逢える時を、想いながら
これ以上、この街に居続ける理由はない。
コアイは大公と別れて早速、宿を引き払った。
懐に入れてある紙や小物の他には、大して価値のあるものもない。
寝室内の荷の確認もそこそこに……宿の主へ預けていた乗馬の用意を頼み、ついでに宿代を渡した。
先のように魔術で攻撃されるでもなく、良き発見ができるでもなく……ただ待ちくたびれて、大公に会っただけの街。
コアイはそこに背を向けて、城門をくぐり去っていく。
城門の端では、街へ着いた際に話しかけてきた男が立っていたが……今日は声をかけてくる様子はない。
もちろん、コアイの側からわざわざ話しかけることもない。
ただ風と馬蹄の音だけが、何もない街からコアイを送り出す。
コアイは国境を越えるため、エルゲーン橋へ戻ろうと馬を走らせながら……馬上で様々に考えを巡らせていた。
南方の森……沼地を越える必要があるらしい。
森の中に人が沈むような沼地がある、などという話は聞いたことがないが……人が沈むような地ならば、馬では行けぬか。
私一人なら問題はないはずだが、馬は足を取られれば溺れるかもしれない。
しかし近隣の城市へ馬を置いて歩くとなると、森へ着くまで何日かかるだろうか。大公がタブリス領の最南端、最も森に近い村落の話をしていた……気がするが、名前を忘れてしまった。
あ、サラクリートを出る前に一度……スノウを喚んでおけば良かったか。
……いや、それは違うか。あの街には彼女を饗すのに適した酒場も、連れて訪ねるような場も無い。
例の魔術を受ける虞はなかったとしても……彼女を楽しませられず、退屈させてしまったのでは申し訳ない。
危険がなければ良い、というわけでもない。
南方の森……沼地の先に、目当ての樹木が生えているらしい。が……
森の中に、人が沈むような沼地があり……そこを抜けて、その木を持ち出した先人がいたということだろうか。
それとも、その先人の頃には沼地を迂回できたのか。あるいは……過去には沼地よりも北、つまり手前側に目当ての木が生えていたという可能性もあるか。
いや、それを考えても意味がない……人間たちが失敗したということは、おそらく沼地は越えなければならないのだろう。
などと、あれこれ頭に浮かべながら進んでいると……何時しか日が落ちかけていた。
コアイを乗せた馬にとってもコアイ本人にとっても、先へ進む分には月灯りだけで十分に明るい。周りに小屋が点在するのを横目に、コアイは馬を駆けさせたが……
少し進んだ先、完全に夜を迎えたころ……焚き火の明かりが一軒の小屋を照らすのが見えた。
コアイの馬はそれを目にして、なにか感じるものがあったのか……単に疲れ果てたのか、ともあれ馬は駈足を緩め歩きだしていた。
「おーい、そこの人」
そのせいかは分からないが……馬蹄の響きが止んだとともに、焚き火の側から声が聞こえてきた。
コアイは特に言葉を返さず、先へ進もうとしたが……
「待った待った、この先は行けないよ!」
焚き火の側から人影が一つ駆け寄ってきた。
コアイには相手をする気もなかったのだが、馬が人影のほうへ顔を向けて立ち止まってしまった。
「旅人さん? もしかして迷ったのかい?」
近付いてきた人影は人間の男らしく見えた。
得物は手にしておらず、また賊を思わせるような粗暴な様子は感じない。
「……何だ」
道に迷ってはいない。山賊でもなさそうな者が、何用か。
コアイは面倒に思いながら男に応えた。
「この先はエルゲーン橋だけど、夜は渡れないよ」
「何故だ」
「なぜって、そりゃ決まってるだろ。足元が暗いから、足を踏み外して橋から落ちちゃうぞ」
男は溜め息交じりに首を振る。
男は男で、コアイの問いに少し呆れているのだろうか。
「俺たちもこんな夜じゃ、怖くて案内なんかできないよ」
「案内が必要なのか」
「俺たちも怖いが、アンタの馬だって橋の前で立ち止まって動かなくなるだろうよ」
どうやらこの男はエルゲーン橋の橋守らしい。でまかせを言っているわけではなさそうに感じる。
確かに、夜にあの橋を渡ったことはない。
最初に渡ったときは、夕暮れ時……スノウと一緒だった。あのときも、橋守が「今日はこれで最後」などと言っていた。
「悪いことは言わねえよ、今日は少し戻って、空き小屋で泊まっていきなよ」
コアイは男の言に従い、少し引き返した先で見つけた小屋に入ってみた。
中には誰もおらず、机と椅子……それと、布の敷かれていないベッドが置かれている。
誰もいない……
コアイはふと、思い付いてしまう。
スノウを喚びたいと。
されど、懐に手をやって彼女の描かれた肖像画の縁に触れた……触れたところで、その思い付きを押し止めた。
いや、此処では良くない。
此処には彼女を饗せるだけのものが、何もない。
彼女に与えるものもなしに、喚ぶものではない。
私が彼女に逢えれば良い、というものではない。
私は彼女に逢いたい、触れられたい……けれど。
それだけでは、いけない。
いまは、ひとりで眠ろう。
コアイは骨組みと床板だけのベッドに寝転がった。
硬い寝床で、そこで肖像画の彼女をただ見つめて。
コアイは彼女を想い、眠れない夜を明かした。
淋しい夜が通り過ぎて、もどかしい朝が来た。
ひとりの朝を迎えて、高い橋の先へと進んだ。
大きな川を越えた先、少し南の城市を訪れた。




