彼女のためなら、汚れなど
「んっ??」
突然、怪訝な声が聴こえた。
「わっ……ごめん……」
抱き締められていた手が背中から退けられて、それから一拍置いて密着していた身体が少し離れる。
それを少し残念に感じつつ、視界に入ったスノウの顔へ意識を向けた。
すると彼女は目を逸らし強く口を結んでいる、と気付いたときには……彼女は横へ飛び退くように素早く身を離していた。
「……どうかしたのか?」
私に、何か不満でもあるのだろうか?
そんな、ぼんやりと浮かんだ心配を押し殺すように……身体の横で膝をつく彼女へ顔を向けながら、静かに身体を起こす。
「いや、その……」
何時もの彼女ではないかのように、歯切れが悪い。
抱き合っていた彼女は、何時もと変わらないのに。
「ご、ごめん……こんなに地面ベタベタだと思ってなくて、つい……ホントごめん!」
彼女はどうやら、湿気った草地に倒れ込んだ……コアイを押し倒したことを詫びているらしい。
「そんなことか、気にしなくていい」
コアイはなるべく意識して、優しく微笑んでみせる。
コアイにとっては別に、大した問題でもない。
確かに地面は冷たかったが、それが苦しいわけでもない。
背中が冷えたとはいえ、それで風邪を引くわけでもない。
それで却って、彼女のあたたかさを一層深く感じられた。
そんな気がする。
実のところ、彼女と触れ合うために全身の斥力を弱めていたから……あるいはローブの背が汚れたかもしれない。
だが彼女の装い、身体を汚すよりはましだ。
「そなたは、そんなことを気にせずとも良い」
コアイの本心が口を開かせ、改めて強調させた。
「ただ……そなたが喜んでくれたら、私はそれで良い」
そのまま、もう少し深い部分の本心まで続けて……口を衝いて出てしまった。
「……うん」
彼女は俯いて、されどそれと分かる程度には強く頷いていた。
暫くの無言の後に、ふと気付くと……木々の間が赤く照らされていた。
夕暮れ時、そろそろ日が落ちる頃。
「此処は暗くなるな」
コアイは何となく呟いて、空を見上げた。
木々と葉の隙間から見える限りでは、雲は少ないようだが……
月が出たとして、月明かりと星明かり。
私はそれで十分だろう。足りなくとも、発光の魔術を用いる手もある。
しかし、あまり夜目の利かぬ彼女を此処で歩かせるのは……?
発光の魔術を用いたとしても、そもそも足元の緩さが……
かと言って、村へ戻っても……この最果ての村では十分な食事すら得られるかどうか。
此処でも村でも、どちらにしても……彼女に飢えを覚えさせてしまう、か。
やはり、彼女には一度……
などとコアイが悩んでいると、
「んじゃ暗くなってきたし、そろそろ帰ろっか」
直ぐ側から、彼女の声が聞こえた。
先程までは、帰りたくないと言いたげな態度だったのに。
「帰る……帰しても、良いのか?」
「ま、悲しいけど〜、ていっ!」
一先ず聞き返したコアイに対し、彼女は突然手を伸ばし、コアイの耳を強く摘んだ!
その力に、コアイは抵抗しない。抵抗しないでいると……耳に引っ張られる力が加わり、連れて顔が下がった。
ちょうど、彼女の頭あたりの位置まで。
それと気付いたときには、頬があたたかかった。
それが頬に残ったまま、抱き締められる力が加わる。
「むふ〜……今日はこのくらいにしといてやる! アハハっ!」
それ等が脳裏を苛むのと同時に、耳元で大声が上がった。
「……済まない」
「そう思うなら、次はちゃんと……ね!」
深い森の静かな夜。
スノウを本来の世界へ帰したコアイは、一人黙々と『接ぎ木』を進めていた。
一度は発光の魔術で株を照らして、位置をはっきり確かめてから切面に刃を突き立てる。後、その外側から斜めに刃を入れることで小枝を合わせる穴を開ける。
次に小枝の下部を削ぎ、接面を外側に出しつつ形を整えて、切り株の穴へ差し込んで枝と株を接ぐ……
コアイによる作業の音だけが、森に広がっている。
次には、先に接いだ枝から少し離れた位置に別の枝を接ぐ……株に穴を、枝に切っ先を作って……
コアイだけが森のなか、粛々と手を動かしている。
……そういえば、一つの株には何本の枝を接いで良いのだろうか? 彼女に訊いておくのを忘れていた。
彼女はとくに何本とは定めてなかったようだから、あまり気にする必要はないのかもしれないが……一先ず今回は二、三本接ぐくらいにしておくか。
あまり多く接ごうとしても、先に接いだ枝が邪魔になる。
コアイだけが森のなか、その主のように動き回る。
おっと、枝が無くなった……村へ戻り、もう何本か持ってこよう……と、そろそろ夜が明けるか。
一晩で此処を発てるなら、急ぎ城へ戻れば早々に彼女を、再び…………
村と森を行き来したコアイを朝日が照らしている。
朝方、『接ぎ木』を終えたコアイは村に戻り、森の端の切り株には触らぬよう村長らしき人間に告げた。
そして一人馬を駆り、ただただ東へ……
居城のある東の大森林へ踏み込むと、多くの草木が芽吹き鮮やかな花が咲き、爽やかな風が吹き……南の森林とはまるで異なった趣が、異なった情感をもたらしていた。




