旅行一日目 夜
食事が終わるといよいよ進路ガイダンスが始まる。
シラバスと銘打たれた厚手の冊子が順々に配られ一ページ目の心構えから順を追って説いて行く。
シラバスというのは今後の授業の学習計画が書かれた資料だ。
3年分の全ての選択可能単位の詳細とその授業を一年間受けることで得られる単位数、受講に必要な条件や注意事項などが事細かく書かれている。
1年は芸術の内、美術・音楽・書道の内から一つ選ぶだけで後は全て必修科目が詰まってしまうからいいのだが、2年になると選択の幅は全授業の半分近くにも及び、どういった単位を取るのか随分悩むことになる。
2年になって選択を終えてしまえばもう取り消すことは出来ない。
後悔しない選択をするためには将来何になりたいのか、どこへ行きたいのかを明確に決めておく必要があった。
1年生という時間はその為の猶予なのだ。
想像以上の科目数に生徒たちの視線も真剣にならざるを得ない。
これだけしっかりとした資料があるのならば説明などなくとも単位に関しては全て自分で調べることが出来る。
それはつまり、何か間違いがあっても全て自己責任になるという意味も含んでいた。
今日は概要と冊子の配布だけ、前哨戦にもならない話だったのだがガイダンスは1時間に及んだ。
時間はもうそろそろ9時になろうとしている。
解散の合図の後、門限を遅れてしまった生徒はその場に残され、去っていく生徒へ羨ましそうな視線と欠伸を投げかけていた。
優衣は講堂を出る人影の合間を器用にすり抜けていち早く部屋に戻ると着替えとタオルを持って1階へと走る。
今ならば教師はまだ説教に足止めされていて風呂には誰も居ないだろうと考えたからだ。
そっと中を確かめてから脱衣所に入れば衣服が入った籠がないどころか電気さえ付いていない。
着ている服を手早く脱ぐと鏡に映った自分の姿を見ないよう気をつけつつ風呂場へと足を運ぶ。電気は消したままにしておいた。
人が入ってきてから多少の猶予を得るためにも扉が間にある露天風呂を選び、外に備え付けられている洗い場で目を瞑りながら身体と髪を洗う。
ようやくさっぱりしたことで多少心に余裕が生まれたのか、誰か着てもすぐに羽織ればいいやと、大き目のタオルは傍において生身で湯船に身を沈めた。
外に作られていることで冷めてしまう事を考慮に入れているのか、風呂のお湯は少し熱めではあったものの思わず溜息が漏れた。
風呂の中に設けられた段差に腰をかけて空を見上げると数え切れないくらい沢山の満天の星が瞬いている。
四籐の空も綺麗ではあるのだが流石に負けたといわざるを得ないだろう。
目を細めながら気持ち良さそうに空を見上げて星座の形に星をなぞる、長閑なひと時を楽しむ。やはり露天風呂は夜に限る。
だが次の瞬間、中の風呂場の扉が開けられる音が僅かに響き、優衣は慌てて露天風呂から身体を引き抜いた。
しかし完全にリラックスして肩まで使っていたせいか、急に冷たい外気に晒されたことで全身を締め付けられるような感覚が襲い、ぐらりと視界が揺れる。
(こんな時に立ちくらみってっ)
回る視界の中でどうにかタオルを拾おうとするが思うように動けない。その間にも足跡は容赦なくぺたぺたと音を立てながらこの露天風呂に近づいていた。
電気が付いていないことを考えれば、それが生徒である可能性は高い。
露天風呂に入った誰かが夜空を眺めつつ誰も居ないうちにもう一回と思う可能性まで考えていなかったのだ。
咄嗟に髪を纏めるのに使っていた手ぬぐいを引き抜く。
ぱさりと宵闇に白の粒子が一瞬だけ舞うと小さな体躯を包むようにはらりと落ちた。
露天風呂の扉が開く。ひとまず立ちくらみが収まってからばれないように去ろうと決めた優衣の前に現れたのは見慣れた赤い髪。
「あ、やっぱりこっちにいたのか」
よく知っている声が、まるで初めからここにいることを知っていたかのように言う。
「こ、光輝!? どうしてここにっ」
「いや、先生の手伝いしてたんなら夜に入るのかと思ってな。それになんといっても露天風呂だぜ? 満天の星が見れるシチュエーションを逃すわけには行かないだろ」
実に光輝らしい理由を告げると彼はそのまま外に備え付けられている洗い場に座った。
「寒いし、中で洗えばいいんじゃないかな……?」
直接言うのは躊躇われたため、暗にここから離れてくださいという意味をこめたのだが光輝は「そんなに寒いか?」という、本当に、どこまでも彼らしい理由を口にするだけで意図に気付くはずもない。
「ていうか、そこで蹲って何してんだ?」
どうせならそのまま頭でも洗って目でも閉じてくれればいいものを、という優衣の心の声はやっぱり届かなかったどころか、今更のように風呂場の一角で背を向け丸まっている優衣に訝しげな声を上げる。
「立ちくらみなら一度戻って下半身だけでも浸かってたほうがいいぞ。……大丈夫か? 必要なら脱衣所まで運ぶぜ」
「いいっ! 大丈夫だからっ」
それどころかありがたいアドバイスと提案までする彼の好意を全力で否定するとようやく視界が安定を始めた。
まだ少し痺れを感じつつもどうにか動くようになった手足でバスタオルをしっかりと身体に巻きつける。
光輝の様子を横目で確認しながら立ち上がって入り口に向かおうとした瞬間、間の悪いことに目ざとく復活を見届けた光輝がハンドタオルを片手に悪魔の提案を口にした。
「よし、背中流してやるよ」
ぴしり、と優衣の顔が固まる。
だがそんな優衣の様子など光輝は全くお構いなしに、てきぱきと新しい椅子を持ってきて固まってる優衣を引っ張ると座らせた。
逃げ道は完全に塞がれていた。もし目の前にドアがあったなら躊躇わず逃げ出していただろうが、ドアがあるのは光輝の方向だ。
このまま立ち上がって走り去ろうとした際、不意にタオルを掴まれでもして剥がれ落ちれば何もかもが終わる。
焦燥と混乱でぐるぐると渦巻く頭でどうにか良い手がないものかと必死に考えるが、安全に逃げる手立てなど残されてはいない。
怪しまれずに逃げ出すために残された手はたった一つだ。
勿論危険と紙一重の綱渡りになることは想像に難くない。しかし方法がこれしかないのもまた事実。
椅子に座った優衣のすぐ後ろでは光輝がボディーソープをタオルにとって粟立てている最中なのか、布がすれる音が絶え間なく聞こえてくる。
相手のことが見えないことで想像以上の不安が襲ってくる。やがて擦れる音が聞こえなくなると光輝が不思議そうに言った。
「なぁ、なんでタオル撒いてるんだ? というかそれじゃ流せないぞ」
ここまで来ては覚悟を決めるしかなかった。
優衣が震える手で強く握り締めていたタオルを解く。白い布がぱさりと床に落ち、新雪を思わせる真白な肌が月と星の光を受けて煌いた。
それは余りにも幻想的な光景で、ともすれば溶けて消えてしまうかのような儚さが漂うものだった。
相手が見えないことで不安が襲ってくる一面もあるが、相手に顔を見られないことで隠し通せる物もあるのだろう。
耳まで朱色に染まった優衣の顔を背後に立つ光輝が知る術はないのだから。
優衣が背中を洗い易いように流れていた髪を持ち上げて肩から前に流す。白い肌の密度が増した。
電気が付いておらず薄暗い露天風呂ならば、背中を見せたくらいなら、恐らく光輝は気付かないという希望的観測。それが優衣の出した結論だった。
「んじゃ洗うぞー」
大博打はひとまず順調な滑り出しを見せたようだ。
光輝は優衣の燃えるような羞恥心など知る由もなく、普段とまったく変わらない。
泡立てられた手ぬぐいが優衣の白い肩に触れ、
「ひゃんっ」
途端にか細い悲鳴が上がる。
「ごめん、ちょっと冷たくて驚いただけ」
優衣は慌てて言い訳をするのだがその声はどこか上ずっていた。
「すまんすまん、なんかお湯が出にくくてさ」
一度触れて慣れてしまえばどうということはない。だが擦り始めた光輝の腕に、またもや優衣から複雑な悲鳴が漏れた。
「ちょっと痛いかも……」
「マジか、これでも抑えた方だったんだが……他人に対する力加減って言うのは難しいな」
光輝にしては複雑な感情が篭った言葉だった。
けれどすぐにもっと力を緩めて背中が擦られる。今度は優衣にとって心地よささえ感じる丁度いい力加減に変わった。
万が一にも正面を見られないように背中を丸めながらも身を任せるのはどうにも不思議な感覚だ。
いつもなら他愛のない会話が流れるのにこの瞬間だけは互いに何も語らず、布の擦れる音だけが夜の闇に吸い込まれていく。
「どうして黙ってるの?」
このままでは緊張感が続かないと思った優衣が気を紛らわすためにも何か会話をしようとする。
「集中してないと力加減が難しいんだわ」
だがその返事は笑ってしまうくらいおかしなものだった。
「なにそれ」
噴出すように少し笑みを零した優衣に、しかし光輝は何も答えなかった。
場を和ますための冗談の類にしては、今この場で口にする必要はない。
それに、タオル越しに伝わってくる光輝の腕の感覚はまるで壊れ物を扱うかのような慎重さを伴っていた。
そこにあるのは友人としての気遣いなのだろうか。まるで針を通すように慎重に力をかけているタオルが上下するたびに、暴れまわっていた心臓の鼓動は不思議と収まっていった。
やがて終わったという光輝の声と共に暖かいお湯がかけられ泡が流される。
寒いからという理由で再びタオルを纏うと、優衣は光輝へ向き直った。あれだけ染まっていた頬の赤みは影も形もない。
「今度はボクが流すよ」
このまま脱衣所に向かい急いで着替えてしまうのが一番いい方法だと知りながらも優衣はそう決めていた。
思えばここ最近、光輝のことをずっと避けていた節がある。
知られてしまうことで距離をとられてしまうことが何よりも怖かった、というのが最たる理由である。
でもこうして自分から距離をとってしまったのではどちらも変わらない。自分が傷つかないために逃げているだけなのだ。
それで相手を傷つけていたのでは目も当てられない。
話すことは出来なくても友達で居ることはきっとできる。一番は話してしまうのがいいのだろうが、その決心はまだ付かなかった。
それに、優衣は先ほど光輝から漏れた言葉と態度が普段の彼とどこか違っていた気がしたのだ。
何が違うのかと問われても正確にはわからない。でもこういう時の勘は良くあたる自信があった。
「さんきゅ」
光輝の背中は優衣のものよりずっと広かった。こころなし、所々に傷のようなものが見える。
どうしたのかと聞くのだが、男なんて自覚なしに傷が増えてるものだろう? という問いに、男だった優衣は何とも答えられなかった。
「どう? 丁度いい?」
「そうだなー、もう少しかねぇ」
そこそこ力を入れているつもりだったのだが光輝にとってはいまひとつだったらしい。ならば、と体重をかけるようにしてゴシゴシと洗っていく。
「おぉ、丁度いいかも」
一体どういう肌をしているのか、かなり強い力を篭めているにも拘らず光輝は気に入ったようだ。
なるほど、普段このくらいの力が掛けているとしたら、他人への力加減はさぞ難しいことだろう。
いや、そもそも力に関わらず、他人に対する加減というのはとても難しい行為だ。
「きっとね、他人に対する加減が難しいのって、誰だって同じだよ」
光輝は何も答えなかった。だから優衣もそれ以上は何も言わず、彼の背中を洗い続ける。
やがて一通り洗い終え湯をかけている最中、光輝は小さな声でさんきゅ、と漏らすのだった。
それが何に対しての礼だったのかは、細かく告げなくとも優衣にきちんと伝わっている。何せ二人は親友なのだから。
身体を洗い終えた後、一足先に風呂から出た優衣はドライヤーで髪を乾かしながら光輝が出てくるのを待つことにした。
このまま戻ってしまえば風呂場には光輝しか残らない。
後から教師が来れば時間外に風呂に入っていたとして怒られるのは間違いないだろう。
いざという時は暗くて怖かったから一緒に来てもらったという、高校生にしてはお粗末な言い訳も考えてはいた。
だが説教が長引いているのか、彼が風呂から出てきても教師がやってくる気配はない。
ならばわざわざ言い訳を口にして恥をかく必要もないだろう。とっとと部屋へと戻る。
時間は10時を回っていたが部屋に居た4人はまた影人の厨二台詞を元に大盛り上がりだったらしい。
部屋に入るなり傅かれる経験など早々あるものではないだろう。
やがて消灯を確認しにきた担任にも全開の厨二トークで絡むという前代未聞の珍事を巻き起こしてからようやく床についたのである。
一方、同時刻、3階の香澄、香奈、萌達の部屋では布団の中に潜りながら談話を続けていた。
同室には同じクラスの生徒が他にも3人いてやはり6人一部屋になっている。
日々の愚痴から始まって最近できたお店、流行の番組など話題は次から次へと巡っていく。
けれどやはり一番の興味を惹くのは恋愛がらみの話題だろう。
既に彼氏がいて付き合っているという一人の女子の惚気話から始まり、誰かいい相手がいないかという話が転がり、クラス内の男子の総評に移り変わった。
「前から気になってたんだけど、一之瀬さんって春原君と付き合ってるの?」
クラスの女子の一言に、香澄は苦虫でもすり潰したかのような渋面を作って見せる。
思わず尋ねた女子だったがその顔を見てあぁ、ないなと言うことは返事を待たずとも理解できた。
顔に書かれていたのは"またそれか"という諦観である。
「あれとは幼馴染ってだけ。昔から会えば喧嘩ばっかりしてた」
香澄と光輝は子どもの頃から意地っ張りだった。誰かに負けたりするのを嫌っていた二人がぶつかったのは自然の摂理である。
成長と共に意地っ張りな性格は治っていったのだが、光輝だけには今も負けたくないと強く思っている。
「かすみんが好きなのはその隣にいる方だもんねー」
香奈の冷やかすような声色に香澄は肯定も否定もしない。
月明かりの差し込む部屋は薄暗くて、少しだけ頬が赤くなったことは誰にも気づかれなかった。
「マジで!? 月島さんは見てる分にはかわいいんだけど、付き合うのは無理かなぁ。何もかも負けてるもん」
「彼の4月の健康診断の結果知ってる? 身長151に対して体重の割合がおかしいの。見てると自信なくすよ……」
「初めて見たとき制服着てたけど女の子だと思ったもの。彼氏の制服着ましたーって子は見ててちょっと痛々しいけど、あの子の場合似合いすぎてて逆にすんなり受け入れちゃったし」
それが男だと知った時の驚愕は、外部組が一番初めに受ける洗礼なのかもしれない。
「あと顔がいいのっていえば神無月君……?」
話題はまた転がり、外部組ではあるが一月で校内どころか校外にまで知れ渡った生徒の名前があげられる。
だがやはりというか、彼に関する評価はあまり高くない。
「ちょっと性格がねー……大学生になるころには収まるんじゃないか、な?」
「もしそうなら大学で彼と出会うのが正解ね。高校の時の姿を見ちゃうとちょっとね」
常に全力の厨二病を発揮する彼は道化として見る分には面白い分類なのだが、というのが共通の見解だった。
「菅原さんはよく手綱を握ってられるよね」
影人の名前が出ればみんなの視線は自然と香奈に向かう。
ただの痛かった人物が愛されるようになったのは彼女の功績と言えるかもしれない。
「んー、あれって実は割と常識人な気がするんだよねー」
香奈は思うままに言ったのだが、クラスの女子は何の冗談とばかりに盛大に声をあげて笑った。
「それ、菅原さんも毒されてきてるよ、絶対に」
「常識人だったら放っておかないし」
「実は彼のことが好きだったりするとか?」
口々に囃し立てるクラスの女子だったが、香奈は少し考えてからいつも通り笑って答えた。
「恋愛は興味ないですからねぇー」
強がったり隠したりしている様子はどこにもない自然なもので、3人は残念とばかりに話題を切り上げた。
そこへ突然、部屋の扉が開く音と一緒に、見回りをしていた教師の窘める声が響く。
「楽しいのは分かるけどそろそろ寝なさい」
間延びした返事を返しつつ枕元の携帯を眺めれば時間は既に12時を回っていた。
流石に話しすぎたかと誰ともなく自分の布団に戻り、おやすみの一言と共に部屋は静寂に包まれた。
(んー……)
周りが目を閉じる中、香奈だけは一人、闇に慣れた目で天井をじっと見上げている。
どうしてか分からないが突然思考の奥底に捨てきれない靄のような物がかかっているのが気になったのだ。
十数分ほどそうしていただろうか、香奈はおもむろに布団から起きあがると2、3度頭を振ってから部屋から出て行った。




