142話 救い
闇があった。底知れぬ闇は腐った臭いがして、ヘドロのような汚泥でもあった。
身体にまとわりつく腐った闇。そして途轍もない激痛を常に感じている。
指の一つ一つが腐り落ちていくような、身体が酸で内部から溶かされているような、脳が削りとられているような激痛。
何も見えないのに、なぜか周りの様子がわかる。時にカプセルに仕舞われて、時に木々と融合させられる。
そして、自分の意思により身体は動かせない。
憎むべき敵に敗れたことは覚えている。身体が溶かされて、悍ましい姿に変えられたことも。
そうして何年経過しただろうか。最初は抵抗を試みていた。自分の身体をなんとか取り戻そうとしていた。
しかし無駄であった。
身体を弄られて、多くの実験をされた。
操られて、新たなる犠牲者を作ってしまった。
自分の力は矮小であった。『ゲルズ』を討伐しに向かった時は、自信に満ちていたはずであったのに、敗れた挙げ句、最悪なことに敵の尖兵へと改造された。
精神は耐えきれず、狂気の世界に閉じこもり、地獄の世界を永遠に暮らしていく。そう思っていた。
もはや自我はなく、苦痛と狂気の海に揺蕩うだけであった魂は、しかし急速に自我を取り戻しつつあった。
一条の温かい光が闇に射し込んできたのだ。
考えることをやめて、思うことをしなくなり、幾年月。
どれほど久しぶりであったかわからないが、その魂は意思を取り戻しつつあった。
遂に自分に天からの迎えがきたのだろうか? 愚かなる自分が救われるとは思っていなかった。
だが、その光はその魂の隅々まで浸透し、久しぶりの暖かさを感じて、涙する。
これで終わりなのだろうと、その優しき光に身体を浸し、心の底から安堵した。
『ミストルティンよ! トレントを自壊させよ!』
『快癒Ⅳ』
『精神快癒』
神の声だろうか。
やけに幼い可愛らしい女の子の声が聞こえてくる。その声と共に、光が大きくなり眩しさで目を瞑ってしまう。
「え? 眩しさ?」
瞼など存在しないはずであったのに、いつの間にか目を瞑っていた。そのことに気づいて、慌てて立ち上がろうとする。
立ち上がる? 足もなかったはずなのに?
ヨロヨロと覚束ない足取りで、その者は立ち上がり、よろめきペタンと地面に座り込んでしまった。
かさりと草の感触が返ってきて、慌てて手へと顔を向ける。
「手、手がある………」
もはや記憶も薄れていた自分の手があった。シワ一つなく、若々しい肌だ。
「え? 手……腕……顔が、身体があります!」
風に靡いて、前髪が顔にかかるので、かきあげてペタペタと自分の身体を確認する。
「戻ってる! 戻っています! 私の身体が戻っています!」
信じられなかった。元の身体があった。たしかに昔に『ゲルズ』に壊された身体が戻っていた。
その忌まわしき記憶を思い出すが、なぜか映画のシーンのように他人事のように感じて恐怖はあるが、たいしたことはなかった。あのホラー映画は怖かったと思い出す程度だ。
普通はトラウマになるのに、いや、そもそも自分は悍ましき恐怖の体験から、狂気に満ちて自我を崩壊させていたはずだ。
しかし、その記憶を思い出すが、同じように他人の記憶を覗いているようで、狂うほどの苦しみは感じなかった。
昔は大変だったな。その程度だ。
「なにがあったのでしょうか。もしや、ここは天国?」
周りを見渡すと草原であり、遠くに森林が見える。
見覚えのない場所だ。
自分以外にも8人が呆然とした顔で座り込んでおり、同じように自分の身体を触っていた。
ぼんやりとした頭の片隅で思い出す。
彼らは自分と同じく『ゲルズ』に敗れて、トレントにされた者たちだ。
『ゲルズ』は、それぞれが強力な魔法使いだと誇っていた。歳はバラバラで男性もいれば、自分と同じ女性もいる。
復活している。自分と同じく体も元通りになっているのだろう。
「えと……すみません。ここは天国ではないです」
気弱そうな少女の声が聞こえてきて、すぐに身構えようとするが……。
「あ、裸でした」
陽射しの下で、自分は裸であったと、恥ずかしさで顔を真っ赤にする。身体に染み付いた戦闘の記憶から、構えは解かない。
「あわわわ、だ、大丈夫です。ここに服がありますので着てください!」
自分以上に慌てる様子を見せるのは、美しい艷やかなプラチナブロンドの髪をセミロングにしている碧眼の女の子であった。15歳ぐらいだろうか? 背丈は160cm程度。スタイルはかなりよく、顔立ちは美しいが、気弱そうな目つきが、その美しさを減じていた。
流線型の魔導鎧を着込んでおり、莫大なマナを宿す神秘的な長細い槍を手にしている。
少女の手前には服が置いてあるので、慌てて受け取り着込む。他の8人も同様に服を手に取り、着込んでいた。
「女神ですか?」
「はい」
「………」
「あ、違います! あ、違わないんですけど、えーと……助けたのは私ともう一人です」
両手を顔の前で振って、わたわたと慌てるその姿は、少し可愛らしい。
「違うのではないか? 俺の感じた優しい光はあんたからじゃねえって、本能が、いや魂が言っているんだ」
「同意する。癒やしの魔法を使ったのは、そなたではあるまい?」
周りの人たちが非難の声をあげると、少女はますます慌てて涙目となった。
「そこは気にしないでください」
突然かけられた声に、今度こそ驚き、警戒してしまう。目の前の気弱そうな少女からは気配を感じるが、今の声からは、まったく気配を感じないからだ。
「誰ですかっ?」
体は軽く、元の力を取り戻している。なのに、声の主を見つけられない。
「皆さんを助けた者です! もーしわけありませんが、姿を見せることはできないんです」
幼い声音が聞こえてくるが、その声が助けてくれた人だと魂が理解する。
と、同時に片膝をつき、頭を深く下げる。
「わかりました。神様ですね! 神よ、どのような御名でお呼びすればよろしいでしょうか?」
尊敬と感謝の念を込めて、目を潤ませる。地獄から身体だけではなく、精神すらも救ってくれたのだ。
「神よ、ありがとうございます!」
「我が神よ!」
「お姿をお見せくれたまえ」
他の面々も跪き、感謝の言葉を口にする。当然だろう。なにせ、永遠に続くかと思われた地獄から救ってくださったのだ。
「あぁ、気にしないでください。それでですね、助けたのは気まぐれです。特にお礼はいりません」
どこからか聞こえてくる女神の声。礼はいらないと口にしてくださる。だが、女神様は気にせずとも、私たちはそうはいかない。
「どうか命を、いえ、運命を救ってくださった女神様にお礼を、いえ、おそばで尽くさせてください!」
「それは吊り橋効果というやつですね。一旦落ち着いてください」
「いえ、私は貴女に身を捧げます! 断られるのであれば、死を以って、身を捧げます!」
神に仕えると決めたのだ。断られれば、生きる意味がない。
「ギャー、なんでですか! せっかく身体を取り戻したんです。家族のもとへと、ただいま〜って帰宅してはどうですか?」
たしかに攫われて音信不通であったのだから、女神様の仰るとおりかもしれない。普通ならばだが。
「私が家を出た西暦は……」
かなり昔の話になるだろうと口にすると、女神様は押し黙った。そうだろう。たぶん最初に捕まったのは私だ。かなり昔の話となる。
それに私の家門は、家族愛というものがなく、ただひたすら魔法使いとしての生き方を強要してきた人たちだった。
今はまったく関心はない。女神に仕えるのだ。
「なるほど、それじゃ48年前ですね……」
他の人たちも、攫われた西暦を口にする。もっとも最近で12年前であった……。
「う〜ん、………わかりました。では、提案があります」
哀しげな声になる女神様だが、新たなる道を指し示してくれる。
「やはり家族の下へと帰りたい人は手を挙げてください」
「遠目に確認しておきたいのですが、よろしいでしょうか? 確認が終わったあとは女神様へとお仕えしたい」
「私もです。元気に暮らしているか、確認はしておきたいのです。無事であれば安心できます。その後は女神様へとお仕えします」
二人が手を挙げるが、戻ってくる気満々らしい。
当然だろう。私たちは女神に仕えるのだ。人としても、魔法使いとしても、これだけ嬉しいことはない。
「そうですか……。う、う〜ん、洗脳したみたいで嫌ですね」
「なにを仰るのですか! 私は地獄から助けてもらいました。断言します。絶対に洗脳などされていません!」
心外であると、女神様へと心の内を告げる。終わらない地獄から救ってくれた方に、洗脳してしまったと思われたくない。
皆は同じ気持ちであり、激しく首を縦に振っている。
「わかりました。ですが、私に仕えるなら、お願いがあります。試練とも言います。受けないで、普通に私に雇用されるだけのパターンもあります」
「試練でお願いします! なんなりと!」
「フレイヤがなんとかできると言うし…………フレイヤ任せました!」
胸を強く叩き、神の試練を受けると答える。どんな試練でも、クリアするまで絶対に頑張る。
「は、はひっ、えと、では魂へとと、問いかけます」
弱気な少女がオドオドと頷くので、どんな試練なのだろうと注目すると、スゥと目を細め、表情を真剣なものに変える。
纏っていた弱気な小動物のような空気は消えて、魂までが覗かれているような圧迫感を覚え、息苦しくなってしまう。
『これから貴方たちを選別します。英雄はヴァルハラへ、愚者は地上にて生きることになります』
魂に直接問いかけてくる恐ろしい重圧。普通の者ならば気絶していてもおかしくない。
体は震え、意識が朦朧とし始めるが、舌を強く噛んで意識を保ち、震える身体を叱咤する。
この目の前の少女も只者ではないと悟る。本当に神なのだろう。
『汝、英雄たるや? 仕える先は戦いの園、それでも良いか? 我が神に忠誠を誓うか?』
『はい』
躊躇うことはなく、魂が返事をした。絶対に裏切ることはないと誓う。
フレイヤと呼ばれた少女は、神秘的な光を宿して、私たちの魂を覗き込む。そうして、何秒だろうか、何分だろうか。緊張している私たちを眺めたあとに、満足そうな笑みを浮かべる。
『では、契約を行う。耐えられれば良し。耐えられなければ、地上にて暮らすことになるでしょう。この契約にて、貴方たちは私に雇われて、我らが神へと仕える一人となります』
スッと手を翳してフレイヤは一言だけ口にする。
『英霊契約』
私たちの足元に見たことがない魔法陣が描かれる。光が私たちを照らし、契約をするかと問いかけてきた。
『はい』
迷いなく応えると同時に魔法陣から黄金の粒子が生まれて、私たちを優しく包む。そうして、今までとは違う強き力が流れ込んできた。
強いだけではない。優しく包み込む力だ。
『契約は成立しました。今後ともよろしく』
「よろしくお願いします!」
試練はそれで終わりのようだった。簡単に思えたが、あの重圧に耐えられる者はそうはいないのだろう。
「えとえと、では、貴方たちは『英霊』となりました。これからは、唐突に召喚される時があるので、お風呂やトイレ時は気をつけてくださいね? そ、それと、私の力で強化されていますが、寿命とか変わりないです。ど、どうやらトレント化した時にまで、身体は戻っていますので、元の歳なんです。永遠の命とかではないので、注意してください」
「えっと……すみません、『英霊』になったのでは?」
なんだか聞く限りでは、あまり変化はなさそうだと拍子抜けしてしまうが、少女の目が危険なる光を宿す。
「『英霊契約』をしたので、危険なる時や、悪たる行動をとったときには、すぐに私にわかるようになるんです。なのでご注意してください」
なるほど、神との契約なのだ。当たり前だろう。神に背を向けるようなことは元よりするつもりはありません。
「で、では、今後ともよろしくお願いします。私の名前は『フレイヤ』といいます」
「私の名前は『ロキ』です。よろしくね!」
後ろから、声がかけられて振り向くと、少女が立っていた。
わかる。その姿から漏れ出す後光が。優しき光を魂が感じて、再び私は頭を下げる。
「私は湖畔の魔女『ニムエ』と申します。我が女神よ」
皆が契約できたらしい。恭しく自己紹介をする。
そうして私たちは、女神の使徒となったのであった。




