彼女のために、みどり求めて
前面には低木、水草、浮き葉。
後方には沼地、泥地、濁り水。
どれほどの間、沼の底を歩いてきたかは分からないが……前方、左右に沼地は見えない。
難所をひとつ抜けた、のだろうか。
コアイは水面から少し浮き出たような、低木にしては太くがっしりとした……枝とも根とも呼べそうな木本の一部が密集した場の上に立っている。
その先の足元には茎、あるいは葉が浮いて水面を覆っている。それ等はコアイが立つ木本同様、密に重なってはいそうだが……先へ踏み出せば、それ等を巻き添えに水中へ落ちてしまいそうなほど頼りなさげな存在。
とは言えども……それ等の存在や、その隙間から見える水の濁りの薄れは……今しがた越えてきた、後方の沼とは異なる場であることを示している。
木々が多いため遠く先までは見渡せないが、先へ進めばこの水場を抜けられるかもしれない。
また、先に抜けてきた沼地が……大公が言っていた「越えられぬ沼」だという可能性が高いように思える。
あれは、人間には越えようもないだろう。生えている木を伐って橋を渡すか、即席の小舟を作りでもしない限り……そのどちらも、此処では難しいだろう。
と、なれば……此処より先、この水場を抜けたところに……目当ての樹木が生えている可能性がある。
ならば、先へ行って……進まない手はない。
コアイは指先から血縄を伸ばし、点在する木々へ引っ掛けて身体を寄せる……それを繰り返して南へ向かってみることにした。
幸い、先へ進むごとに身体を預けられる大きさの木々が増えていった。また進むごとに水溜まりが浅く、また濁りが薄れ底の様子が見下ろせるようになっていった。
更に先へと木々を乗り移っていくと、水に入らずとも先の木の根へ飛び移れるほど木本が密になり……またその先では所々で水がはけて、水溜まりが泥濘へ変わっていく。
コアイは時々、木の根から泥濘に片足の爪先を差してみて……また先へ進んで、と繰り返す。その数回めで、木の根に頼らずとも歩ける程度に泥濘の水気が減っていることを確かめられた。
これなら……そろそろ沼地を抜けられそうだ。
そう感じて、コアイは思わず力んでしまい……足を滑らせて転びかけた。
それはさておき、コアイは無事に沼地、湿地を抜け……少し湿気て柔らかい土の上を歩いていた。
数日間、沼地や水溜まりを南下し続けて……ようやく、水気のありふれていない場所に出ることができた。
それでも、森に入った直後と同じくらいの湿り気を感じるが……コアイは辺りの木々、それ等の枝葉に目を向けながら歩き続けてみた。
時おり、微かにしっとりとした感触の落葉を踏む。
足が滑るほどの粘りがない、危険でない落葉には特に意識を向けず……眼前の、あるいは頭上の枝葉を注視する。
しかし、進めども進めども……目的とする樹木から生えているという葉の形、規則的にうねりながら三叉に分かれたようなつくりの葉は見当たらなかった。
それどころか、見本の絵を確かめようと思えるほどそれに似た葉を目にすることすらなかった。
木々から生えているのは、長細い葉ばかり。
少しふっくらとした幅の葉でも、三叉どころか二叉にも分かれていない細身のものしか見つけられない。
……もう少し先まで南下すべきなのか?
それとも、この辺りで一帯の木々をくまなく探してみるべきなのか?
ふと考え込んで足を止めたコアイの目の前、枯れ葉が風に吹かれて横切っていった。
枯れ葉ですら足を止めない。悩んでいても、立ち止まるべきではない……か。
……先へ進むか。
コアイはさらに一昼夜ほど南下してみた。
すると、それまで湿り気を帯びていた森の空気がカラリと乾いているように感じた。
森に入ってから、雨は一度も降っていない。それなのに感じていた、森に満ちていた湿り気が……此処にはない。
まさか、森を抜ける寸前まで来てしまったのか?
コアイは立ち止まり、辺りを見渡してみる。
木々の付ける葉には変わりがないが、幹や根が苔むしていない。
足元の土もしっかり踏みしめられる。それに、此処まではあまり見かけなかった石がいくつも転がっている。
一言でいえば、森の様子が変わりつつある。
コアイは改めて、さらに南下すべきか辺りを東西に捜索すべきか……考える必要に迫られた、そんな気がした。
そんな気はしたが、何故かコアイの意思は固まっていた。
もっと南へ行ってみよう。
此処には、なんとなく……いい予感がしないから。
何故かは分からないが……スノウが喜びそうな、そんな予感がしないから。
根拠のないはずの予感に従って、コアイはさらに南下してみることにする。
すると、ある地点で……視界の先で木々が疎らになっていた。
森を抜けてしまったのか、と思わず足を止めると……小川のせせらぎが聞こえる。
川の水……彼女と水浴びをしたのは、何年前だったろうか。
コアイは不意にそんなことを思い出して、懐かしさに惹かれてせせらぎへ足を向けていた。
しかし川に近付いてみると、川の流れは岩場のかなり下を通っていた。
また岩場は手がかりの少なそうな、表面の滑らかな岩で成り立っており……川辺に降りるのはひと手間かかりそうだった。
川の水……これでは触れられないか。
そう思ったところで、コアイは身震いした。
そろそろ、彼女に逢いたい。
淋しさを、実感してしまい。
淋しさに、耐えられなくて。
コアイは懐から、彼女の肖像画を取り出そうと……
したところで、急に胸が痛んで……身体が強張って
何時の間にか、肖像画が手を離れていた。
追い風に吹かれて飛んでいった、スノウの肖像画。
思わず駆け出して追いかけて、岩場を跳んでいた。
無心で手を伸ばして、指先が肖像画の端を掠めて。
届かない
うしなう
そんなの
目の前がぐるりと暗転、圧し潰されそうになった。
目の前を鮮やかな、数本の赤い糸が飛んでいった。
次に気付いたときには、手許に肖像画が張り付いていて。
良かった……
安堵からか身体の力が抜けて、岩に座り込みながら……大きな溜め息を吐いていた。
と、岩場の先、見下ろした低地に見える森林……
木々のいくつかに花を付けたその森が、何故かひどく好ましく思えた。




