九 懐かしき猛犬の香るチ
***前回のあらすじ***
コアイは城塞都市タフカウの近郊で『神の僕』……勇者と呼ばれる者たちと対峙した。そして戦闘の末、僕たちのうち一人を取り逃がし、一人を倒し、もう一人を倒した……と思しきところで突然、その身体が変調をきたした。
死に体から立ち直った勇者の身体は、それとは別種の存在をコアイに伝えてくる。
「本当に、こんな日があるなんてなァ」
そういう女の姿は、過去に見せたことのない素直な笑顔をコアイに向ける。
「なん十年? なん百年? もうよくわかんねーけど、わるあがきはしてみるもんだァ」
姿こそ『神の僕』だの『勇者』だのと呼ばれていた人間の女のものだが、その口調、振る舞い、雰囲気はコアイに別の印象を与えてくる。
『魔獣の王』と呼ばれた男……私の、おそらく最大の好敵手だった男。最も長く闘った、『敵』。最後に闘ったのは何年前だったろうか?
ともかく、あの男によく似ている……そんな気がする。
あの時……私の暮らしを変えてしまった、あの男に。
コアイは黙ったまま、自身をキョロキョロと見て確かめるような仕草を繰り返す女の様子を眺めていた。
「ちょっとひ弱そうだが、体のおくにすっげェ力がたまってる……いい体だァ」
言葉の後に少しずつ、女の姿が変化しはじめる。
「ぬ…………?」
女の束ねられた黒髪が、白く鮮やかな銀髪へと脱色されていく。
女の細い腕に、華奢な脚に肉が集い、圧し詰められ、太ましい大木のようにめきめきと形作られていく。
手足の増量に呼応するかのように、それらとは不似合いになっていた胴にも筋骨が詰まり、逞しく膨れ上がっていく。
それに伴って、身体のあちこちで衣服が破れ弾け飛び……所々、締まりの良い肉体が露になった。
そして顔や、その他に皮膚が露になった部分では……体毛の薄い人間の肌に髪と同じ白銀の体毛が生え始め、うっすらと皮膚を隠していった。
いくらか違いがあるようではあるが、概ね『魔獣の王』の姿……
コアイの心は少しだけ躍る。
「お、おお……おおオオオォ!!」
女の姿……いや、『魔獣の王』の姿は両腕を下げて手足を拡げ、天に吼えた。
その開かれた両の掌、その先の指の、さらに先には……鋭利な爪が生え揃っていた。
いや、それは……けして揃ってなどいない。
各々の指から伸びた鋭く、長く、硬い爪は……ひどく不規則に、内側に外側にひね曲がっている。
コアイは、その爪のことを覚えている……人間、魔族の別を問わず多くの者が嫌がっていた、魔獣の爪のことを。
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『魔獣の王』。
コアイがクチュルク等の裏切りに遭い封印されるよりも数百年の昔……すなわち、コアイの前に大陸を席巻していた『魔王』である。
『魔王』は強く、逞しく、野蛮で、暴食と闘争を好んだ……またその性状に違わぬ、二足で歩む獣のような外見と手に生やした爪の評判から『魔獣の王』と綽名されていた。
『魔獣の王』の爪……内に外に、右に左にと奇妙に反り返ったそれを、多くの者が嫌悪した。
曰く、醜悪だと。曰く、無秩序だと。曰く、冒涜的だと。
その『魔獣の王』が君臨していた頃、コアイはというと……特に何もしていなかった。
付き従う者も従える者も無く、他に生命の少ない静穏な場所で眠り、気が向いたときには獣を追い、草木や鉱石を採り……興味が向けば旅をして……気儘に日々を過ごしていた。
そして時折、魔術書を探し求めたり、高名な魔術士を訪ねて闘ったり、と。
ただそれだけの暮らしをしていた。
しかし、優れた魔術士を次々と下していたコアイは、新進気鋭の、鉄面の魔術士として各地で噂されるようになっていった。そしてある時それを聞き及んだ『魔獣の王』が、強者との闘争を求め単身コアイの塒を襲ったのだった。
両者の最初の衝突は、結果引き分けに終わった。
コアイの護り『祝祭』を破れず、消耗した『魔獣の王』が退いたためである。しかしコアイもまた、戦場を無秩序に疾走する王へ有効打を当てることができず逃してしまった。
また二人は数か月、または数年の期をおいて、再度闘った。それを三度繰り返したが、互いの成長は同じ結果をもたらすのみであった。
ただし、『魔獣の王』と互角に闘ったコアイの評判は闘争を経るごとに高まっていった。初めの一度こそ偶然、まぐれだと評す者が多かったが……王の猛攻を予想し先んじて『聖域』を用い、まさしく完璧な護りを見せたと王の幹部にまで評された三戦の後には、もはやコアイの力を疑う者はいなくなっていた。
となれば、当然……王よりもコアイの力を恃みにして、擦り寄ろうという者が現れる。それらは全面的にコアイに従ったから、コアイも個人的に気に食わぬ者以外は特に追い払ったりはしなかったし、コアイ本人は人が集まっていても以前と変わらぬ気儘な行動を続けたが。
やがて王とコアイは、五度目の闘い……最後の闘いに挑んだ。
最後の闘いでは……人間の魔術士達に禁術とされていた魔術『金城』を人間の信仰、古い経典を手掛かりとして我流で修めたコアイが、『金城』により発生させた巨壁の囲いで戦域を限定し、そのうえで逃げ場のない全方位への乱撃をもたらす独自の魔術『天箭』を発動して……狂風と石弾で『魔獣の王』を打ち殺した。
この後、『魔獣の王』に従っていた魔族達も挙ってコアイの下に付いた。そしていつしか、コアイは『魔王』……ただし畏敬の念を込めて、『魔術の王』と呼ばれ始める…………
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「早くヤろうゼ、ヤって……次はオメェに勝ちてェ」
王は真っ直ぐにコアイを見据えて言う。
「オレサマさァ、もうそれだけが楽しみでよォ」
コアイは微笑みながらも返事はせず、視線も外さず、そこに留まったまま……一拍置いてから、詠唱を始めることで了承を示した。
「三相に分かたれし水よ、和合せよ」
「撹拌されし雫よ、風を補え」
「気液の妙を讃え、湛えよ 『祝祭』」
コアイを再び、波紋の護りが包む。
「それでいいのかァ? 今のオレサマなら、たぶんそいつはこわせる」
コアイは黙っていたが内心では、ならばそれを証してみせろ、と言い返していた。
「それにさっきの体じゃヤバかったけど、この体と毛なら、オメェの力のゆらぎをかんじ取って、なんでもよけれるはずだァ」
また、コアイは……心のどこかで王との、好敵手との対話を楽しみたいと感じていた。
『聖域』を用いたら、聞こえなくなってしまうから。




