十四 ヒトたりながら、あるいはヒト故に
「陛下、支度が整いました。出立いたしましょう」
大公からの返答を受け取った翌日、寝室で休むコアイを呼ぶ声が聞こえた。
コアイはもちろん、寝室で十分に……休めてはいない。壁に飾った彼女の肖像画を前にして、つまりは彼女のまなざしを受け続けて……心を揺らしていた。
けれどもそれは、けして苦痛ではなく。どこか心地の良い惑いで。
「わかった、少し待て」
コアイはそう答えながら目を見開いて、身体を起こし背筋を伸ばした。
「玄関でお待ちしておりますぞ」
そう返す老人ソディのしゃがれた声を耳にしながら、コアイの意識はまだ彼女に向けられている。
彼女が望む世界。翠魔族達が独立し、人間に苦しめられることのない世界。
彼女が望む世界。私が此処で、得るべき世界。
コアイは背筋を伸ばしたまま、少しの間目を閉じて自分の目的を顧みる。
すると胸の奥に、何かあたたかいものが宿る。コアイはそれを連れて行くような心地で寝室を出て、玄関へ向かった。
「アクドが馬車を牽かせて待っております、往きましょう」
コアイを待っていた老人の服装は、普段より少し華美に見えた。
衿や前立てに装飾が施されており、帯も鮮やかな色合いで煌びやかな印象を与える。肩の部分は型を取ってあるのか横に張り出していて、外側に肩当てが付いていないことを除けばコアイの着るローブに近い型である。そして頭には、頭頂部に突起の付いたつばのない帽子を被っている。
「ああ、この服ですか? 代々、我ら一族で儀式典礼に用いておる式服にございます。この城で陛下にお目通りした時にもこれを着たかったのですが、あの時は時間が足りず準備ができませんでな」
物珍しそうな目を向けていると思われたのだろうか、ソディは服装について説明を始めた。
「あの時は、火急の件ということで平服でしたが……本来ならば、相応の準備をしたいものですからな」
ソディは楽しそうに笑いながら話す。それは、近い将来への期待、希望も含まれてのものかもしれない……
「伯父貴、気持ちはわかるが……王様より派手な格好でいいのか?」
「ぬ……お前も似たようなものではないか」
玄関から出ると、馬車を繋げた馬の傍に立つ大男アクドが首をひねりながら苦言する。しかしそう口を挟んだ側の服装も、十分過ぎるほど華やかである。
「私は気にしていない、この馬車に乗ればいいのか?」
コアイは表情を変えず正直にそう告げて、馬車に乗り込む。
彼女の眩しさに比べたら、その程度の輝きは気にならないから。
コアイ達は手土産を積んだ馬車に乗り、会談の地であるボハル荒野へと往く。
「しかし、言われてみると変な話なんだよな」
街道の静けさに飽きたアクドが会話を切り出す。
「急にどうした」
ソディだけが、アクドの側へ顔を向ける。
「エルフも人間と同じように馬を働かせてるのに、馬に乗るのはよくないってのは変だろ……って、むかし一緒に働いてた人間に言われたのを覚えててさ」
「ふむ……儂の父が生まれる前から、そういう風潮があったようだ」
コアイにとってそれは初耳だったが、特に興味は湧かなかった。
「なんでなんだ? 伯父貴知ってるか?」
「馬が脚を折っても、馬を背負ってはやれない。なのに、自分は馬に乗って楽をするのか? と、儂の父……お前の祖父がそう言っていたよ」
馬を御すアクドと荷の横に座るソディの会話を聞き流しながら、コアイはただ空を眺めて中継地となる村への到着を待っていた。
そんな旅程を数日過ごして国境を越え、コアイ達はボハル荒野を進む。やがて、指定された地に帷幕が張られているのを見つけた。
馬車が帷幕へ近付き……その車輪の動きが止まるより早く、三人の男が歩み寄ってきた。
「お初にお目にかかる、私がアンゲル大公、フェデリコだ」
三人の中央にいた大公が声をかけてきた。コアイはソディに目配せする。
「ご丁寧に痛み入ります。私はソディ・ヤーリット、コアイ様より役務を任されております」
老人は跪き、深く頭を下げて名乗った。
「ヤーリット……? どこかで聞いた名だ」
「主に大陸の東部で商いをしております。こたびは私共の商う酒をお持ちしました、宜しければお納めください」
老人は大公を相手に、小慣れた様子で語りかけていた。
「ほう、丁度良い……その酒は、この場で酌み交わそうではないか。堅苦しい挨拶はこれまでにして、皆、中へ入ろうぞ」
四人が大公の言葉に従い歩き出す中、コアイは帷幕の上に停まる鳥を目にした。コアイはどこかで経験したような不快感を覚え、足を止めて鳥を睨む。
「王様、どうかしたか?」
コアイはアクドの問いには応えず、指を齧って血を滲ませる。そして傷口から血を伸ばして振るい、鳥を打ち払った。
血の鞭で打たれた鳥は声も上げずに地に墜ちたが、やがて立ち上がり飛び去って行った。
「コアイ殿、早くお越しなされ」
コアイは鳥の振る舞いに引っ掛かりを感じていたが、大公の呼び声に応えひとまず帷幕へ入っていった。
帷幕の中で卓を囲んだ六人は各々改めて名乗り、のち大公の護衛を勤める側近の一人が酒を注いだ。
「酒器を用意していなかったので、無骨な器で恐縮だが……おい、こんな時くらいお前等も飲んだらどうだ?」
大公は砕けた調子で、側近たちにも酒を勧める。
「い、いえ私どもは護衛が……」
「ふふ、この酒、王都じゃ一杯でも銀貨三枚は要る高級酒だぞ? 味見くらいしてみないのか?」
「ええ……も、もしいただけるなら、勤めの後で飲みたいです!」
「む、そうか……では、四人で乾杯しようぞ」
コアイ達と大公達は酒を楽しみながら、あれこれと語り合った。
そして場が和んだところで本題に入る……時には意見の相違もあったが、両者とも無用な戦闘、無為な流血を避けたいという意思を共有し、和平に向けた調整を進めていく…………
それは、平和なひと時。
で、あった。
「ん? なんだ……馬?」
不意に、アクドが辺りを見回した。
「どうかしたか、アクドよ」
「揺れた? ……いやすまねえ、気のせいだろう」
アクドがそう謝罪して、酒を飲み直そうと杯に手を触れた……その瞬間、山崩れのような轟音とともに、足元が揺れる!
「落石!?」
「馬鹿な! 辺りは平原、岩などどこにも……」
「お待ちください、外の様子を見てきます!」
大公の護衛二人が一旦外に出、直後に一人が駆け戻ってきた。
「で、殿下!! 敵襲、敵襲です!!」
「何者か!?」
大公は目を見開いて大きく振り返りながら叫ぶも、
「方角は?」
その初動とは対照的な、静かな問いを投げかける。
「分かりません! 北西から、武装した騎馬らしき集団が向かってきます!」
何かが風を切って飛ぶ音と騎馬が地面を踏み鳴らす低音の響きに混じって、小さな悲鳴が一つ聞こえ……それは音量を増した地響きにかき消された。
車輪の転がる音を含まないそれらは、明らかに……練度の高い騎兵隊、即ち人間の軍勢が鳴らす音であった。




