなものなのだがな……』
結局優衣はもし魔物が現れた場合には結界を展開して周囲の安全を守るという、後方支援に落ち着くことになる。
「なんかごめんね、光輝ばっかり危ない目に合わせちゃうみたいで」
心底申し分けそうに告げる優衣だったが、光輝はさして困っている様子はない。
「今までずっと一人だったんだ。誰かがいてくれるだけでも大きいよ。それに、もう今まで見たいに町を壊さなくて済みそうだしな」
『音や衝撃、中の様子を漏らさぬ結界を展開することもできるようになったからな。これであれば他人を巻き込むことも少ないだろう』
「うん、頑張るよ」
そう言ってはにかむ様に笑う優衣に、光輝はほんの少し目線を逸らした。
そして帰ってくれば雫による女性としての行動の講義が待っている。
優衣にとって一番疲れるのはこの時間だが、兄の為を思って一生懸命教える妹を無碍になど出来ない。
性別が変わっても今までと何一つ変わらずに接してくれているとなればなおさらだ。
優衣だってそこまで思ってくれる妹にありがたいとも思っているのだが、だからといって精神的に受けるダメージは減ったりしない。
考えても見て欲しい。15の男子高校生が年下の妹に女性のイロハを教えてもらう光景を。
その時に抱く兄としての感情を。
生まれながら疑いなく持ち続けてきた性別という基盤をごりごりとドリルで削られる痛みを。
それが生活にどうしても必要な知識であれば、まだどうにか受け入れることもできよう。
自分を騙し偽り心を無にして知識を吸収することも出来よう。
だがここ最近は必要なことを教え終わったのか、雫の趣味が多分に混入しているような気がしていた。
「と、言うわけで今日はこの服の着方を教えるね」
かつて優衣が性別が変わったことを話したくないとしていた理由が、パンドラの箱宜しく詰まっているクローゼット。
雫が取り出したのはそんなクローゼットの奥深くに封印されていた、いつだってそばに這い寄ってくる絶望の欠片。
懸念は見事に現実になっていた。
「お兄ちゃん、男だから着れないって言ってたし。じゃあ今は着れるよね?」
かつて自分が何気なく口にした一言を猛烈に後悔する。
どうしてあの時自分は性別が変わってしまう可能性を考慮しなかったのか。
もはや何を言っているか分からないのだが、優衣は至って真剣にありえない"もしも"を考えずにはいられなかった。
にじり寄る雫に比例して優衣は一歩後ろに下がる。だがここは狭い部屋の中、逃げ場などどこにもない。
出口はきっちりと雫が抑えているし、窓から出るにしてもここは1階じゃない。
「似合うから大丈夫だって。それに着れないと困ると思うよ?」
「何に困るって言うの……?」
別に女性向けでない、どちらが着てもおかしくない服などいくらでもある。
サイズはともかく、男性用の服を女性が着たとしてもそれ程おかしくないはずだ。
そもそも服は着たいものを着るべきであって、性別にあわせる必要などない、と優衣は思っている。
「お兄ちゃん、お父さんが戸籍を変えたら外でも女の子になるんだよ?」
「それが、何か……?」
「学校の制服はスカートです」
雫の言葉に優衣の姿が固まる、が、しかしすぐに気を取り直した。
「校則には制服着用って書いてあるだけでどっちを着ろとは書いてない!」
高らかに宣言する優衣の言葉に思わず雫が一歩下がった。
「それ、普通は逆の立場で使うものじゃ……」
「知るもんか! 大体どうして雫はボクに服を着せたいのさ……」
真面目には答えてくれないだろうと思いながら飛び出した質問に、雫は持っていた服をぎゅっと胸に抱いた。
その顔は酷く真剣で優衣は思わず息を飲む。
「お兄ちゃんはもう少しか弱くなるべきだから」
「……はい?」
飛び出した言葉の意味が掴めずに思わず首をかしげる。
「昔からそうだった。何でもかんでも全部自分でやろうとして、無理するの。見てる方は怖かった。もう少し他人を頼らないといつかどうにかなっちゃう気がする」
思いがけない真剣な言葉に優衣の動きが止まった。雫はその隙に傍へ寄ると優衣の肩を掴んでそのまますっと押し出す。
抵抗を示すには遅すぎた優衣の体はバランスを崩し、来るべき衝撃に備えて勝手に目を強く瞑るのだが、背後にあったのは柔らかなベッドだった為、軽い音を立てて身体を沈み込ませた。
優衣が目を開けて起き上がるよりも逡巡早く、雫は肩の位置で投げ出された両手に指を絡ませると体重をかけて押さえ込む。
目を開けた先には見慣れた妹の顔がすぐ近くにあって、優衣は思わず息を飲んだ。
それから不思議そうに見上げると、雫は真剣な表情のままで口を開く。
「今までは男の子だったからどうにかなったかもしれない。でも今はどうにもならないかもしれないよ?」
それからこつん、と自分の額を優衣の額に押し当てた。
「曲がったことが嫌いなのも、どんな人にも動じないのも全部知ってるけど、相手が悪い人だったらどうするの? お兄ちゃんは私さえ振りほどけないんだよ?」
その一言に思わずむっとして力を篭めて押し返そうとするけれど微動だにせず、驚いたように瞳を開ける。
当たり前だ。この体勢では腕に力が入りにくい上に、身長も10センチ以上違うのだから。
有利なポジションを取っている雫に勝てるはずがない。
一瞬魔法による身体強化を発動させようか悩んだが、何となくそれはフェアではない気がした。
「お兄ちゃんは無防備すぎる。こういうの着てれば今の自分を自覚できるでしょ? それにね……」
ともすれば泣き顔にも見えそうな、悔しそうにしている優衣の顔を見て雫はくすりと笑うと絡めていた指を離してベッドから起き上がった。
落としてしまった服を手に取ると、その顔にはもう、先ほどの真剣な様子はどこにもなく、晴れやかな笑顔が浮かんでいた。
「妹を愛でたかったの!」
「結局それなの!?」
コロリと変わった態度に思わず優衣が叫ぶ。
「正装が必要なレストランとか……」
「いきません!」
「もしかしたら好きな人が……」
「できません!」
「劇とかでお姫様を……」
「やりません!」
「デートとか……」
「ありません!」
「私が着て欲しいって言ってるの!」
「逆切れ!?」
結局優衣は雫に押し切られ無駄な知識を一つ教え込まされてしまった。
悪戯っぽく笑いながら今日一日はそれを着ていること、という難題と一緒に。
一人になった室内で優衣はぼんやりと雫の言った一言を思い出す。
「他人を頼れって言われても……」
どこまでが頼っていい部分で、どこからが駄目な部分なんだろうか。
優衣には無茶なんてしてきた覚えは殆どないのに、雫にはいくつも心当たりがあるようだった。
「無防備って言われてもなぁ……」
雫なりに自分の事を心配してくれているというのは優衣も分かっている。
それを自覚するために女らしくしてみろ、というのも、ある意味では正当なのかもしれない。
でも今の優衣には大概の事をどうにかできる力がある。
比喩でもなんでもなく、それこそ武装したテロリストを前にしても傷一つなく制圧してしまうほどの圧倒的な力だ。
とはいえ何も知らない雫に、自分はどうにでもなるから大丈夫と言った所で信じやしないだろう。
魔法の力のことを教えるのも躊躇われた。
ただでさえ性別が変わったことで迷惑をかけているのに、これ以上上乗せしたくない。
まして一般人を相手にここまで心配してくれているのに、実は魔物と戦っていますなんて知られればどこか遠くに監禁されかねない。
それでなくとも二人に今以上の余計な心労をかけることになるだろう。
となると、雫の心配事を納得させるには彼女の口上に乗るしかない。
雫の言う自覚とやらが芽生えるまでの間はそれっぽい姿、限りなくふぁんしーなパンドラの箱の中身を着るしかない。
「パンドラの箱の中に希望がないのはどうしてですか……それからできれば絶望さんには今すぐどこかへ飛び散って欲しいです」
魔法のことを教えるのと、雫の言うことを聞く方。どっちが彼女に心配をかけないかははっきりしていた。
小さな溜息と共に優衣は心を決める。家の中だけでなら暫くは雫に付き合おうと。
もしこの場に雫がいて、優衣の考えを知ることが出来たなら殴られても文句を言えない思考だ。
それはつまり、自分よりも他人を優先したということ。
それこそが雫の言った"何でもかんでも全部自分でやろうとして無理をする"という行為に他ならないのだから。




