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私は、叛乱されない魔王に ~恋を知って、恋で生きて~  作者: 者別
余聞 私達は、共に生きる二人に
272/313

彼女のためなら、逢えぬ日々も

 すみません、遅くなりました……

 濁り、臭う沼地……けして近付きたい場ではない。

 コアイにとってそれは、ただ通り過ぎるべき場所。

 近付く必要はないが、とかく越えねばならぬ場所。



 沼地の手前……土臭く、また微かに生臭い。

 コアイは湿気た森の中、一旦足を止めて辺りを見渡してみる。

 行く先の正面も、右も左も……沼地あるいは泥地と見える。見える先、土の固まっていそうな地はない。

 せいぜい、木の根が地面から露出していたり、草や葉、(こけ)に覆われた部分が見える程度。


 今は昼過ぎから夕方前ごろ、正面がほぼ南のはず。

 迂回しても沼を避けられる保証はない。沼を避けることばかり考えて、迂回しすぎたことで方向感覚を失っても困る。

 それならいっそのこと、真っ直ぐ南へ突っ切ってしまうのも一手……か。

 さて、どうするか……


 と、考えようとしたはずだったが……コアイは真っ直ぐ前に、泥濘(ぬかるみ)へ踏み出していた。

 悩んで立ち止まっている時間が、勿体(もったい)なく感じたのかもしれない。

 ずるずると滑る足元に気を配りながら進むと、ひと塊になった枯葉が目に入った。


 木の葉……一叢(ひとむら)になるほど落ちて……?


 コアイは足下で目にした落葉の集まりに何やら引っ掛かりを感じたが……そのまま歩みを進めてみた。

 そこには踏みしめ、体重を預けられるだけの固さがなかった。


 あっという間に、踏んだ落ち葉の層が沈む!

 それを感じて()ぐにもう一歩、先の泥濘へ踏み出した……しかし、そこもずぶずぶと沈んでいく!


 足を出しても、また直ぐに沈んでいき……気付けば、腰のあたりまで泥に浸かっている。

 周りに支えとなるものがないせいか、身体を持ち上げることができない。泥の表面に手をつけても、泥を掻き出すくらいしかできない。


 これは……そうか、()()か。

 この期に及んで、コアイはそう直感した。


 冬場の泥の冷たさが、身を護る斥力(せきりょく)の間を縫うかのように皮膚へ伝わってくる。

 しかしその程度の冷気でコアイは凍えないし、泥の纏わりつく不快さを感じることもない。


 だが、人間たちはそうもいかない。

 冬ならば凍え、夏ならば生臭さに意欲を削がれるだろう。

 この沼地を迂回できないなら、並の人間たちではこの先に進めないことだろう。


 などと思いながら……コアイも今、沼から上がれないでいる。


 何か支えを掴んで、一度外に……

 コアイは十数歩先に太い木の幹を見つけて、そこを足掛かりとするために指先を(かじ)った。そして、そこに(にじ)んだ血に伸張を命ずる。

 血は縄状を成して木まで伸び、そこへ二重に絡み付いた。

 コアイは血縄を強く引っ張って、木が抜けてしまわないことを確かめてから……血縄を手繰り寄せるようにして木の幹まで身体を寄せた。


 しかし……そうしてみたところで、コアイは困惑した。

 南向き、視線の先には……濁った泥水ばかりが見える。

 木をよじ登って、高い位置から眺めても……それは変わりなかった。


 ……これでは、木々などの支えを頼りに先へ進むことはできそうにない。

 しかし、今更戻るのも(しゃく)だ。

 それに戻ったところで、この沼地を避けられるとは限らない……


 ……()()しか……ないか。


 コアイには、打つ手が無いわけではなかった。

 土深く埋められ、あるいは沼深く沈んでも……コアイは対処、生存できるから。


 ……何時(いつ)ぶりだろうか。

 コアイは最も強力な、絶対の護り……絶対の拠点を創り出すために詠唱する。


「……風よ木よ、水よ音よ、鹿よ狼よ」

「安寧たれ静穏たれ 『聖域(ブルカン)』」


 これで、何人たりとも……否、如何(いか)なる存在もコアイの周囲を侵すことはできなくなった。

 コアイの認める存在以外の、何物も。


 この感覚……懐かしい。

 今では、最も好ましい場所……ではなくなった、『聖域』。

 己以外の何も聞こえず、何も臭わず、何も寄せ付けない……『聖域』。


 今では、一人で此処に拠るのは……少し淋しい気がしてしまう。

 けれど、彼女のためだから。

 いまは、彼女がいなくても。

 


 コアイは絶対的に孤独な、根源的な安全をもたらす空間を周囲に生み出した。

 それは、何の意思をも持たぬ底無し沼であってもコアイの身体を害し得ない。

 仮に、生命を飲み込み押し潰す意図を持った有害な沼地であったとしても……同じことだが。


 誤り無き安全圏を(まと)って、コアイは(おもむろ)に沼へ入ってみる。

 泥水は例外なく、コアイを包む球体の外側だけを覆う……コアイはその様子を見ながら、沼の底へと辿り着いた。


 あとは、沼を抜けるまでのんびり歩いて……しかし、真っ暗で前が見えない。

 そうか、泥だらけで外の光も届いていないのか。発光魔術を使って辺りを照らし……


 ……む、結局泥しか見えない。

 ともかく、真っ直ぐ歩けるように、意識付けて……底に線でも引いてみるか? いや、『聖域』の外では引いた線も消えてしまうか……

 真っ直ぐ進めていると信じて、歩いてみるしかない。幸い、集中を乱すものも此処にはない……


 ん? 護りの先に時おりぶつかる、この白い塊はなんだろうか……石? いや石は水に浮かない……骨かなにかだろうか……?




 どれほどの間、沼の底を歩いていたのか見当もつかない。

 コアイはただ、何の音もなく殺風景な空間を辛抱強く歩き続けて……やがて木の根らしき紐状の物体が壁のように広がる一角を見つけた。

 そこをよじ登ってみると……低木や水草が池から浮き出て密集しているような、奇妙な水面に出ていた。

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