260話 瑪瑙エリザベートは畏れを抱く
瑪瑙家の屋敷。瑪瑙エリザベートは落ち着いた上品な内装の自室でソファに座り、難しい表情で自身の手をためつすがめつ、じっと眺めていた。
綺麗に磨かれた爪は健康的でマニキュアすらいらないほどだ。伸ばした指は白魚のごとく美しく、傷一つない。
「わたくしの誇りとも言える古傷もないですわね……」
かつての訓練で培った努力の賜物がどこにもないことに少し寂しさを感じて、微かにため息を吐く。
自宅に帰ってから、自分の裸を確認したが、訓練を重ねた証の古傷もなく、それどころかホクロすらなくなっていた。
白き肌は水を弾く若々しさと艷やかさを持っており、身体は絶好調で悪いところ一つない。
「回復魔法の力……。でも、本当に癒やされたのかしら?」
疑問を口にして、眉をひそめてしまう。
お父様が仕掛けただろう炎の罠は致命的であり、エリザベートは激痛と共に自らが死んだとあの時理解していた。
たとえ回復魔法でも、恐らくは燃え尽きて灰となった自分を回復などできないのではなかろうか。
だのに、今の自分は前よりも調子が良い。いや、そんな言葉ではすまない。
明らかに魔法の力が上がっていると感覚で理解している。一回り自分が強くなったような………。
もしくは一から作られたかのような……。
「いえ、そんなことがあるわけありませんわ。考え過ぎと言うものですわね」
なにかが変わったと、エリザベートは違和感を覚えていたが、気のせいだとかぶりを振った。
「まさか……そんな、人間を一から作るなんて、神様でもなければ不可能ですもの……」
炎に巻かれたあとのことを思い出し、身体を僅かに震わせて肩を抱く。
そこでは自身は死んでしまい、魂となって枝葉の一つに辿り着き、果物のように生っていたのだ。
そう枝葉があったのだ。
闇の中で美しき黄金の枝葉が空間を埋め尽くすかのように存在していた。黄金の枝葉は常に成長を続けており、闇を照らして輝いている。
その場所にて、エリザベートは虚ろな意識で枝葉の上で止まっていた。
美しいと、その光に照らされて安心できると、安らかな気持ちであった。
だが、気づく。いつの間にか完全なる闇が存在していたのだ。
黄金の枝葉が闇の世界を埋め尽くし、神秘的な光で煌々と照らしている中で、完全なる闇はあった。
なぜかその闇には黄金の枝葉は近づかなかった。黄金の光は届かず、その闇を照らすことはなかった。
その闇が歩き始めると、周囲の枝葉が伸び始めて止めようとする。
だが、その闇は絡んでくる枝葉をあっさりと払っていく。黄金の枝葉は千切れて消えてゆく。
そうして千切れた枝葉はいつの間にか消えてゆく。いや、闇に取り込まれていく。
そして、安らかに眠っていたエリザベートを無造作に掴む。
闇はいつの間にか少女の姿をしていた。なぜか完全なる闇の中にいるのに、その姿がはっきりと見えたのだ。
艷やかな灰色髪に、深い青色の瞳。幼さを見せ、庇護欲を感じさせる愛らしい顔立ち。小柄な体躯は小動物のようにか弱さを見せてくる。
それは普通の少女だった。たしかに可愛く愛らしい見た目で、通りすがりの人ならば振り向くだろう美少女だった。
脅威も恐怖もその少女からは感じられなかった。
………だからこそ、畏れを抱いた。
人がいてはいけない世界にぽつんと存在する少女。その異様さに。無邪気な顔でエリザベートを覗き込む少女の姿に。
黄金の枝葉が齎す優しき輝きが届かないのに、平然と闇の中に存在している少女に。
それは鷹野美羽だった。
なんでもないかのように、ちょっとしたつまらない用事を片付けるかのように、エリザベートへと手を伸ばし………。
「ふふっ、馬鹿げた妄想をしてしまいましたわ。まったくわたくしとしたことが」
手の震えを気づかないかのように、目をそらし立ち上がる。これ以上、馬鹿な妄想をしている時間はない。
鷹野美羽に畏れを持つなどあり得ない。
彼女が人ならざる者であるなど妄想に過ぎない。
きっと死ぬかもしれない瀬戸際で回復魔法を受けたので、記憶が混濁しているのだろう。
それよりも鷹野美羽に負けたことの方が重要だ。頼まれたことをやらなければならない。
「もう時間ですわね」
テーブルに置いてある魔法のベルをチリンと鳴らす。専属侍女へと伝わるベルの音が部屋に響き、少ししてノックの音がした。
「お嬢様、お呼びでしょうか?」
「えぇ、皆は揃っておりますの?」
「はい。新当主様と共に、主立った分家の方々も全員揃っております」
「そう。時間にはまだ早いと思うけど?」
チェストに飾られているクリスタルだけで作られた芸術品としても価値のある時計を見て、薄く笑う。
「このたびのことで、皆様は色々と話し合いが必要なご様子。まだお酒は出ておりませんので、ご安心を」
「わかったわ。それなら現実逃避しようとする酔っ払いたちが増える前にわたくしも参加しますわ」
頷き返すと、豪奢な赤いドレスを着て、絢爛なアクセサリーを身に着けたエリザベートは堂々たる態度で部屋を出るのであった。
美しき服や高価なアクセサリーに負けない美少女は、狼耳をピンと立てて、金髪ロールを靡かせながら、尻尾を振って廊下を歩く。
鷹野美羽とのレースから一週間経過していた。今日は家門の会議なのである。
仕事をしているメイドたちがエリザベートに気づき、頭を下げてくる。鷹揚に手を振りながらエリザベートは廊下を進み、微かに苦笑いを浮かべた。
メイドたちのエリザベートを窺うような視線を敏感に感じとっていたのだ。少し前までは、そんな失礼な視線はなかった。
格式ある侯爵家のメイドたちは、厳しい教育を受けているので、疑問があってもエリザベートたちにわかるような失礼なことはしない。
それだけ今の状況が逼迫しているという証だ。
コツコツと足音を立てて、しばらく進むと会議室が目に入る。
古くから使われている会議室からは、一切の物音がしない。防諜のための魔法がかかっているからだ。
「静かなように見えるけど、実際はどうなのかしら」
小さく呟くと、古き魔法木によって作られた重厚感がある扉をノックすることなく、手で押して開く。
目に入るのは、古い時代に一時期流行った毛足の長い絨毯が敷かれて、凝った刺繍の白いテーブルクロスが張られている長テーブル。アンティークの椅子に皆が座り、顔を合わせて侃々諤々の様子を見せていた。
開くと同時にその光景が目に入ってきて、予想通りですわねと、冷ややかな目つきへと変える。
騒がしかった皆が、一斉にわたくしを見てくるが、どこ吹く風と気にせずに上座へと向かう。
「エリザベート嬢、遅かったですね」
「あら? わたくしはちょうどだと思いますわ。いえ、反対にわたくしが遅れたから? どういったご意見を頂けるのかしら?」
強気な表情で、高慢そうに胸をそらして嫌味を口にしてきた男をジロリと睨む。
その威圧に負けた中年の男性が目をそらす。
小娘一人の視線にも負ける気概ならば、最初から突っかかってこなければ良いのにと、内心憤懣やるかたないが、口には出さずに兄の隣に座る。
兄である瑪瑙ロビンは、椅子に座ったわたくしの足を軽く蹴ると小声で責めるように言ってきた。
「遅かったじゃないか、エリザベート? 皆はとっくに集まってこれからのことを話し合ってたんだぞ?」
「お兄様? こういう時こそ泰然とした態度で時間通りに来て、皆に安心感を与えるのが重要ではなくて? 小物と同じように焦っていたら、新当主として軽く見られますわよ?」
「そ、そのとおり。そのとおりさ。ただ、今回は皆に歩調を合わせようと思っただけ。次からは上手くやる」
僅かに胸をそらして、顔だけは良いお兄様は、フッと笑う。その気取った態度にさらに言い募ろうか迷うが、結局わたくしは肩を軽くすくめるだけにとどめた。
お兄様は居住まいを正すと、コホンと咳払いをした。
お父様ならば、その咳払いで皆は静まり返り、顔を向けて注目してくるだろう。
だが、未だに当主になりたてのお兄様では、培った信頼も、頭から押さえつけることのできる力も持たないため、お喋りを止めてお兄様に向き直ったのは半分ほどの人数であった。
残る半分はお喋りをやめることはなく、さらにはお兄様の咳払いに気づきながらお喋りを続けており、嘲笑の笑みを口元に浮かべる者もいた。
僅かな間に、家門の結束はボロボロになってしまったらしい。本家の喉笛を噛みちぎろうと考えている者もいるに違いない。
ここはお兄様が新たなる当主として、強い力を持っていることをアピールしなければなるまい。
大丈夫かしらと、隣へとちらりと視線を向けると、お兄様は目を細めて威圧するように、薄っすらと笑みを作って、テーブルへと手を振り下ろす。
バンとテーブルを叩く音が響き、今度こそシンと部屋は静まり返った。
「どうやら僕のことに気づいてくれたようだね」
気取った様子で髪をかきあげて、キラリと白い歯を見せて笑う。ナルシストっぽい態度だが、ソレでも毅然とした態度だ。
「父上が心不全にて病死して一週間が経過した。これからは僕を中心として家門を盛り立ててくれたまえ」
「ハハッ」
とりあえずは、分家の者たちは素直に頭を下げて従う様子を見せたので、お兄様は満足そうに頷く。
これなら大丈夫そうですわねと、わたくしは内心で安堵するが、その判断は少し早かった。
「で、だよ。これからの方針を伝えておく。それはだ……打倒『猫の子猫』商会であることは変わらないが、それよりも優先して、憎き鷹野家を潰すために邁進しようと思う!」
「なっ……それは本気なのですか……当主様」
皆がお兄様の発言に驚く、代表として一人の男性が尋ね返す。
「当たり前ではないかね? これまで鷹野家には散々な目に遭わされてきたっ! 遂には父上が心労で亡くなる始末っ! ここでやり返さなければ、瑪瑙家の面子が立たない!」
バンバンとテーブルを叩いて激昂するお兄様に、頭痛がしてきて頭を抱えたくなる。
お父様がしたことを顧みれば、仕方ない結果だった。権力争いは貴族の常。怒るのは筋違いである。しかも直接的な行動に出て返り討ちにあっているのだ。
「お兄様? 本当にやり返しますの? あぁ、将来的にということですわよね?」
それならばまだわかる。殺されかけたわたくしはお父様に憎しみを持つが、お兄様は別だ。仮想敵にして、家門をまとめあげるのも悪くないかもしれない。
「ふざけているのかい、マイシスター? ……全力でやり返すに決まっているだろう! ここは家門の力を結集して、全力でやり返す!」
怒気を露わに睨んでくるお兄様に、あからさまにため息を吐くと、視線をしっかりと合わせる。
「それではご自由にどうぞ。わたくしは遺産を使い、新たなる商会を作ろうと思うので」
鷹野美羽との約束を守らなければならないと、わたくしは冷ややかな目つきで告げるのであった。




