彼女のために、うかべながら
所用により更新がだいぶ遅れてしまいました。
申し訳ありません
前に森へ入った時よりも、空気が湿気ているように感じる。
風そのものが湿っぽいというよりは、温くべたついた触感。
臭いよりも肌の感覚が、薄暗く淀んだようなこの森の印象を強く思い出させる。
自分の他には動くものも少ない、沈黙の森。
その浅層から入り静寂を侵して、深奥へと。
コアイは溜息を吐いたり独り言ちたりすることもなく、淡々と森の中を歩き続ける。
視線の先に転がった倒木や石がそれを妨げても、同じ歩調でただ避けるのみ。
己の手足のほかには、動きらしい動きのない森。
己の足音のほかには、音らしい音の起きない森。
目にも耳にも、己のほかの存在を感じられない。
草の根や木の洞、石の下などを探せば、小さな虫が蠢くくらいはしているのかもしれないが。
そんな静けさ……以前と同じような。
変わったことといえば、温度と触感くらいか。
夏が近付いているせいか、温く感じる。
コアイは森の中、空気の温さを感じながら更に進む。
沼地に差し掛かるまでは、目立った難所もない。
己のほかに存在がないということは、邪魔する者もないということ。
沼地の手前、澄んだ水とその下から伸びてきたような葉と枝が茂る地点……
そこに差し掛かり、確かな前進を感じつつも……立ち止まることはなく。
少し葉が多く、枝を掴みづらく思えたが……水上の、あるいは水中の枝を頼りに底へ落ちぬようにして水溜まりを突き抜ける。
実のところ、そのような手間をかけずとも水溜まりを抜ける方法はある。
この先の沼地と同様に、敢えて水底を歩く……『聖域』を展開し、自身の周囲に不可侵の空間を確保する……という手もあるのだが、コアイは何となくそれではつまらないように感じた。
敢えて魔術は使わず、全身を使って乗り越えていく。
どうせ、後で同じ手を使わざるを得なくなるのだ。今のうちくらい。
水溜まりを抜けて、もう少し歩けば深い泥濘と、さらに深い泥水の溜まった沼地に差し掛かるというところ……
臭い、気がする……?
以前よりも強い、カビた古書の臭いが鼻に染み付いてくるような不快感。
それが、数歩進むごとに一層強くなってくる。それも、強まりとともに生臭さを伴って。
気がする……わけではない。まさしく、臭っている……
足が地面に沈み込む様子から、はっきりと泥濘を感じ取った頃には……その臭気は許容できる程度を少しだけ超えていた。
恐らくは温度が高くなったせいで、元より存在していた悪臭がより臭いやすくなったのだろう。
冬より夏の方が獣臭や血の臭いを感じやすいのと同じこと……
だがそれは、どうでも良い。今はこれに触れていたくない。
かと言って、無論引き返すわけにはいかない。
コアイの脳裏には既に、彼女の……スノウの笑顔が浮かんでいる。
コアイは想起した彼女を振り切らず……振り切れないままで、最も強力な、絶対の護りを創り出すために詠唱する。
一穴の割り込む余地すらない、特異的な拠点を。
「……風よ木よ、水よ音よ、鹿よ狼よ」
「安寧たれ静穏たれ 『聖域』」
空気中では、目に見える変化はない。魔力の密流と、「疑いなく、確実に護られた」という確信めいた感知が『聖域』の発動を知らせる。
これで、何人たりとも……否、如何なる存在もコアイの周囲を侵すことはできなくなった。
コアイに近付こうと目論む者、あるいはそのような意図を持たぬ何者であっても……コアイの身体に触れ得ず、害し得ない。
コアイが認めた者以外の、何者も。
此処には、誰もいない。
隣に居て欲しい人も、此処にはいない。
もう一度、彼女の顔を見たい。
コアイは根源的な防衛圏の中で、ふと彼女を想う。
そのまま彼女を想いながら、沼の底へと歩を進める。
前後左右、加えて上方も色合いの乏しい、泥混じりの殺風景な中で……コアイはスノウの笑顔を思い浮かべていた。
彼女の笑顔。
美味い酒を飲んで浮かれる彼女の笑顔。
語りの後の、照れ臭そうな彼女の笑顔。
二人の夜のあと、目覚めた彼女の笑顔。
さまざまな……少しずつ違った輪郭のような気がする、彼女の笑顔を思い浮かべている。
そうしていると、独りぼっちの『聖域』の中でも然程淋しくは感じない。
それに気付いて、笑みを漏らしてしまう。
それを向ける相手もいない、色彩の乏しいこの場所で……失笑してしまう。
その声は、一人しか存在しないこの『聖域』に、歓びが生まれていることを示している。
彼女の笑顔。
酒よりも自分に向けてほしい彼女の笑顔。
気にせず、開いていてほしい彼女の笑顔。
自分に向いていると実感する彼女の笑顔。
彼女の笑顔はどれも、私の喜び。
常に、私を奮い立たせてくれる。
いつも、私をあたためてくれる。
だから。
そんな彼女の笑顔のために、笑顔を向けてもらえるように。
私は生きていく。動いていく。そのために、存在する。
私は、そのために此処にいるのだろう。
私は、そのために舞い戻ったのだろう。
私が、この世界に戻った理由はひとつ。
今は、そう確信している。
ただ、私は彼女のために、此処にいる。
改めてそう感じて、踏み出す足に力が入り……少し滑った。




